ショートストーリー 『メタファー』
郊外の古いアパートの三階に、男は一人で暮らしていた。
ベランダの向こうには、道路を挟んでもう一棟、
同じような古いアパートが建っている。
夜になると、向かいの部屋の明かりがいくつか見える。
男は、もう三年ほど煙草を吸っていなかった。
その夜、なぜか一本吸いたくなった。
久しぶりに煙草を取り出し、ベランダに出る。
火をつけ、煙を吐いた。
そのとき、向かいのアパートの三階のベランダに、
誰かいることに気づいた。
女だった。
女も煙草を吸っていた。
暗がりの中で、手すりに寄りかかり、
こちらを見ている。
目が合った。
「あなたもタバコを吸うのね」
「君もだな」
男は煙を吐いた。
女も煙を吐いた。
しばらく、二人は黙っていた。
「何年ぶり?」
「……何が?」
「タバコ」
男は少し考えた。
「三年くらいかな」
「私も」
女は笑った。
それから二人は、
ときどきベランダで話すようになった。
仕事のこと。
昔のこと。
最近見たテレビのこと。
好きな食べ物のこと。
どれも、ありふれたことだった。
それでも二人は、
煙草を一本吸い終わるまで、話した。
ある夜、女が尋ねた。
「ねえ、小説は何が好き?」
「ホルヘ・ルイス・ボルヘスの
『トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス』」
「へえ。何それ?」
女は首を傾げた。
「知らなくていいよ」
「気になるじゃない」
「じゃあ、読んでみれば?」
「そうする」
男は少し笑った。
「君はどんな本を読むの?」
「ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』」
「随分と、可愛らしい本を読むんだね」
「これでも心は乙女よ」
女は煙を吐いた。
「君にはタバコは似合わない」
「そう?」
「ああ」
「あなたもね」
女は笑った。
男はしばらく黙っていたが、ふと口を開いた。
「時々思うんだ。
俺は、この地球を侵略しに来た宇宙人なんじゃないかって」
「どうして?」
「どうしてって……」
男は向かいの女を見た。
「どうも、この星に馴染めないんだよ」
女は少し考えてから言った。
「じゃあ、私も宇宙人かもね」
「君も?」
「だって、私も馴染めないもの」
二人は顔を見合わせた。
そして、同時に笑って煙を吐いた。
その翌日、彼女はベランダにいなかった。
男は煙草を吸いながら、向かいのベランダを何度も見た。
いない。
次の日も。
その次の日も。
男は毎晩、ベランダに出た。
けれど、彼女は現れなかった。
一週間ほど経った頃だった。
いつものようにベランダに出ると、
向かいの三階のベランダに彼女がいた。
何事もなかったように煙草を吸っている。
男は思わず声をかけた。
「どこに行ってた?」
女は煙を吐いてから答えた。
「地球を侵略しに行ってたの」
男は少し黙った。
「あなたこそ、何してたの?」
「俺も地球を侵略してた」
女は少し笑った。
「そうなんだ」
「俺たち、似たもの同士だな」
「そうね」
「ああ、あの本読んだわよ」
「え?」
「この前、あなたが言ってた本」
「ああ」
「面白かったわ」
「そうか」
男は笑った。
「君が好きそうな本だな」
「そう?」
「なんとなく」
女は煙草を灰皿に押しつけた。
「ねぇ、今度一緒に食事しましょうよ」
「ああ、いいね」
「いつにする?」
「明日でもいい」
「じゃあ、明日」
男は少し黙った。
「でも君がいなくなる気がして、会えないんじゃないかと」
「どうして?」
「分からない。ただ、そんな気がするんだ」
女は少し笑った。
「じゃあ、付き合う? 私と」
男は一瞬、言葉を失った。
「……いいの?」
「何が?」
「俺なんかで」
「似たもの同士なんでしょ?」
男は笑った。
「そうだったな」
「じゃあ、決まりね」
その時だった。
視界が歪んだ。
向かいのベランダが遠くなった。
女の姿が、夜の向こうに溶けていく。
「大丈夫?」
その声を最後に、男は目を閉じた。
***
男が目を覚ますと、朝だった。
ベランダに出る。
向かいの三階のベランダには、誰もいない。
男はしばらく立っていた。
それから部屋に戻り、煙草を一本取り出した。
火をつける。
何となく、灰皿を見る。
灰皿には二本の吸い殻があった。
あとがき
一見すると、ありきたりな話に読める。
でも、読み終わったあとに、なぜか小さな違和感が残る。
そんな作品を書きたかった。
「……あれ?」
もう一度思い返してみる。
すると、いろんな見方ができる。
考えていけば、
もしかすると、この物語の答えが見えてくるかもしれない。
そんな話になっていれば幸いです。
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