見出し画像

ショートストーリー            『フォルヴァンドリング』

朝起きたら、姿が変わっていた。

鏡を見る。

昨日までの自分とは、明らかに違う。

顔立ちも、髪型も違う。

「……誰だ、こいつ」

声まで違っていた。

だが、不思議なことに、
自分が自分であることは分かっている。

昨日のことも覚えている。
一昨日のことも。

ただ、昨日までの自分とは、何かが違う。

昨日なら絶対に腹を立てていたことに、
なぜか腹が立たない。

逆に、どうでもよかったことが気になる。

それが、顔の違い以上に気味が悪かった。

鏡の中の男を見つめる。

「俺……本当に俺か?」

答えは返ってこない。

会社へ行った。

「おはようございます」

「おはよう」

誰も驚かなかった。

誰も二度見しない。

自分の席に座り、パソコンを立ち上げる。

いつものパスワードを入力すると、
普通にログインできた。

隣の同僚を見る。

「なあ」

「はい?」

「俺の顔、変じゃない?」

同僚は俺の顔を見た。

「変ですよ。いつも通り」

「……そうか」

同僚が笑った。

「冗談ですよ」

「どうしたんですか?」

「いや……何でもない」

同僚は仕事に戻った。

俺はもう一度、鏡を見る。

やっぱり違う。

だが、周囲にはいつもの顔に見えているらしい。

翌朝。

また顔が変わっていた。

昨日とはまったく違う。

目も、鼻も、口も違う。

髪の色まで違っている。

「……昨日と全然、顔が違うけど」

声も違った。

それでも、昨日の記憶はある。

会社へ行く。

「おはようございます」

「おはよう」

誰も驚かない。

誰も俺を別人だとは言わない。

自分だけが違うと思っている。

俺は初めて、
顔が変わったのではなく、
顔が変わって見えているだけなのではないかと思った。

大学病院の精神科を訪ねた。

担当した医師は、俺の話を聞き終えると、
最初にこう聞いた。

「あなたは、自分が自分であるという感覚を失っていますか?」

「……いいえ」

「昨日のあなたも、自分だと思いますか?」

「もちろん」

「一昨日は?」

「自分です」

医師は頷いた。

「記憶の連続性は保たれている」

「はい」

「では、何が変わったんです?」

「顔です」

「顔?」

「毎朝、違う顔に見えるんです。それから……性格も」

「性格が変わった、と?」

「昨日なら絶対に怒っていたことに、今日は何とも思わない。
 逆に、昨日までどうでもよかったことが気になる」

医師はしばらく黙っていた。

「あなたは、それをどう考えていますか?」

「……多重人格じゃないかと思っています」

医師はすぐには答えなかった。

「可能性としては、考えられます」

「やっぱり?」

「ただし、典型的な解離性同一性障害とは少し違います」

「どこが?」

「あなたには、
『自分が自分である』という感覚が一貫して存在している」

「じゃあ、俺は何なんです?」

「現時点では分かりません。ただ、
解離性の現象として考えることはできます」

「治療法は?」

「人格を消す薬があるわけではありません。まずは経過を見ます。
 不安や不眠などがあれば、その治療をする。
 必要なら心理療法も行います」

「治るんですか?」

医師は少し間を置いた。

「治る、という言葉を使える段階ではありません」

俺は黙った。

「では、しばらく毎朝の状態を記録してください」

「顔が変わったかどうか?」

「それと。あとは、そのとき何を感じたか」

「何を感じたか?」

「怖いのか、違和感があるのか。
 それとも――何とも思わなくなっているのか」

「分かりました」

     ***

その夜、俺は一人で飲みに行った。

カウンターで酒を飲んでいると、
男が声をかけてきた。

「隣、いいかね? 今日は混んでるね」

「どうぞ」

男は隣に座った。

しばらく酒を飲んでいたが、こちらを見た。

「浮かない顔だね」

「……そうですか?」

「これでも私は大学教授でね。
 悩みがあったら聞くよ」

「大学教授?」

「まあ、酒場で名乗るほど大したものじゃないがね」

男は笑った。

俺は、これまでのことを話した。

教授は黙って聞いていた。

そして、グラスを置いた。

「……興味深いね」

「何か分かります?」

「分からない」

即答だった。

「ただ、君、ロバート・オーンスタインを知っているかね?」

「誰です、その人?」

「『The Evolution of Consciousness』という本を書いた人だ」

「……なんちゃら・オブ・コンシャスネス?」

「そうそう。それだ」

教授は笑った。

「日本語で言うなら『意識の進化』だ」

「それが、俺と何か関係あるんですか?」

「直接の答えが書いてあるわけじゃない。
 君の話を聞いて、思い出しただけだ」

教授はグラスの氷を指先で回した。

「人間は、自分を一つの存在だと思っている」

「違うんですか?」

「脳の中では、感情、記憶、判断、身体感覚、自己認識
 ……いろいろな処理が同時に動いている。
 それを一つにまとめて、『自分』として感じている」

「じゃあ、俺の中にも何人かいる?」

「そう単純な話ではない」

教授は首を振った。

「ただ、その『自分』を作る仕組みそのものが、
 変化することはある」

「脳が変わる?」

「脳は変わる。経験や環境によって、
 認知や感情の処理も変わっていく」

教授は少し間を置いた。

「自分とは、固定された人格ではなく、
 変化し続けるものなのかもしれない」

「それが……精神の進化ってことですか?」

教授は少し考えた。

「君の精神が、どこへ向かっているのか
 ……それが分からないんだ」

教授はグラスを置いた。

「だから、進化なのかもしれない」

俺は黙った。

「君の場合、顔まで違って見える。
 しかも、性格まで変わっている。
それなのに、昨日の自分も今日の自分も『俺だ』と認識している」

「それが変なんですか?」

「少なくとも、私は簡単には説明できない」

俺はグラスを握った。

「じゃあ、俺はどうなっていくんです?」

「……分からない」

「教授でも?」

教授は酒を一口飲んだ。

「だから面白い」

     ***

翌朝。

目を覚ます。

鏡を見る。

そこには、また知らない顔があった。

俺は鏡に近づいた。

しばらく、その顔を見つめる。

昨日までなら、恐怖を感じていたはずだった。

だが、今日は違った。

怖くない。

おかしいとも思わない。

ただ、昨日の俺も自分だった。

一昨日の俺も自分だった。

では、今日の俺は――。

「まあ、いいか」

俺は鏡から離れた。

そして、いつものように会社へ向かった。




あとがき

自分で書いていて、何だか分からなくなってきました。

そもそも、今日の自分は昨日の自分なのか。

昨日の記憶があるから、自分だと思っているだけなのか。

では、明日の自分は本当に「俺」なのか。

そんなことを考えているうちに、この話ができました。

書いている本人にも分かりません。

最後に主人公が「まあ、いいか」と言ったように。

ヒントを散りばめて、ほったらかし。

……いや。

作者が「まあ、いいか」で済ませていいのか?

まあ、いいか。


いいなと思ったら応援しよう!

麻井祐人 よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!