消えた証言~証言は消える。ほな音に変えたるわ。~ 第3章消えた意思
文化祭で麗の涙を見たあの日から、私は毎日が少しずつ壊れていくのを感じていた。
あの子と関わった人間は、例外なく“何か”を失っていた。
進路、信用、家族、お金、居場所──そして、私もその順番に並んでいるのだと、どこかで悟っていた。
鶴ケ崎の正論と、竹坂の強すぎる圧。
その二つに挟まれて、私は毎日、心が削られていった。
担任は数学だが授業が少なく頼れず、副担は体調不良で休んでいる。
学校の中で、私に味方と呼べる人間は誰一人いなかった。
ある日の授業中、前日の徹夜のせいで私は机に突っ伏してしまった。
陽菜の資料を整理し、証言が消えた理由を探し、夜中までノートを広げていたせいだ。
眠気に勝てず、ほんの一瞬だけ意識が落ちた。
その瞬間、教室に怒号が響いた。
「おい!起きろや!!舐めてんのかお前!!誰が授業していると思ってんねん!!やる気ないなら帰れや!!」
竹坂だった。
元野球部顧問でガタイもよく、ただ立っているだけで威圧感がある。
怒鳴られた瞬間、教室の空気が一気に凍りついた。
私は反射的に体を震わせた。
怖い。
ただ眠っていただけなのに、ただ疲れていただけなのに、ただ陽菜を守ろうとしていただけなのに。
そして竹坂は、怒鳴った直後にまるで何事もなかったかのように言った。
「はい、ごめんな〜。じゃぁ続きやるぞ」
その温度差が、逆に胸を締めつけた。
なんで私ばっかり。
なんで私だけ、こんな目に遭うんやろう。
竹坂だけではない。
鶴ケ崎もだ。
でも竹坂と違い鶴ケ崎は怒鳴らない。
感情的にもならない。
ただ冷静に、淡々と、正しい言葉だけで人を追い詰める。
「お前、最近調子悪いな」
「全国行きたいならもっと頑張りなさい」
「態度も悪いし集中力もない」
全部正しい。
だからこそ、反論できない。
反論したかった。
でも、どうせ正論でまくしたてられる。
どうせ私が悪いことになる。
私はめんどくさくなって、反論をやめた。
(ほんまに、味方おらん)
そう思ったとき、唯一の救いがあった。
泉部長だ。
「瀬口、今日もやるんやろ?海外行くんやったら、私も毎日付き合うで。一人で背負うなや」
その言葉だけが、私の心をギリギリで支えていた。
鶴ケ崎の正論も、竹坂の怒号も、担任不在も、副担不在も、全部どうでもよくなるくらいに。
泉部長だけは、私の味方でいてくれた。
そんなある日、突然、海外演奏の話が舞い込んだ。
最初は信じられなかった。
ほんまに、私が?胸の奥で小さな光が灯った瞬間、鶴ケ崎が冷たく言った。
「瀬口、お前は本当に行くのか?行くなら放課後連を1時間増やせ。学校の代表として行く以上、恥ずかしい演奏は許されない。当然でしょう?反論があれば言いなさい。」
応援でも心配でもない。
ただ“義務”を押しつける声だった。
反論したかった。
でも、どうせ正論でねじ伏せられる。
私はただ「……はい」と答えた。
それからの日々は、まさに地獄だった。
朝は五時に起き、始発の電車で学校へ向かう。
誰もいない音楽室で、指先が痺れるまで基礎練習を繰り返す。
授業中は竹坂の怒号に怯え、放課後は鶴ケ崎の監視下で、一音の狂いも許されない過酷なレッスンが待っていた。
「音が死んでいる。そんな甘い考えで海外の舞台に立てると思っているのか?」
鶴ケ崎の言葉は、鋭いナイフのように私の心を削り取っていく。
「陽菜の件で頭がいっぱいなのかもしれないが、それは言い訳にならない。お前が選ばれたのは、お前の実力だ。その責任を果たせ」
実力。
その言葉が、今の私には呪いのように響いた。
準備しなければならないのは、演奏だけではなかった。
パスポートの申請、ビザの手配、現地でのスケジュール確認。
それら全てを、私は一人でこなさなければならなかった。
担任は相変わらず進路指導で忙しく、副担は不在。
親に相談しようにも、家の中は麗の影響で冷え切っており、私の海外行きを喜ぶ余裕など誰にもなかった。
夜、自室でスーツケースを広げながら、私は何度も泣きそうになった。
(なんで、私ばっかり……) 詰め込まれた楽譜と、わずかな着替え。
その中に、陽菜から預かったままの古いお守りを忍ばせた。
これだけが、私が日本に踏みとどまる唯一の理由であり、同時に日本を離れる最大の理由だった。
そんな限界に近い私を、泉部長だけは見捨てなかった。
「瀬口、これ、糖分補給や。あんた、最近ちゃんと食べてへんやろ」
練習の合間、彼女はぶっきらぼうにチョコレートを差し出してくれた。
「部長……」
「一人で背負うな言うたやろ。鶴ケ崎先生の言うことは聞き流しとき。あの人は完璧主義が服着て歩いてるようなもんやから。あんたの音は、ちゃんと届いてる。私が保証したる」
泉部長は、鶴ケ崎が課した居残り練習にも、文句一つ言わずに付き合ってくれた。
彼女が隣で楽器を吹いてくれるだけで、凍りついた音楽室の空気が少しだけ和らぐ気がした。
出発の前日、私は陽菜に会いに行った。
彼女は何も言わず、ただ私の手を強く握り返してくれた。
その手の震えが、「行かないで」と言っているのか、「助けて」と言っているのか、私には分からなかった。
でも、私は行かなければならない。
この閉塞感から、麗の呪縛から逃れるためには、一度この国を捨てるしかなかった。
そして私は、関西国際空港の出国ゲートに立っていた。
出発の前日、私は陽菜に会いに行った。
彼女は何も言わず、ただ私の手を強く握り返してくれた。
その手の震えが、「行かないで」と言っているのか、「助けて」と言っているのか、私には分からなかった。
でも、私は行かなければならない。
この閉塞感から、麗の呪縛から逃れるためには、一度この国を捨てるしかなかった。
病院を出た後、私は忘れ物を取りに学校へ向かおうと、三国ヶ丘駅の改札を出た。
そこで、心臓が止まるかと思った。
麗がいた。
雑踏の中で、あの子だけが異質な静寂を纏って立っていた。
麗は私を見つけると、花が綻ぶような、あまりにも無垢で残酷な笑みを浮かべた。
「あ、瀬口さん。明日からだよね、海外」
なぜ知っているのか。
教えた覚えなんてない。
麗はゆっくりと距離を詰め、私の耳元で囁いた。
「いいな、自由になれると思って。でもね、どこに行っても無駄だよ。だって、瀬口さんの心の中に、私はもう住んでるもん」
湿った声が鼓膜にへばりつく。
麗の手が、私の制服の袖を軽く引いた。
その指先から、どろりとした悪意が流れ込んでくるような錯覚に陥る。
「お土産、期待してるね。……陽菜ちゃんが泣いちゃうような、素敵なやつ」
麗はそれだけ言うと、鼻歌を歌いながら改札の向こうへ消えていった。
私はその場に立ち尽くし、激しい吐き気に襲われた。
逃げられない。
海を越えても、空を飛んでも。
震える手でスーツケースの持ち手を強く握りしめた。
(……それでも、行くしかないんや) 恐怖を怒りに変えて、スーツケースを握りしめ、深呼吸する。
壊される人生のまま終わるつもりはない。
私は心の奥で呟いた。
「待ってろよ陽菜。私が終わらしたるわ。」
そして私は、日本を出た。
