見出し画像

【連載小説】世界で一番綺麗なあなたへ(第一話:あなたとわたし)

第一話:あなたとわたし


六十歳の元地方局アナウンサー藤原雅は、若い頃の美貌への執着を手放せないままに孤独に生きている。預金を取り崩して百貨店の化粧品売り場に通い、真っ赤なルージュだけを買い続ける。
そんな雅の前に現れたのは、同い年の美容部員、飯田あかりだった。愛されなかった過去を手放し、人望を集めて生きるあかりに、雅は違和感と嫉妬心を覚える。やがて二人は、BAと客という枠を越えて近づいていくーー。
老いていく体と、執着が手放せない心。孤独との闘い。六十年という歳月をかけてたどり着いた、二人の女性が織りなすそれぞれの変化の物語。

今日。新作ルージュが解禁になる。

飯田あかりが化粧品フロアのカウンターに立ったのは、開店十五分前だった。
あかりがこの百貨店に異動してきてまだ一週間も経っていないが、どの百貨店も大体勝手は同じだ。

隣、斜め向かい、通路を挟んだ向かい。
十数区画に切り分けられた地下一階のフロア。

煌々とした照明の下でBAたちが最後の準備を整えている。香水と化粧品の香りが混ざり合い、「化粧品売り場の匂い」を作り上げている。
どこか異国めいた、でも確かに日本の百貨店の、朝の匂い。

「あかりさん。六十歳って本当ですか?」

隣に立った同僚の村田春香が、遠慮なく顔を覗き込んでくる。眉の形が今どきで、黒目を大きく見せるカラコン。くるんと上向きの長いまつ毛。水を弾きそうな肌理の細かい肌質。二十代だろう。

「…マイナンバーカードでも見せろってこと?」

「いや、だって、絶対見えないですよ。四十代にしかみえないです。基礎化粧品、何使ってるんですか?教えてほしいです」

「全部、ここの」

「え、全部ですか!すごっ」

村田が目を丸くしたところで、フロアに聴き馴染みのある音楽が流れ始めた。

開店の合図だ。

BAたちが一斉に整列し、通路へ向き直る。
客がエスカレーターから下りてくるのを確認した瞬間、深く頭を下げる。あかりも列に並び、深々とお辞儀をする。

正面のエスカレーターが動き始め、最初の客が降りてくる。

その時、村田が小声で囁いた。
「あ、きたきた。今日もお出ましですよ」

「誰が?」
あかりもひそひそ声で話す。

「ほら、あの方。今日、新作の発売日でしょう」
「そういう日は毎回、絶対に一番乗りなんですよね」

あかりは視線だけを移す。
エスカレーターを降りてくる人影がある。

…六十代だろうか。
同世代。

でもあかりが最初に見たのは年齢ではなかった。
シャンと真っ直ぐに伸びた背筋。それだけのことなのに、あかりは少しの間目が釘付けになる。
白いジャケット、真珠のイヤリング、踵の低い、ネイビーのパンプス。全てが計算され尽くされている。
いや、違う。染み付いている、という方が近い。

この人はずっと見られてきた人だ、とあかりは思った。根拠はないけれど、そう思った。
自信を象徴するかのように少し上がった口角。
唇が、遠目でも鮮やかに、真っ赤だった。

「あの赤リップ。うちの?」

あかりが聞くと、村田が指を折り始めた。

「ですです。先月一本、先々月も一本。月一ペースで。今日また買ったら五本目とかじゃないでですかね?新作出るたびにいらっしゃるんですけど、結局いつもあの赤。他の色、一度も買ったことないんですよ?」
村田がクスッと小声で笑う。
あかりは何も言わなかった。

優雅にエスカレーターを下りた女性は迷いなくこちらに向かって歩いて来る。くるりと上がったまつ毛の奥の、意思の強そうな瞳。大量のパパラッチの中、ランウェイを歩くモデルのような歩き方。
まるで我が家に帰ってくるかのよう。

その彼女がまっすぐ。
私に向かって一歩一歩、近づいて来る。


開店前の百貨店は美しい。だから、好きだ。

藤原雅は、本格的に起き出す直前の化粧品フロアが昔から好きだった。
まだ客がほぼいない通路。艶やかに磨かれた床。点灯したばかりの照明。美しさを纏った女性たちが首を垂れる姿。ブランドごとに微妙に違う、香水の匂いのマリアージュが鼻を抜ける。
戦場なのに、どこか教会の修道女を彷彿とさせる様子だ、と雅は思っている。

鏡が多すぎるのだけが難点だ。
どこを向いても自分が目に入る。
エスカレーター横の柱。ショーケース。リップのパッケージ。磨かれたステンレス。商品ですら、指紋の一つも許さないほどにそのままを映す。

昔はそれらが好きだった。
世界中のスポットライトを浴びている気分になった。

今は、照明の種類によって顔が変わる。
白色灯は嫌いだ。頬の影が深くなるから。
鏡はしばしば、老いた女の味方ではない。

百貨店の一階。
「Closed」の看板の前で立ち止まり、小さなコンパクトを開いた。唇の輪郭を指でなぞる。

赤はまだ残っている。十分に。

でも念のため、紅を引き直す。
ビビッドな赤は、疲れを隠す。老いもまた。
気持ちを高めて、闘いに向かわせる。そんな色。
だから、私の色。

コンパクトを閉じた瞬間、背後からガラス扉の開く音がした。

開店だ。

顔を上げた。中から店員が出てきて、「大変お待たせいたしました」と中央の看板を下げる。
勢い良く一番に入館しようと急いで、よろめく。

「大丈夫ですか?」

声を掛けてきた若い男性店員の顔立ちが思いの外整っていたことに驚き、声が1オクターブ上がる。
「はぃい」と間の抜けた声が出た。
取り繕うように顎を引き、さっさと歩き出した。

店内入ってすぐ、ゆっくりエスカレーターを降りる。
一生懸命お腹を引っ込めて、スカートの裾を気に掛けながら。

フロアの奥で、化粧品売り場のBAたちが一斉に頭を下げている。若い。細い。まつ毛が長い。最近の女はみんながみんな、同じ顔をしている。
全員、同じ美容系インフルエンサーの動画を見て化粧してます、という顔。

地下一階のフロアに舞い降りた時。
今からパリコレのランウェイを歩くような、そんな気分になる。お尻を少しだけくねらせながら一歩ずつ踏みしめる。

昔は、この瞬間が好きだった。

男たちが見る。
女たちも見る。
店員の態度が変わる。
注目の的。
自分が空間の中心にいると五感が疼く、あの感覚。

最近は違う。誰も見ていないわけではない。
ただ、ちょっと奇妙な老人を見る目で見る。

親切な目。
気を遣う目。
ちょっとだけ、憐れむ目。
あの目が、大嫌いだ。

カウンターが近づく。

今日は新作発売日だ。案内状も届いていた。
今季のテーマは「成熟の艶めき」。
笑わせる。
成熟なんて言葉は若さを失った女に向ける慰めだ。

赤を出しなさいよ、と雅は思う。
血が滾るほどの、赤を。
女は結局、赤に始まり、赤に戻るのだから。


カウンターの前に立ったとき、見慣れない顔が前へ出た。

「いらっしゃいませ。本日はどのようなものをお探しでしょうか」
落ち着いた声だった。雅は相手を見た。

あら。

と思った。

若くはない。私より、少し下だろうか。
でも変に媚びた感じがない。姿勢がいい。
肌を張らせようと必死な女の顔ではなく、ちゃんと年齢を引き受けたような顔をしている。
そのくせ、妙に目を引く。

雅は少しだけ気分が悪くなった。

こういう女が、一番厄介。
若さを失ってなお、平気な顔をしている女。

「新作のルージュ。全色見せてちょうだい」

「もちろんでございます」

BAが丁寧に色を並べていく。
ローズ。モーヴ。コーラル。ハニーブラウン。

どれも退屈だった。最近の化粧品は、失敗しない色ばかり作る。そんなもの、女を格別綺麗にはしない。少し危険なほど、人を選ぶ色でなければ。

一つひとつを手に取り、手の甲に線を引く。
成熟の艶めき。
ラメさえ入れればいいってもんじゃない。
グロスのような濡れ感でごまかすな。
成熟の艶なんて、鼻で笑わせる。

雅は端に置かれた赤を手に取った。
キャップの重みが指に馴染む。

854番。ルージュピュイサン。パワフルレッド。
これだけは私を裏切らない。

「こちらを」

「ありがとうございます」

BAが微笑む。綺麗な笑顔だった。
作り物ではなく、訓練された笑顔。
雅には分かる。何千人も接客した顔だ。

「お似合いです」

雅は鏡を見た。

赤い。真っ赤だ。まだ戦える。
そして鏡越しにBAを見る。

「お似合いです、というのは。便利な言葉よね」

BAが一瞬だけ目を細めた。

「そう…でしょうか」

「若い子はみんなそう言うの。素敵です。お似合いです。褒めているようで、何も見ていない」

「そのように聞こえてしまいましたか。大変失礼いたしました。では訂正いたします」

雅は眉を上げた。

「その赤を塗ると、お客様は少しだけ」
「…挑発的なお顔になります」

一瞬、雅は言葉を失った。
そして一拍置いて。
不本意ながら、少し笑った。
BAも、挑発的な顔をしていた。

まるで鏡のように。

いいなと思ったら応援しよう!