『ハムレット』はオフィーリア抜きでも成立するか?

ウィリアム・シェイクスピアの名作のひとつ『ハムレット』
一人の男がとことん悩み抜いて、殺された父の敵をとるという、復しゅうを果たすという筋書きと思っていた。
しかしSPACにて上演された『ハムレット』を観て「ちょっと違った」と気付けた。悩み抜いて、そのさきに……開き直った?少なくとも私にはそう見えた。罠が張り巡らされた決闘に、あえて挑むハムレット。何が起こるか予知しながらも闘う。どこか自ら罠におちていくような……。自ら滅びへと向かっていくという印象。そのむなしさ。

多フィーリア!

ただ、今回はかなりアレンジが効いた『ハムレット』で、全てを知るホレイシオ(ハムレットの友人)があらすじを語り終えたとき、あちこちから白いドレスを着た人物が乱入してくる。聞けばみな口を揃えて「オフィーリア」という。その数なんと11人。そして口々に
「さっきのあらすじに私の名前が出てこない」
と憤るのだ。ホレイシオは言い返す。
「オフィーリア抜きでも『ハムレット』は成立すると気付いた」と。もちろんオフィーリアたちは猛反論。そしてオフィーリアたちは役割分担をして『ハムレット』を上演することを決行する。
開幕してから約10分、これだけのことが起きる。
そして担当していた役を終えたオフィーリアはその場にとどまり植物とか動物とか「その場にいる何か」を演じ始める。

『演じる』を揺さぶる

演者は役を演じる。舞台上では役、袖に引っ込むと小休憩みたいな「行ったり来たり」がある。また基本は一人一役、ときどき二役を兼ねることがある。
そういうお約束みたいなものを壊しにきたスタイルが今回の『ハムレット』だった。
特に「その場にいる何か」を演じるというスタイルは……
「おまえどんな役で出たの?」
「木」
みたいなよくありそうで実はない(?)ギャグを大真面目にやったらたぶんああなるんだろうな。
元から身体表現を磨いているSPACの俳優さん(ムーバーってやつですね)その道のプロが本気でさっきあげたギャグをやっているような、もうそれだけで見ごたえがある。

ハムレット以外に光を当てる試み

パンフレットによればハムレットは『西洋近代知性主義』の先駆者というものになっているらしい。確かに台詞の中に「人間と神との類似点」について考える内容がある。しかしどれだけ考えても死については
見えてこないわからない、という。
なによりハムレットは魅力的にみえる。その台詞、その佇まい。おそらく多くの演者を魅了している役のひとつがハムレットだろう。
対極にいるのがオフィーリア。反理性的というか周囲の言いなりで自分の主張はあまり見えてこない人物像。
おそらくホレイシオが「オフィーリア抜きでも成立する」と言い出したのはこういう視点からきているのかもしれない。オフィーリアは理性的でない、ボヤンとした像だからと。 ホレイシオも『西洋近代知性主義』の一端を担うキャラと言えよう。

光を当てたそのさきは?

ホレイシオ以外みんな死んでしまった。残されたホレイシオは「僕は正当な語り手だ」と再び主張するが……オフィーリアのようなものたちが
( ̄b ̄)
こんなことをする。
「あとは沈黙」
ハムレットの辞世の句……句というには短すぎる位の独白である。その体現か。
舞台上にはオフィーリアのようなもの……だったものたちが動き回る。そして嵐のように立ち去っていく。取り残されたホレイシオ……のようなものは、沈黙するばかり。
ハムレットというとても大きなアイコンの裏に隠れがちなものたちに光を当てた、奇妙な、興味深い演出だった。

今回のオフィーリアの描き方

たくさんのオフィーリアを用意してオフィーリアがいろんな役を演じるという構成は、かえってオフィーリア像をボンヤリとしたものにした、と指摘される方がいて「なるほど確かに」と思った。たくさんのオフィーリアが出てきてワイワイするところ以外は、あまり印象に残っていない。
でも「オフィーリア抜きでも成立する」というホレイシオと「オフィーリアをはじめ影に隠れがちなものたちを掬い上げる演出」という意図とが綱引きをしあって、見終わって考えるほどに
オフィーリアというものが浮き彫りになる
そんな仕組みじゃないかと思えた。

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