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『いいところ、堀りだくさんー越前市東庄境』福井県のキャッチコピー、ある村おこし:第1章:泥の勲章と、仕込まれた杯

第1章:泥の勲章と、仕込まれた杯

東庄境の入り口に立つと、鼻をくすぐるのは、雨上がりの湿った土の生臭さと、どこか酸っぱい漆の混じった、鼻腔の奥を刺すような独特の匂いだった。 「田舎のにおい」——。 都会の無機質なコンクリートと冷房の空気の中で、いつの間にか忘れていたはずのその匂いが、一瞬にして私の肺を支配し、眠っていた記憶の澱(おり)を激しくかき回す。五月の重い霧が、肌にしっとりとまとわりついてくる。

タクシーを降りると、目の前には「大橋弥平家」の黒い漆喰の壁と、重厚な瓦屋根が、長い歳月に耐え抜いた威厳を保ったまま、そこに鎮座していた。

かつては村の命運を握る「庄屋」であり、蔵には小判が唸り、仏間には目も眩むような金箔の仏壇が燦然と輝いていたという。だが、その栄華は第二次世界大戦という時代の荒波に容赦なく呑み込まれた。金属類回収令によって先祖代々の仏壇を国へ供出し、戦後の農地改革によって、命の次に重かった広大な田畑を強制的に奪われた。

それでも、大橋家は潰れなかった。 それは、祖父・弥平が「庄屋」という過去のプライドを、そのまま、明日を生き抜くための「自作農」としての凄まじい執念に叩き替えたからだ。

「……上がれ。泥がついとるが、それがこの家の正装や」
薄暗い仏間の奥から聞こえてきたのは、祖母・志乃の静かな、しかし芯の通った、座敷を震わせるような声だった。 彼女は今も、供出の手を命がけで免れた「蓮如上人の御真筆」の前に背筋を伸ばして座り、この家の目に見えない秩序と誇りを守り続けている。

縁側の奥、父・誠二の書斎には、まだ微かに、ツンとした古い酒の気配が残っているようだった。 養子としてこの大橋家に入った父。英語教育の現場一筋で、地方でありながら福井の学力を全国トップへと押し上げた「清廉な教育者」としての顔の裏で、父はこの家の暗がりのなか、もう一つの過酷な教育を受けていた。

「誠二、飲め。これが当主の務めや」
祖父・弥平は、一升瓶の首を無骨な手で掴み、養子である父に徹底的に酒を「仕込んだ」。 それは単なる宴席の嗜みでも、親子の親睦でもない。信じていた者たちに裏切られた無念、理不尽に奪われた土地への執着、そして村を束ねる組合長としての逃げ場のない重責。弥平がその老いた身体一人では抱えきれなくなった「家の重み」という名の業を、琥珀色の地酒と共に、父の体内に強引に流し込むための儀式だったのだ。

父は、東京での学生時代、ワインを嗜む程度のハイカラでスマートな男だった。 しかし、弥平に仕込まれ、この東庄境という土地の業を五臓六腑に飲み込み続けるうちに、いつしか周囲が恐れるほどの烈しい大酒飲みへと変わっていった。農繁期には、教師の白いペンを鍬に持ち替え、弥平の大きな背中を追って、爪の先まで真っ黒に泥にまみれた。

かつて組合長として泥をすすりながら村を支え、次期町長の椅子を目前にしながら、土壇場で信じた者たちに背を向けられた弥平。 父は、その裏切りの刃がどれほど深く弥平の胸に刺さっていたかを知っていたからこそ、義父が波々と注ぐ杯を、決して拒まなかった。 泥にまみれた収穫の泥臭い喜びも、酒に溶かした夜の無念も、二人は無駄な言葉を一切交わさずとも、互いの皮膚に染み付いた「におい」だけで共有していたのだ。

私は、かつて父が静かに座っていた、坂本龍馬ゆかりと伝わる宿命的な柱にそっと手を触れた。 柱の傷の奥には、烈しい酒を煽りながら、冷徹にタイプライターを叩き、美しい英文を綴っていた父の、あの研ぎ澄まされた熱量がまだ消えずに宿っている。

「Discover Fukui……」

父が越前和紙の重厚な手触りの英文書物に込めたその六文字は、ただの観光案内ではない。沈黙の泥の中から、日本人が失ってはならない「志(Integrity)」を必死に掘りだそうとした、男たちの命の叫びだったのかもしれない。


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