祖母の死
2026年(令和8年)2月1日14時50分、祖母(普段からばーちゃんと呼んでいたので以後ばーちゃん)が息を引き取りました。98歳でした。
晩年は施設に入っていたので、1月18日にちょっと危ないですと連絡もらって、毎日でも面会に来ていいと言ってくださったので、母とほとんど毎日会いに行きました。
19日に見た時、呼吸をしているだけで横たわっていて、母が頬を軽く叩いても反応せず、心電図だけが音を出していました。それでも安定した音だったので、ひとまず私たちは帰りました。
それから2日後、また会いに行くと、背もたれが持ち上げられ、ばーちゃんは意識が戻っていました。
2日前のことが信じられないくらい、母と会話も出来て。「お昼食べた?」と訊ねる母に、「食べた」と返事。あんぱんをよく差し入れていたので、あんぱんの話になると、とたんに笑顔でした。
その様子を動画におさめることが出来ました。
それから2月1日。
母は施設から危ないと連絡もらってから、遺影になるような写真を写真屋さんに頼んでいて、この日の10時に出来上がって受け取りに行き、母と兄と私で施設に11時頃面会へ。その時は肩で息をしている様子で、口で呼吸をして目は閉じていました。
私たちは一旦家に帰りお昼ご飯を食べ、13時に典礼会館さんに、もし亡くなった場合、すぐに必要な現金はいくらくらいかかるのかなどの話を教えてもらいに行き、また家に帰りました。
そして14時頃に施設から電話が入り、呼吸が荒くなっているのですぐに見に来ていただいた方がいいと思いますと言われ、母は出掛け、私は夕飯の支度をしながら家に残りました。
ほどなく、母が帰ってきて泣きながら、外に来てくれ!と。
そこには典礼会館さんの車で、ばーちゃんが連れて来られて、家に帰ってこさせてくれました。
その様子を家にいた兄と一緒に見て、写真を撮っても大丈夫だと担当の方が言ってくださり、1枚写しました。
それから16時半過ぎには典礼会館さんに移動して、打ち合わせが始まり、親戚に声をかけたり慌ただしくなっていきました。
翌日は友引だった為と、火葬場の予定とお寺さんの予定の関係で、3日の枕経・湯灌・納棺、4日に通夜、5日に火葬・葬儀と日程が定まり、家族みんなで会館にいて、母がすぐに知らせた近所の方がみえました。
「おばちゃん…」
詳しく話していたことは忘れてしまいましたが、近所(お隣りさん)で親しくさせてもらっている方が手を合わせてくれました。
まだ棺にも入っていないので、なんと言うものなのか知識なく…唇に大きな綿棒のようなもので水を塗ってあげる儀式?末期の水?というのをそれぞれ1人1人、一度だけ最初にしていきました。
必ずしも式場についていないといけない訳ではないと典礼会館の方におっしゃっていただき、私たちは家に帰り休みました。
それから2日の日は、友引で何をする、みたいなことは無く、お世話になった施設の担当の方がすぐに手を合わせてくれて、施設での楽しそうなひとコマを1枚にまとめてラミネートしたものをくださり、見ると中央には、施設でのお化粧を楽しむ会の時にやってもらったらしい、笑顔の写真。周りには恵方巻き作り?海苔を巻こうとしている様子、節分の豆まき、何か食事中に笑顔で振り向く写真、桜の木の下で車椅子でバンザイしている写真、とても楽しそうで素敵なものになっていました。
すぐにお鈴の近くに置かせてもらいました。
そのあと親戚の方もみえて、「〇〇さん、よく頑張ったなあ…」と声をかけながら、水を塗ってくれました。
母の従兄弟と母の妹の旦那さんが来てくれて、相談に乗ってくれて、更に詳しく打ち合わせをしたり。
親戚と言っても電話番号をきちんと把握している訳ではなかったりで、母の従兄弟が連絡先を教えてくれたり、代わりに直接連絡をとってくれたり。
本当に助かりました。
この日もみんなで家に帰り休みました。
2月3日になり、枕経にも親戚のみなさんが来てくださり、お経を読んでもらった後のお坊さんの言葉がすごく心に響く内容で(でもあまり覚えていませんが)、涙が溢れました。今のご時世、みんなマスクをしていたので、鼻水じゅるじゅるは誤魔化せましたが、替えのマスクを持っていて良かったです。
その後、湯灌・納棺に進み、納棺師さんが3人みえ、旅立ちの準備を見せてくれました。
湯灌は立ち会いませんでしたが、顔にお化粧をするのに、チークと口紅をご家族の方がされても構いませんとのことで、母の妹と2人で塗ってあげました。
98歳のおばあちゃんにしては、ご飯が食べれていたからか、頬がふっくらとして、シワもあまりなく、髪の毛もしっかりあって、若々しい印象でした。
お化粧これでよろしいですか?の声に、父が鼻の頭にも少し赤みを入れてくれないか、と。
肌の色が黒いばーちゃんだったので、自然な感じになりました。
ファンデーションも、下地も塗ってくれて、自然な感じに塗ってもらったので、本当にただ眠っているだけのようでした。
みんなで髪をクシで梳かしてあげてください。と言われて、みんなで梳かしてあげました。
そしてみんなで棺に納めるのに持ち上げた時、いくらみんなで持ち上げたとはいえ、とても軽く感じました。
背が低いばーちゃんだったけど、元気な時は体格も良く、しっかり食べる人だったから、こんなに小さくなったんだな、と。
棺に納まって、枕元に、母の妹がプレゼントしてくれて施設の部屋で飾っていたうさちゃんのぬいぐるみや、造花の花束や、小さなぬいぐるみたちを入れて、会館さんで用意していただいた見送り鶴?折り鶴を添えてあげました。
この後は蓋が置かれるので、直接触れることが出来ません、とアナウンスされ、蓋が置かれました。
窓から、眠っているだけのような、お化粧をしてぬいぐるみたちに囲まれて綺麗なばーちゃん。
お昼になって、親戚の方が味付けご飯とわかめの和え物を差し入れてくれて、お昼ご飯用意していなくてとても助かりました。
落ち着いた頃に、母の教会の神父さまたちがみえたり、近所の方、母と私の共通の友人、先の教会の信者さんたちが時間をずらしてまた来てくださり。それぞれの方たちと、割とゆっくりお話し出来ました。
夜は母が節分の恵方巻きをスーパーで家族分予約していたので母が受け取りに行き、家族だけで食べ、この日も家に帰り休みました。
2月4日の通夜では、お坊さんが拝みに来るとかではなく、お勤めはありません、とあり、夜にお寿司を頼んでいたものを親類のみんなで囲むことになっていて、朝からばーちゃんの友達だった方の娘さんがみえたり、じーちゃんばーちゃんの仲人さんの息子さん夫婦がみえたり、近所の方、町内会の方、親戚の方たち、兄の職場の方たちなど、たくさんみえました。
東京にいる従兄弟も、お昼頃には着いて、おじちゃんと一緒にお昼を食べ。
夕方は少し慌ただしくなり、私と母は離れて対応するタイミングもありました。
お寿司が届き、母の妹とその家族、母の従兄弟などで囲みました。そこでばーちゃんの思い出話をみんなで語りながら、美味しいお寿司だなあと思いながら、あれこれ話しました。
そんなこともあったなあ、という話も聞けて、懐かしかったです。
そろそろお開きにしたいと思います、と父が締め、片付けをして家族だけ残りました。
少し明日の打ち合わせをして、母は会館に泊まることになり、父と私と弟は家に帰りました。
2月5日。朝8時45分には出棺経が始まるため、早めに家を経ち、会館に泊まり込んでいた母と合流しました。
母から、前の日の遅い時間に東京にいる従兄弟が帰ってきて駆けつけてくれたよ、と。火葬前に着いてくれて良かったです。
ほどなく出棺経が始まり、お小遣い銭を入れるタイミングで10円玉か100円玉をご用意ください、と白い袋の中に集められました。
穀物の入った小さな袋なども一緒に入れ、守り刀を胸元に携え棺に納め、お花をみんなで手向けて別れを告げ、蓋が締められました。
そして霊柩車までみんなで運びました。
火葬場は少し離れていて、喪主である父が霊柩車に同乗し、他のみんなはそれぞれ自家用車で後に続き火葬場へ向かいました。
火葬場では、母の同級生が駆けつけてくれていて、従兄弟夫婦が受付を手伝ってくれて、火葬場の方と典礼会館の方の指示に従いながら、ご焼香をして、炉の前に並びました。
炉の中に納められ、点火の合図でボタンが押され、合掌をした時、誰かすすり泣く声が聞こえました。
振り向くと、母でした。
その後は骨になるまでの間、広間でしばし休憩で、手配していただいたおにぎりを並べて、母が用意して、会館さんで預かっていただいていたペットボトルのお茶と何本かのノンアルコールビール、お菓子、漬物を並べました。
全員としっかり話すことは出来なかったけど、何人かとお話し出来て、1時間くらい経った頃だったのか、収骨に集まるよう言われ、並んで場所まで移動しました。
量が少なく感じられた骨。
でも骨太に見えました。
みんなで拾い上げ、集めてもらい、容器に入れられるところを眺めていると、弓なりの綺麗な骨が見えました。アゴのようでした。
細いけどあんなに綺麗なんだなあと、つい眺めてしまいました。
後で従兄弟が、そのアゴの骨を拾った話をしてくれました。
収骨が終わり、広間では片付けをして、葬儀が行われるお寺への移動となりました。
お寺に着くと、三匝(さんそう)をするので母が遺影を、父が位牌を、私が御骨を持って待っていてください、と言われ、みんなが到着するのを待ち、揃った時に三匝が始まりました。
ゆっくり3回回って歩いて、本堂の中に進みました。
13時からの葬儀の予定でしたが、直接お寺に来てくれた友人たちや、父の実家から来てくれたおばちゃんと従姉妹もみんな揃ったということで、13時になる少し前に始まりました。
お経を読んでもらい、お別れの言葉の時は私が孫代表で読もうと準備していたので読みました。
マイクを前に、泣き出しそうになりましたが、ひと呼吸ふた呼吸置いてどうにか読むことが出来、私なりにばーちゃんに感謝を伝えられたかなと思いました。
父が喪主からの挨拶をして、葬儀は終わりました。
そのあとすぐに百か日法要を済ませるので、親族のみで残りました。
後飾り祭壇を典礼会館の方がみえて作っていただき、神棚は神封じ?をして、仏壇の前の準備もしました。
お弁当をみんなで食べて、ひとまず葬儀を終えられたことに安堵しました。
次の日、東京に住んでいる従兄弟たちは、おじちゃんと一緒に、東京に帰る前に家に寄ってくれました。
それから何週間かは、すぐに初七日が来たり何だかんだと過ぎていきました。私は作業所を念の為2週間休ませてもらっていたので、家のことをしっかり出来ました。
今回のことで、色々知らないことが多いなと気付かされました。すぐにばーちゃんの口座は凍結され、残高を引き出す為の手続きや、これから入る年金の手続きなど、お金にまつわるところや、我が家のルールを改めて見直ししたりとか。死後何日以内に済ませないといけないことも多く、大変ですね。
これを編集している今は、百か日忌も過ぎ、納骨も済ませ、だいぶ落ち着いたものです。
典礼会館さんや、施設のみなさんや、家族、親戚、ご近所さん、友人たち、色々な方の支えがあって、今日があるのだなあと。
