Revenant Doll 第6話
第1部
6 On Stage
水際の説明によると、この寝台の上では十九世紀から二十世紀にかけて何代もの貴人が眠り、夢見、愛し、出産し、死んでいったのだとか。
理事会が資産運用の一環として取得したのだが、収支報告上は基金総額の中に含めて記載されるので、取得額が表に出ることはない。二日後には夜陰に紛れて生徒会室から搬出され、理事会が所有する「聖往記念会館」の秘密の一室に収められるという。
生徒会長の役得で使わせてもらう──。水際は臆する風もなくそう言った。
「お前にとって妖怪ってどういうイメージ?」
上に乗った水際が耳元でささやく。返事を促すかのように、互いの指を絡み合わせる生徒会長の手に力がこもった。
「あんたみたいな人を言うと思う」
「正解。このあいだお前が、ここでひと通り終えるまで確か二時間くらいだったっけ。……あの前と後とで、私は完全に変わった。別の存在になった。お前に変えられてしまった。昔の自分がどんなに愛おしくても、もう戻れないし、戻る気もない。あえて『妖怪になった』ことは私の責任だし、今もこれからも絶対に後悔はしない。もっとも、お前までが私と同じくらい変わったとは言わないけど」
「確かにそうだ。あんまり変わってない」
「いやにあっさり認めるんだね。『自分は変わってない』その根拠は」
右手の小指が緊張したことをよもや悟られているはずはないが、水際は「根拠は」の先を沈黙で覆った。その間が、程よい効果で俺の胸をざわつかせる。
「ねえ信光」
「何」
「ここ、舐めて」
生徒会長が、腋の下を近づけてきた。俺が抗わずに舐めると、舌に硬い毛先を感じる。深く尾を引くような鼻息が頬にかかった。
「……一応、手入れはしてきたんだけど、甘かったんだよね」
「甘くないよ。汗の味がする」
「味の話じゃないよ。剃るのが不十分だったって言ってるの」
「細かいね」
「当たり前じゃん。これでも女だからね」
もう一度、その腋を舐めてやった。唾を飲み込む音が聞こえた。
「……時間がなくってさあ。やることが多過ぎるといろんなことが中途半端になるよ。分かる? いちいち物ごとの優先順位をつけるのってほんとめんどくさい」
「考え過ぎだよ。今にノイローゼになっちゃうよ」
「優しいんだねお前」
水際の体に力が加わった。優しいんだねお前。
そうだ。俺はできる限り、意図的に優しくあろうとした。そうすることで、しかるべき未来をこの手で引き寄せるだけの自由が許されていると実感したかった。それが、どう考えてもあやふやな世界に対して、俺という存在の手ごたえを確認する手段でもあるからだ。
だから本当は、水際が素直に喜んでいいような「無条件の優しさ」には程遠い。ましてや、太陽を讃える花々の優しさは次元が違う。しかし人間は本来、自発的か否かにかかわらず「ステージ」に上がらない限り、優しくも残酷にもなることはできないのではないか。
俺の〝信光〟が不随意に充血することとは別の話として、俺は彼女に優しくあろうと決め、今こうしてこの舞台で、そういう行為を演じている。それ以上のことがどうすればできるというのか。
少なくとも俺は、これを背信だとは思わない。本当の優しさらしく感じられる限りは、彼女も同じくステージ上の一人として、少なくとも敬意くらいは払ってくれる。そう信じるのは虫が良過ぎるのだろうか。
「ごらんよ」
水際が頭を持ち上げた。汗でべったり張り付いていた肌が離れ、頬から肩甲骨までのあたりが外気に触れてひんやりとする。薄闇の中で水際が、断髪の頭をゆっくりと巡らしている。太古の穏やかな巨獣のように。
「あと八カ月もすれば、私はここからいなくなる。この場所の思い出になる。私はこうやって何度も何度も卒業を繰り返す。『最後の卒業』を迎えるまでね。これが人間だよ。……私たちがここで、こうしてやっていることも、お前と私がいなくなれば、なかったのと同じになる。でも諦められない、どうしても。この世界に爪跡さえ残せれば、来年の卒業アルバムに間抜けな墓碑銘を残して消えていくくらいは受忍できるって、マジにそう思うの」
「……受忍していいの?」
「いけないかな」
いい悪い以前にあんた、本当はもう受忍しつつあるんじゃないですか──。そう思ったのだが、カジュアルな呪いが及んだかのように俺の口はその言葉を封印した。
「卒アルのみっともない寄せ書きを悔いて自殺なんてシャレになんないでしょ」
「バカ」
「嫌なら何も書かなきゃいいんだし。気楽に行こうよ」
「お前は……」
後の言葉を続ける代わりに、水際は持ち上げていた頭を下ろした。断髪が鼻の下を撫でるのを感じた。伸びてきた舌が、耳を縁に沿って舐め始める。俺は彼女の背に回した腕に力を込めた。
言うまでもなく、俺も水際も承知している。「気楽に行ける」ことなど何一つないことを。そして真実とは裏腹な言葉で自分を裏切ることが、さらなる昂ぶりを生じさせることを。後はただ、何が真実だったかも忘れ果ててしまうまで、ひたすら昂ぶり続ける。そういった約束ごとに身をゆだねるのも、たぶん優しさなのだ。
いずれ俺たちはこの世界を去る。だからこそ、世界に存在していたことの刻印を、この古びた寝台に深く刻みつけようとする。間もなく学園理事会の施設に収容され、これから先、北関東の小学校校舎よりも長く保存されるに違いないこの寝台に。威光に包まれて愛し、眠り、出産し、死んでいった貴人たちからみればどれほど分不相応であろうと、今を生きる末端の者として刻印を残す。俺と水際の、一瞬の余念も許されぬ優しさによって。
所詮、すべては経過に過ぎない。そして俺には「約定」が与えられている。
右手の小指に刻まれた傷跡は、滅びた俺の魂が再び形成されてこの世界に現れた時、ある人と再会する契約の証だ。それがどれほど遠い未来であろうと、際限なく優しくあることで、確実にそれを能動的に、自分の意志で手繰り寄せている。そんな手ごたえを感じる。「ただ待っているだけではない」と実感できる。狂信だと言いたければ言えばいい。
今では、約定を欠いた生の悲惨さを思えば眩暈がするほどになった。水際佳恵は、そんな俺にはうってつけの「パートナー」になったわけだ。そして──何度でも繰り返して言いたいが、これは背信ではない。
水際の舌が耳の穴にねじ込まれ、俺が呻きに近い吐息を漏らすと、彼女の温かさが増した。右手を彼女の腰の方へ、ゆっくりと這わせていく。俺たちはお互いに対し、全身全霊で優しくなければならない。
ここは聖往学園高等部生徒会室の、舞台装置の上なのだから。
