Revenant Doll 第9話
第2部
2 ウロボロス
明後日現地入りする。予定は一泊。夏休み初日の午後、「王侯の寝台」の上で水際の耳元にそう告げた。彼女の規則正しい鼓動を胸の下に感じながら、二呼吸ほど遅れて「そう。気を付けるのよ」という囁きを聞いた。
「気を付ける? 何に」
「取り殺されないように」
「気を付けなさい。取り殺されぬように」──。これが呪いの言葉であることを、彼女はもちろん承知している。俺が取り殺されたら、彼女は寸分も作法を外すことなく悲嘆に暮れる。そうやって約束ごとは美しく完成する。舞台の下では観衆が、その瞬間の訪れるのを息を詰めて見守っているというわけだ。
「俺は素人じゃありませんよ。生徒会長さん」
彼女の頬が緩み、その後続いた低い呟きを、俺は間近に聞き取った。
だっさ。
仰せの通りです。そして俺には、あなたに取り憑いているモノを祓うだけの力がない。ただただそれが残念です。白々しくも俺は心の中でそんなことを呟いていた。
正しくは、力がない以前に祓う気もないのだが。
そして当日。最寄り駅の駅名看板の写真を添付して「これから出発します」というLINEメッセージを水際に送った。「ご苦労さま!」という返信が来たのは三時間後だった。
電車を二回目に乗り換えた時には、真夏の長い日差しも傾き始めていた。車窓の外は、慣れ親しんだ首都圏の住宅地風景が次第に遠ざかり、起伏の多い地形と濃い緑に支配されていく。
思えば修学旅行でも家族の行楽でも、北関東方面には馴染みが薄かった。少し足を延ばせば箱根や伊豆にすぐ出られるし、富士山の姿も日常風景の一部になっていて、間近に見たければ小一時間も電車に乗ればいい。東京は別にして、神奈川県民の行楽先が西方向に傾くのはごく自然だと思う。
強いて言えば中等部二年の時の体育実習で、**県北部のスキー場に行ったことがある程度だ。あの時、電車の窓から雪を頂いた冬山が次第に近づいてくるのを眺めて、どういうわけか胸を締め付けられるような思いがした。半ば修学旅行みたいなものではあったが、雪の降りしきるゲレンデで、寒さに震えながら未経験のスキーに挑戦するのは苦行でしかなかった。俺にとって北関東という地方のイメージはあの時に完成されたのかもしれない。
夏場であればなおさら馴染みは薄い。そんな「アウェーの土地」だからこそ、目的地の駅が近づくにつれ、圧迫感は次第に重くのしかかってくる。軽く探りを入れるだけだと何度も自分に言い聞かせたが、ほとんど効き目はなかった。
単線の無人駅に降り立った時には午後六時を過ぎていたが、まだ周囲は明るい。三角屋根の下に丸い時計の掛かっている昔の木造校舎のような駅舎の外に立つと、蒸し暑さで汗が噴き出てくる。駅前ロータリーの近辺は人も車もたまに通る程度でしかない。
市街地のすぐ外には緑に包まれた小高い山が迫り、アーケードに覆われた街路が緩いカーブを描きながら山裾へ上っていく。ここからさらに奥地は、多くの行楽客を集める国内有数の観光地へと続いている。
県北部の観光エリアは、首都圏に近い温泉地や避暑地、スキー場として古くから開発が進んできた。つまり嬉野小周辺のロケーションは、首都圏からの行楽客にとって「通過点」以上の意味はない。車窓からの視線は常に遠くにそびえる山々に集中し、その中間にある風景はスルーされている。望むと望まざるとにかかわらず、この土地はそういうポジションにあることを余儀なくされてきた。
暗くなってから行動を起こすと決めていたので、近くのコンビニのイートインで時間を潰すことにした。
持ち物は簡易テントを畳み込んだ収納袋と、諸道具の入った大型ショルダーバッグ。大荷物を抱えた我が身の不審さは強いて考えないことにした。
適当に腹ごしらえを済ませてコンビニを出た時には、外は十分に暗くなっていた。時計を見ると八時十五分。嬉野小までは徒歩十分程度だ。
遂に現地に到着した。正門のアコーディオン門扉の前で待ち合わせをしたのだが、エドの姿はない。蝙蝠か梟に変身しているのかと周囲を見回したが、夕刻には忙しく飛翔していた普通の蝙蝠すら姿が途絶えていた。
生身の人間であれば携帯電話で連絡が取れるだろうに、肝心な時に限って不便なことは起こるものだ。十分ほど待って諦め、できるだけ安全に侵入できる地点を独力で探すことにした。
フェンス伝いに校庭を回ってプールの場所まで達した時、隣接する公園から校庭内へ素通りできることが分かった。校庭へ通じる幅三メートルほどの開口部には、コンクリートの車止めが三つ立っているだけだ。「何たる幸運!」と快哉を叫びつつ、防犯カメラに用心しながら学校敷地に足を踏み入れた。
校庭中央にうっすらと白く残る競技用トラックを横目に、校舎へと近づく。建物は枠組み足場と防音パネルにすっぽり覆われ、内側は見通せない。重機やダンプカーは見当たらないが、解体業者の現場事務所らしきプレハブの平屋棟が、体育館と校舎を繋ぐ渡り廊下の手前にあった。
校庭を囲んで逆L字型に連なる校舎は、基本三階建て(一部四階建て)構造で、校庭の反対側には幼稚園が併設されている。解体工事に伴い、園児は別の幼稚園に移っていると聞いていた。
校舎内に入る前、簡易テントを置けそうな場所を物色した。現場事務所の裏あたりはどうかと思ってプレハブ棟に近づくと、窓の中は暗く、無人とみて間違いなさそうだった。
事務所の裏に回ってみて、渡り廊下とつながる体育館の入口横に下りの階段があるのが分かった。階段を下りた先には体育館の備品倉庫があり、その入口正面のスペースが、校庭側からまったく見通せない死角になっている。この備品倉庫前をテントの設営場所に決めたところで、腕時計を見た。まだ九時半にもなっていないが、エドのことが気になった。
再び校庭に出て体育館の壁際に立ち、蚊の羽音に悩まされながら周囲の様子を窺った。ふと正門付近に黒い影がちらついたのに気付き、親父から借りてきた暗視スコープで確認を試みたが、レンズの先には何も見えない。
改めて目視すると、その黒い影は正門の門扉を乗り越え、まっすぐこちらに駆け寄ってくる。それが黒い大きな犬だと気付いて一瞬ぎょっとしたが、狼狽は程なく安堵に変わった。
「申し訳ございません、遅くなりました」
バカでかい犬に変身したエドは、俺の目の前で息を切らせながら詫びた。
「随分ごゆっくりでしたね。何かトラブルでも?」
「それが実は……」
蝙蝠が飛ぶのは日没後に限られる。しかも途中でゲリラ豪雨に遭遇して足止めを食い、半日潰す羽目になったと、吸血鬼は弁解した。
所詮、魔物の力も文明の利器には遠く及ばない。普通の人間が電車を使って四、五時間で着ける場所なら、人外の自分たちには大した距離でもないと錯覚したのだろうか。犬の変身体を解こうともせず、長い舌をだらりと伸ばし息を喘がせる彼の姿はどこか滑稽だった。
「別に夜でなきゃ飛べないわけじゃないでしょうに。もう日光は平気なんだから」
「とんでもない! 昼間飛ぶ蝙蝠ほど無作法かつ滑稽なものがありましょうか」
「まあ確かに」
いろいろとめんどくさい。吸血鬼という種族は、社会的規範以上に独特の美意識に縛られている。彼らがそうした束縛から自らを解き放とうと考えるにはまだ長い年月が必要なのだろう。そう思ったがあえて口にはしなかった。
「それにしても、難なく敷地内に入れたのは何よりでございます」
「その点はラッキーでしたよ。この先もそううまくいけばいいんですが。……ところで、その格好のままですか」
「今晩はずっとこれでまいります。一応、私の戦闘形態ですので、これで若君様危急の際に備えます」
「なるほど、それは心強い」
いざ滅霊を行う際、相手が抵抗するならば実力行使となる。だから基本的に俺たちは「武闘派」霊能師たらざるを得ないし、俺にも俺の戦闘形態がある。とはいえ、この晩はあくまでも調査が目的だから、霊障が確認できたとしても処理は後日回しという前提だった。
テントの中へ入ろうとすると、エドが「『ウロボロス』はお持ちになっておられますか?」と聞いてきた。言っている意味が分からずきょとんとしていると、「お近づきの際に差し上げた腕時計です」と言われようやく気付いた。蛇の装飾が施されたエコドライブの腕時計は常に着用している。
「これがどうかしました?」
「文字盤の横にスライドボタンがありますでしょう」
「ちょっと待って……。ああ、これね」
手首から外し、スマホのライトで照らしてみると、今まで気にも留めなかったが、確かにそういう小さなボタンがある。初期状態では、太陽を表すらしい「☀」の記号の下にセットされており、これを「三日月」、さらには「満月」へと二段階でスライドできるようになっていた。
「今宵は、『三日月』の位置にセットしてから呪法にお入りください。後でお役に立ちます」
エドの指示に従い、「ウロボロス」を「三日月」にセットしてテントに入った。儀式用の装束に着替え、結跏趺坐して呪文を唱える。三カ月前に修得した霊体離脱の呪法も、最近は熟度がかなり上がったようだ。不動明王の真言から密教の陀羅尼へ移り、ものの十分で儀式は終わった。
左の袖をまくってみると、俺自身は霊体へ移行したにもかかわらず手首では「ウロボロス」が時を刻んでいた。しかも文字盤がほのかに蛍光色を帯び、闇の中でも明瞭に時刻を見分けられる。持ち主の状態に合わせて機能する霊的腕時計ということらしい。同じタイプのスマートフォンがあったらぜひともエドに持たせたいところだ。
蓮華座の姿勢のまま瞑目している自分の肉体を残し、テントの外へ出ると、大型犬の姿でうずくまっていたエドが首を上げた。
「ご準備はお済みですか?」
「ええ。この時計優れものですね。これ、『満月』の位置に動かすとどうなります?」
「今の状態では、『三日月』でロックが掛かってそれ以上は動かせないようになっておるはずです。まあ、使わずに済めばそれに越したことはございません」
「へえー、どんな凄い機能が」
「いずれ説明いたします」
要するに、解除するための条件が今は満たされていないということらしい。
もちろん、ゲームをプレイしているわけではないのだから、解除条件を満たすために無闇に艱難辛苦する必要はない。常に最小限の努力で問題解決を図るという現実世界の鉄則を見失ってはならないだろう。
