短編小説「ふるさと」

ふるさと
 
 子供の頃から慣れ親しんだはずの我が家の急な階段を一歩一歩細心の注意を払って登ってゆく僕はまるで小人の国に漂着したガリバーになったかのような違和感を覚えていた。
 
「我が家」というのは正確な表現ではない。関西への出張のついでに立ち寄って一夜を過ごすだけ。敢えて言うならば「かつて我が家であったもの」だろう。

 それでも自分の部屋を間違うという事はない。すべてがミニチュアになったような家の階段を上りきってすぐ左手にある六畳の間。重厚な板で作られた引き戸を開いてかつての「自分だけの城」を覗いてみる。
 
 南向きのベランダへ通じる掃き出し窓からはもう初夏といっても良いほどのほとばしる陽光がどんよりとした僕の心を突き抜けるように差し込んでいる。

 物干し竿の向こうには子どもの頃には影も形もなかった──そこがかつて畑だったのか空き地だったのか記憶は定かではないが──三階建ての個性に乏しい建売住宅が外様大名の屋敷のように軒を並べていた。
 
 電線に並ぶ雀の群れがペンキで塗りたくったような鮮やかな青空をバックにしてまるで静物画の一員になったかのようだ。

 そこへ低い唸りをあげて白地に青のマークのエアバスが近づいてきた。摩天楼が聳えるキタの繫華街から車でわずか十分、都会の喧騒を避けてぽつんと佇むエアポケットのような静かな住宅街。

 同級生は学校を卒業するとこぞってここを出ていった。とどまったのは家業を継がざるを得ない人間と地元で役所の仕事にありついた奴らくらい。老人だけが残された街で朽ちていくだけの人生がこわかった。上空を通過する飛行機を毎日飽きることなく眺めていた。(こんな街、でていってやる。いつかあの飛行機のように自由に世界をはばたくんだ)、そう願っていた。
 
 エンジン音に驚いた雀たちはそこでようやく生き物であったことを証明するかのように一斉に飛び立った。陽の光をうけてキラキラと輝く機体は轟音を響かせながら悠然と上空を横切り、あっという間に川向こうへ飛び去って小さな黒い影となった。
 
 まるで他人の家に無断で上がるような感覚。
おそるおそる足を踏み入れた僕をうぐいす色の壁がそっと迎えてくれた。安堵に胸をなでおろす。落ち着いた色合いの壁があるがままの僕を抱擁してくれるようだ。そっと手のひらで触れてみるとぽろぽろと砂のようにこぼれて落ちた。
 
 楽しい思い出よりも重く沈んだ日々が多かった少年時代の僕にとってそのざらざらとした触感のうす暗い壁はまるで自分の気持ちを代弁しているようで、明るい白のクロスや板張りの部屋を心から羨ましく思ったものだ。それなのに今こうして向き合ったとき、すさんだ心がすうっと癒されるのはどうしてだろう。
 
 僕はふっと自分の今の生活を思いやった。値上げを懇願する下請けに原価を無視して無茶な値引きを強要する取引先。反抗期で口さえ聞かない子供たち。ぎくしゃくした妻との関係はどこへ行きつくのだろう? こうしてつかのま東京を離れていても悩み事は次から次へと溢れてくる。腰に両手をあててぐいっと背をそらし、心労で凝り固まった首の筋肉をほぐすようにぐるりと部屋を見回してみる。ごきごきと骨が軋むような音がした。
 
 南西の角にあった学習机はいつのまにか取り払われていた。小学校に入学した時に買ってもらったスチール製の机。僕がそれまでに買ってもらった玩具やゲーム機たちよりもはるかに大きな「自分だけのもの」。その机が運ばれてきた日、玄関まで迎えた僕は「邪魔になるからあっちに行ってなさい」という親の言いつけに背き、梱包が解かれて徐々に組み上がっていく机を、固唾をのんで見守っていた。
 
 ようやく完成したとき、配達のおじさんは「さあボクのものだ。大事にするんだぞ」と僕の頭をぽんと叩いて片目をつぶった。正面のパネルに時計や温度計、そして自動鉛筆削りさえも装備されていたその巨大な『装置』には夢がぎっしりとつまっていた。波動エンジン注入完了、出発進行! ──コックピットのような学習机の前に座ると僕は宇宙戦艦ヤマトの艦長になりきり、果てのない銀河への旅路につく夢想に浸ったものだ。
 
 大学を卒業するまで使いたおした。決して大事に使ったとはいえない。レールが錆びついてガタが来た引き出しに、蛍光灯を交換しても再び灯ることのない照明器具。
 
 昭和の香りがふんだんにするレトロなアンティークといえば聞こえはよいが、思い出をとりされば粗大ごみでしかない年代ものの子供用学習机をいとおしく残しておくほど僕の母は感傷的な人ではなかった。おそらく僕が出ていったあと淡々とした顔つきで厄介払いでもするように捨て去ったのだろう。仕方ないさ、そう頭では理解していても改めてがらんとした空間を見ると言いようのない寂寞とした気持ちが湧いてくる。 
 
 僕は自分だけの宇宙戦艦がかつて占拠していた一角を注意深く眺めてみた。畳の色はそこだけ陽の光にさらされなかったせいか、机の重さでへこんだ代償のように青みがかった色あいをわずかに残していた。
 
 長いあいだ家具に踏みつけられた畳にはカビが生えてもおかしくないのにそこだけなぜか奇跡のように四十年以上前の新築時の色を残していたのだ。

 その青さに初めて新居に越してきた日のことがまるで昨日のことのように脳裏に蘇る。ふんわりとしたひのきの香り、青畳のむせかえるような匂い。

 僕はその懐かしい匂いがむしょうに恋しくなって畳の上に大の字に寝そべってみた。ひんやりとした畳に体を横たえて目を閉じてゆっくりと息を吸い込むーー。しかし膨らみかけた僕の心の中の風船はいとも簡単にしぼんでしまった。
 
 陽に灼けた古畳からは僕の期待をあっさりと裏切るように、こびりついたかびの臭いしかしてこなかったのだ。深いため息をついて天井を見上げてみる。
 長方形の天板が一列に並ぶ和風の天井。かまぼこ型の曲線を描く木目にしみついたまだら模様には、少年の日々の切ない思い、悔しさ、跳び上がらんばかりの喜び──僕の青春時代の思いのひとつひとつが閉じこめられているようだ。そうしてそこには僕が去った後の沁みも含まれている。

 僕と同じように年輪を重ね、疲れ切った中年になりさがった天井板。そこから吊るされている水くらげの傘のようなLED照明だけが違和感を放っている。
 じっと眺めていると、違和感を放っているのは実は自分ではないか、と思えてくるから不思議だ。もうここにお前の居場所はないんだよ、と「新入り」に言われたようで、僕は、ルーキーに追い出されるように先発の座を失い、ベンチでやるかたなく悄然とする元4番打者のように見えたかもしれない。
 
 僕がそういうと、「真輔さんが帰ってくるって聞いて慌てて取り換えたんよ」母はいいわけするように僕を見上げた。僕は返す言葉がなかった。息子はいつの日か帰って来てくれるはずだ、とわずかな望みを託すような母の作り笑いが胸に重くのしかかる。
 
 老母の一人暮らしには大きすぎる家をどうするのか。そうして母が倒れたらだれが面倒を見るのか。答えのない問いかけばかりが頭の中を錯綜する。年老いた母のたよりない後ろ姿を見つめながら僕は苦い息を吐き出すことしか出来なかった。
 
 ハンガーが掛かっている壁の長押(なげし)に「山栄館」と相撲の番付のような字体のステッカーが貼りついている。忘れようもない、高校の夏合宿で毎年訪れた白馬の民宿。
 
 強くなるにはとにかく根性を鍛えろ、という時代だった。猛練習に明け暮れる毎日。夕闇が迫る頃、足をひきずりながらとぼとぼとグラウンドから帰った宿。サロメチールの匂いで溢れていた大広間、歯ぎしりをしながら爆睡していた同級生、練習後にかぶりついたみずみずしいスイカの甘さ。当時はその名前を耳にすることすら怖かった宿にまつわる思い出が妙にノスタルジックに僕の胸をうった──あのちっぽけな宿はまだあるのだろうか? 
 
 そのステッカーの右の柱に日めくりカレンダーが掛かっていた。ヤマニ酒店。近所の酒屋のものだ。三月三十一日。ああ暫くめくっていないんだ、と思って手をかけようとした僕は急に頬をぴしゃりと打たれたように愕然とした。
 平成四年三月三十一日、大安。それは僕が三十年前に家を出た日だった。僕は激しく混乱した。机やコンポや本棚、僕にまつわるものはすべてと言っていいほど処分された部屋に、僕が捨て台詞を吐いて出ていった日のままのカレンダーが佇んでいたのだ。そこで時が止まったカレンダーは愁いに満ちた表情で静かに僕を見つめていた。
 
 陽が傾き始めると共に西の窓から晩春のやわらかな風が吹きこんでくる。レースのカーテンが磯に打ち寄せる白波のようにゆらゆらと揺れている。僕が一番好きな時間帯だった。
 
 アルミサッシの網戸を空けはなってゆっくりと顔を突き出してみる。河川敷の堤からわたってくる草の匂いを胸いっぱいに吸い込む。

 春に芽吹き、夏にぐんぐんと伸び、秋に枯れて冬に死んでゆく。あれから半世紀近く時を経た今でも変わらずに命のバトンを繋いでいる。

 僕が家を飛び出してからまもなく祖父母が立て続けに他界し、四年前には父も鬼籍に入った。顔や名前すらも知らない子供たちがこの街で育っている。この星の長い歴史からすれば人の営みさえも堤にしげる名もなき雑草となんら変わることないちっぽけなものだろう。 
 
 シェパードを連れた老人が茜色に染まった堤の上の遊歩道をのんびりと歩いているのが目に入る。屈託なく笑いながら追いかけてくる十歳位の少女は孫娘か。

 
「春風や堤長うして家遠し」──この地で生まれた俳人が望郷の念から詠んだとされる俳句が僕の頭をよぎった。
 
 視界の右端からザッザッザッと軽快な足音をたてて走ってきたランナーが老人たちとすれ違い、瞬く間に画面から消え去ってゆく。
 
 暮れなずむ街のおだやかなひととき。
 いつもと変わらないであろう人々の営み。
 やがてそれらの景色はゆっくりと薄墨を引くような夕闇に溶けていった。

 カラスの群れが遠くで鳴いている。僕は目を閉じ、母の懐のように温かい春の風に心をゆだねていた。
 
「真輔、ご飯できたわよ」階下から響く母の声で我に返った。その声はいくぶんうわずっているように思えた。明日僕が帰京すれば母は一人暮らしに戻る。東京では悩ましい問題の数々が待ちかまえている。でも今日だけはこの家の息子でいられる──。僕はかつて我が家であったもののすべてを抱きしめたくなった。
 
「そうそう、洗濯物入れてくれた? それから食べる前にお父さんの仏前にお供えしといてな」やれやれ、人使いの荒いのは昔から変わんねえなあ、と呆れた僕は「ハイハイ、わかってるって、母ちゃん」と叫び返すと、子供のころのように二段飛ばしをしながら猛スピードで階段を駆け下りていった。

                  終

りゅうりゅう


#創作大賞2025 #オールカテゴリ部門

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