Revenant Doll 第2話
第1部
2 執事
俺は体を起こした。
「服を着ましょう。誰か来るかも」
「来ないよ。灯り消えてるし鍵も掛かってる」
「だといいですが」
俺はパンツを穿きシャツを身に着けながら、生徒会長が下着に手を伸ばすのを注意深く見守った。
「電話するから。今夜」
日常に戻りたがる俺の小心さを嘲笑うかのように、彼女の口調は粘りつくけだるさを消そうとしない。
「はい」
「これからはお前のことを信光って呼ばせて」
「……どうぞ」
「それと敬語はやめて」
「いや、でも」
「やめて」
相手に対して中止ないし制止を求める日本語の「Yamete」は、音程やイントネーションによって千差万別の状況を表現する。それを、誤解されるように叫ぶことで俺を陥れるほど彼女は性悪ではなかったと瞬時に安堵したのは、我ながらとても残念だった。とはいえその音量は廊下の外まで響くかと思え、小心な俺は肝を冷やした。
危うい沈黙が始まり、薄闇の中に浮かぶ水際の瞳が洒落にならぬレベルで潤んできた。
「いまさらだけど、私、めんどくさい女だからね」
「『いまさら』で済めばそれに越したことはないのでは?」──などという減らず口をこらえるだけの節度は保った。俗に言う「賢者の時間」には程遠い精神状態ではあったのだが。
「……では、何とお呼びすれば」
「佳恵で。それと、『君』とか『あなた』じゃなくて『お前』で」
「『あんた』じゃだめ?」
生徒会長の瞳が冷たく光った。俺の危ぶんだ涙は遠ざかったようだ。
「お前の判断に委ねる。お前の人生だから。私は生産的にやることを望んでいるけど、無駄に戯れたいなら、それは好きなように」
生徒会室に水際を残し、一人で校舎を出た。黄昏時は夜へと移りつつあった。野球部が練習を続けているグラウンドにはナイター照明が灯り、球児たちの舞台を演出している。三色スミレの植わった花壇の前に立って四階を見上げると、つい先刻までそこにいた場所の窓はカーテンが閉ざされ、灯りは消えている。
どこかから見られている気がした。誰が見ていようと男らしく胸を張って校庭を横切り、堂々と背中を視界にさらす。そうすべき場面だったかもしれないが、意味もなく虚勢を張る馬鹿馬鹿しさには気分が萎える。無意識のうちに俺の足は裏門へと向かっていた。
家路をたどる夜道で、再び誰かの視線を感じた。その場に立ち止まって周囲を見回し、目を上の方に転じる。その時にようやく気付いた。
ああ、あそこか。
電柱の天辺から、一羽の鳥が見下ろしている。大きさはカラスほどだが、頭部の丸い輪郭が明らかに違う。どうやら梟らしい。
首都圏の住宅街に、野生の梟が現れたりするものだろうか? やがて「梟」は翼を広げて音もなく飛び立ち、夜の闇へ溶け入るように消えた。そしてほぼ同時に、一人の初老の男が電柱の下に姿を現した。
俺の帰りが遅いと、彼はこうやって出迎える。この六月から俺の守り役兼家庭教師となった吸血鬼エドガー・マコーリー氏──通称エド──は、それを自分の職務と考えて励行しているのだった。
「お疲れさまです」と声をかけると、吸血鬼は鼻歌でも歌うように「暑うございますな」と言って、俺の横に並んだ。「熱うございますな」という冷やかしの言葉が脳内に浮かんだが、どうにか「まだ夜になれば涼しいですよ」とスルーできた。我ながら上出来だ。
今は緑薫る六月。本格的な暑さはもう少し先になる。
「今日は梟ですか。初バージョンですね」
「蝙蝠ばかりでは変化がないと思いまして。芸の幅は大事でございます」
来日して百年以上になるとはいえ、エドの流暢な日本語にはいつも感心させられる。恐る恐る「今日は早く寝させてもらえますか」と尋ねると、事情は百も承知だと言わぬばかりに「その方がよろしいでしょう」と即答された。
「ねえエドさん」
「『エド』でよろしゅうございます」
「じゃあ、エド」
平静を装って歩きながら、俺は言葉を継いだ。
「『太陽と和解した』時は、嬉しいっていうよりむしろ、失望しなかったですか?……つまり、『こんなもんか』って」
わずかな間を置いて、前を向いたままエドは答えた。
「長く生きておりますと、喜びは小出しに訪れるものですよ。一度に押し寄せるのは若いうちだけです。それはいささか悲しくもあり、ありがたくもある」
「俺らの常識だと、吸血鬼は普通、太陽の光を浴びれば即死しますよね。なのにその程度ですか」
「はい」
「じゃあ仮にですが……」
若者に似合わぬ咳払いをして、頭の中で質問を組み立てる。堅苦しいおっさんの相手を下校途中にまでさせられるのは、疲れることこの上ない。
「日光の毒性が、その……遅効性のものだったとしてみましょう。つまり即死はしないけど、何百年もかけて少しずつ吸血鬼の健康を蝕んでいく、そういうものだとしたら? つまり棺の中の本体も含めて。それでも失望しない?」
「いたしませんな。太陽の下で幸福を感じるということは、他の者はどうあれ、私には真実です。数百年後に私は太陽と、そして神の栄光を讃えつつ、天に召されることでしょう」
「二十歳過ぎたら酒と煙草が許されるみたいなもんですかね」
「はっは、そうかもしれません」
彼の乾いた笑いが気に障った。俺が何を問うているのかを承知ではぐらかしているに違いない。ずるい大人のよくやる誤魔化しだ。
「幸せですね。思う存分日光浴ができて、十字架なんか元から平気で、人間よりずっと長く生きられる。そんな吸血鬼って神同然じゃないですか。なぜ如鬼神なんかやってるんです?」
「私は吸血鬼である前に執事でございますから。座光寺様にお仕えする職務に忠実であることが、何にも増して私の誇りでございます。若君様もいずれお分かりになられるでしょう」
「それってずるくないですか? 神様の正体がたった四文字のパスワードで、実は管理者である巫女が全権を握っているみたいな話じゃないですかね。日陰者か黒子みたいなフリをして、実は全知全能でしょ? 人間はそんな秘密を隠すために何でもやりかねない気がしますよ。前に俺がかかわった事件じゃ、そんなカラクリが千何百年も秘密にされてた。四桁のパスワードですよ? バカみたいな真実ほど大袈裟な嘘で隠されて、だからこそ誰も疑いもしなかったって話で」
「若君様」
青臭い小理屈にうんざりしたと言いたげにエドは俯き、首を左右に振った。
「棺に眠るわが本体まで日光浴をするわけにはまいりませんし、座光寺様から血を頂けなくなれば、如鬼神たる私もまた消え去るしかございません。その条件で私は当家の執事を務めておるのです。全権どころか、私は一使用人に過ぎません」
入滅した美女型の二体に代わって、この六月から俺の守り役となった如鬼神「蝙鬼」ことエドガー・マコーリーは、座光寺家に仕える如鬼神では一番の新参者でありながら、「従一階」という高い地位を与えられている(俺が四月までお仕えしていた嫋姉様=嫋鬼が属していた最高位「正一階」の一つ下に当たる)。二十世紀初頭に英国から日本に渡ってきて、詳しい経緯は知らないが、五代前の当主・信親から、太陽の下に出られることを条件として提示され、如鬼神となった。
正確に言うと、吸血鬼の肉体から如鬼神としての霊体を分離し、そちらを日光浴び放題にしたのである。最近では本体部分はほとんど棺から出ることもないらしいのだが、その棺の在り処は俺には知らされていない。もっともエドが言うには「座光寺様から頂く血を食らって眠るだけ」の無害な存在で、吸血鬼として持っていた特殊能力はすべて如鬼神の方に移されているという。
「太陽との和解」──それは彼にとって、世界のどんな財宝にも代え難い至福を約束するものだった。
「吸血鬼ほど、太陽を愛している種族が他におりましょうか?」──俺と初顔合わせの日、如鬼神となった経緯に話が及ぶと、彼はこちらがドン引きするような真顔で言い放った。続いて「こちらはお近づきの印でございます」と言い、テーブル上のリボンを結んだ小箱を意味ありげに指し示した。
開けてみると、アナログ式の腕時計が入っていた。丸い文字盤のガラスカバーを囲んで、円環になった蛇の彫刻が施されている。蛇は零時の真上に当たる位置で自分の尾を咥え込んでいた。永遠とか永劫回帰の象徴とされる「ウロボロス」のデザインだ。
「一見は何の変哲もないエコドライブ式で、定期的に日光に当てて充電する必要がございます。そうやって充電を繰り返すうちに、この時計の本質すなわち太陽の無限の恩恵が、使用者にも共有され内在化されていく。これは道具というもの一般に共通する甲斐性とでも申せましょう。楽器を通じて音楽を知り、調理器具を通じて料理を知る。やがては『音とは何か』『火とは何か』の要諦に達することにつながる。皆、同じでございます」
「『内在化』しないといけないんですか?」
「当然です! 太陽こそ神の慈愛の源泉であり、恩寵そのものではありませんか。日の光はそのまま主の御言葉であり、こうした一見取るに足らぬ道具にまで遍在いたします。深く学ばぬ者は気付きもいたしませんが」
手に持った腕時計を眺め回しながら、俺は宗教の勧誘でも受けている気分で彼の話を聞いていた。
「太陽の恩寵がかくも偉大であるからこそ、我ら吸血鬼は自らをそれに値せずと恥じ入り、御前を退がったのに過ぎません。よろしいですか? 無限の恩寵たる太陽によって身を焼かれ滅びること、これは吸血鬼にとって、あらゆるものに勝る歓びであり名誉なのです! しかるに何ゆえ、愚にもつかぬ風説が世に広まってしまったのか?」
身を震わせて太陽の恩寵を説く如鬼神の胸で、銀細工らしい十字架が揺れていた。エドは英国にいた当時、数千年を生きる大吸血鬼の貴族に執事として仕えてきたが、彼が明かすところによると、自分はもともとスコットランド出身のカトリック教徒なのだという。つまり敬虔なカトリックの吸血鬼エドガー・マコーリーが、来日後に蝙鬼という二つ名の如鬼神になった──これがおおよその来歴ということになる。
俺の内なるエコドライブが、降り注ぐ陽光に歓喜する日がいつ訪れるのかは分からない。それでも世間に定着した「吸血鬼=太陽とキリストに背く者」という通説を、彼が全存在をかけて否定していることは理解できた。
「花をご覧なさいませ。創意の妙はそれぞれに違えど、一つとして太陽の似姿を象っていないものはありますまい? 世の花々はすべて太陽への賛歌であり、一つ一つがそれぞれ、この地球という鏡面に映った太陽の像なのです。我らの種族が、春の野を埋め尽くす花のごとく、太陽を讃えたいと望んで何が悪うございましょう」
「それは悪くないですよ。ですが」
エドの風貌は身長百八十数センチ、半白の髪に白い口髭、渋いチェックのジャケットとアスコットタイという装いが一分の嫌味も感じさせず、すべてが癪に障るほどサマになった初老の英国紳士を体現している。その勿体ぶった長広舌を、極東の一少年が最後まで忍耐強く拝聴できなかったとしてもさほど不思議はなかろう。何しろ「吸血鬼」といえば、人の血を吸う凶悪なモンスターのイメージが不動のものではないか。
「皆さんは吸血鬼です。しかも血を吸われた犠牲者を自分たちの眷属に変えるということからして、明らかに人間に害を為す存在ですね」
「まあ、それは否定いたしませんが」
我が意を得たりというように吸血鬼は語気を強めた。
「私どものように人体から直接にではなく、『マネー』を通じて間接的に生き血を吸い上げる者たちのことをどう思われます。実に大勢の人間がこの連中の犠牲となっているのではありませんか? 連中ときたら私が故国におりました当時からわが者顔で太陽の下を歩いておりましたが、昨今はさらに吸血術に磨きがかかった観がございます。周知のごとく、『吸血鬼』はこういう連中の例えとしても人口に膾炙しております」
それは分かる。そしてそういう連中が枕を高くして寝られるように、座光寺家が高い報酬で滅霊を請け負っているのは否定できない。しかしその座光寺家に仕える対価として人間の血を与えられ、太陽の光まで享受できることをエドはどう考えているのか。
「それに私どもは全く別の意味で、人間にとって欠くべからざる存在でもあるのです」
「どういうことですか?」
「言うなれば、記録です」
一瞬、彼が「記憶」と言ったのかと思ったが、聞き間違いではなかった。エドは人差し指を立てて「記録」と繰り返した。
「もともと人間は『共食い』をする動物です。もちろん食料が豊富であればそんなことはしませんが、条件が揃えばその本性が現れます」
「それは、例の『カニバリズム』ってやつですか?」
「あれは一種の偏執的な嗜好なので少し違います。補給の絶たれた戦場や遭難現場などで、食料不足から起きる人肉食がまさに本性への回帰です。これは個人の嗜好とは無関係に起こり得ます。私たち種族はそうした人間の本性を必要に応じて証明し、想起させるための『生きた記録』なのです」
「人間の本性の『生きた記録』……。つまり皆さんは、ある意味で極めて『人間的』ってことになりますね」
「まあ皮肉な逆説として、否定はいたしません。もっとも『共食い』の本性は、食に事欠かない日常であろうと、それなりに屈折した形で社会の上に噴出します。私どもが故国を追われたのも、それが原因と言えなくもない。そういう時代の空気と言いますか、……これは話すと長くなりますので、またの機会といたしましょう。ですが目を背けたい真実であればそれだけ──好ましからざる人間の本性についてであればなおさら──定期的に記憶を新たにする必要がございます。そのためには記録がなければいけない。違いますかな?」
吸血鬼であることを隠して人間社会に溶け込んだとしても、詐欺師として立派に世渡りできるのではないか──。そんなかなり胡散臭い人物を俺は家庭教師兼守り役に迎え、日々を共にすることになった。
