MAJと星の王子さま 〜権威主義と白人模倣の違和感〜
複雑な感情抱いてる人も多いんじゃないの。
Music Awards Japan(以下:MAJ)。
喜ばしいよ。多分。
好きな人たちみんな笑ってるし。
しかし、どこか居心地が悪い。
「日本版グラミー賞」だなんて、借り物感満載の表現が繰り返され、
似合わないタキシード着たバンドマンたちが、
レッドカーペットを照れくさそうに歩いてる。
なんか変だな。
でも何が変なんだろ。
って思ったから具体例と社会論考をガチガチに固めて、
個人的に言語化してみたんだ。
多分、君の「なーんか、変だな」にも、ちょっと寄り添える気がするものができたから、共有するわ。
MAJって何がしたいん
MAJとは、去年(2025年)始まった新しい音楽賞です。
運営主体は、音楽業界の5団体が合同で作ったCEIPA(カルチャーアンドエンタテインメント産業振興会)ってやつらしい。
具体的には、
・日本レコード協会
・日本音楽事業者協会
・日本音楽制作者連盟
・日本音楽出版社協会
・コンサートプロモーターズ協会
という、日本音楽産業で胃もたれしそうな顔ぶれである。
んで、特徴としちゃ、
・音楽人5000人以上が投票
・全62部門
・YouTube世界配信
・「国際音楽賞」を名乗る
ことらしい。
音楽人ってなんや。音楽人ってよぉ。
日本レコード大賞ってあるじゃん。
あれはテレビ局主導らしいから、対するMAJは業界団体主導ってことなんだろうね。
ふーん。
ほなグラミーもどきやないか
業界人による投票、レッドカーペット、タキシード、部門の細分化表彰…
その特徴はもう完全にグラミーやがな。
レコ大:テレビ番組
MAJ:式典
って印象を付けたいんだな。
J-POPへの国際的権威づけのための一大プロジェクトってことか。
K-POPに数十年遅れをとった素晴らしいムーブだ。
しっかし、あの妙な海外の授賞式っぽい空気が、むずがゆーい!
本家グラミー賞が始まったのは1959年。冷戦文化戦争の最盛期である。
当時ロックンロールの台頭に危機感を持った既存音楽業界が、
「優れた音楽」を認定するために作ったのがグラミー賞だ。
まあ、つまりハナから権威付与装置である。
その後、
・黒人音楽軽視
・女性軽視
・商業主義
などなどなどで何度も批判された。
例えば、2017年なんかは個人的に印象的だ。
アデルが年間最優秀アルバム賞を受賞した際、
スピーチで
「本当はビヨンセが受賞すべきだった」
って言ったんよ。痺れるう。
無論、グラミー賞最大の論争の一つである。
賞は公平性を装うが、実際には権力構造を反映するのは世の常じゃよ。
そういう背景を知っていると、
「日本版グラミー賞」といわれるMAJに対する不信感が生まれちゃうのよね。
だってさ、
高市、何しに来たん
高市って2026年1月20日の「CEIPA・音楽5団体合同新年賀詞交歓会」でも祝辞を述べてて、
政府はコンテンツ産業を国家戦略として支援すると明言している。
つまり、MAJ前夜祭で彼女がスピーチをする流れ自体に、不自然はないのだ。
わかるよ。国家規模のプロジェクトってことだもんね。
でもさ、文化イベントに政治家がナマで現れる構造そのものが、
ザラっとする。
つまり、受賞者とか参列者とかが「サナのお墨付き」みたいに見えちゃうのが、なんか違う。
だって、自民党政権に賛成していない参列者も中には絶対いるはずなのに、
「サナからのお墨付き」に尻尾振ってるように構図的に見えちゃうじゃん。
実際問題、
1930年代ヨーロッパのLeni Riefenstahl、
1960年代アメリカのLouis Armstrong、
現在の韓国の BTS や BLACKPINK なんか顕著だけど、
国家は文化を国威発揚に利用してきた。
(ろくな芸術家サポートはしないくせに。)
クールジャパンも同じだ。
東京五輪、国家ブランド戦略… 文化やら芸術っちゅーもんは国家から見りゃソフトパワー資源でしかない。
俺が政治家なら、おおいに利用するだろう。
ただただ、現自民党党首の政策や言動と、
愛するミュージシャンたちの表現や思想に、
利害関係が生まれた状態が、可視化されている。
そこに本家グラミー賞への不信感が相乗し、
「権威主義への懐疑」という壮大な違和感が〜?
… 爆⭐︎誕!
白人ごっこは止まらない
なんでそもそもグラミーごっこなんてしなきゃいけなかったんだろ。
権威づけしたい→グラミーごっこしよう、が飛躍しているように感じる。
別に誰も頼んでねえよ。
The answer is...
西洋中心主義!
もっと言や、グラムシ的文化ヘゲモニーに起因するんだろう。※
例えば、
世界の映画祭で最も権威があるのは、カンヌ、ベネチア、ベルリン、
全〜部ヨーロッパ。
音楽賞は、グラミー、BRIT、つまり欧米。
文学賞はノーベル、ブッカーってとこか。
つまり、「世界的権威」という言葉の中には、最初から西洋中心主義が埋め込まれているし、MAJもその文脈に自ら接続しようとしている。
※Antonio Gramsci。イタリアの思想家。ムッソリーニ政権に投獄された。
どうだい?賢い議論をしている気になるだろう?
文化ヘゲモニーっつうのは、
ざっくり言えば、被支配者が「当たり前」って思い込んでることには反乱は起きないってことだ。
例えば、「英語が世界標準」って考えとかはモロこれです。
誰かに強制されたわけじゃないけど、みんな信じてるから成立する、的な。
今回は、西洋中心主義的「グラミー賞は偉い」がこれになってるんだと思う。
なぜ日本の音楽賞が、和服でもなく、祭りでもなく、袴でもなく
タキシード着て、レッドカーペットなのか。
なぜ「国際的」であろうとすることが、欧米に似ることを意味するのか。
その根底に文化ヘゲモニーがあるってわけ。
つまりさ、
MAJ自身が進んでグラミー賞を模倣している。
白人ごっこは止まらない。
だからこそ厄介なんだ。
でも、完全否定するのも違う気がする
だって、
みんなで音楽とアーティストにappreciateしたいという気持ちは本物だ。
ここでいうappreciateは、感謝って感じじゃなくて、
お花見をしたり、お誕生日パーティーをしたり、
「素敵だね、嬉しいね」って気持ちを分かち合うって意味ね。
(英語文化ヘゲモニーか!)
実際、JANUSでバーカン入りながら制作してたあの子も、
BASEMENT BARでいっぱいライブしてたあの子も、
たくさんのリスナーに愛されて、あんなとこまで行って、
がちがちジャケット着て、ぴょんぴょんレッドカーペット歩いて、
世界中継なんてされちゃって、
著者、感無量!うぎゃん!
おそらく、CEIPAも、現自民党党首も、
権威大好き!お金大好き!国際的認知パワーわっしょい!
ってモチベだけじゃなく、純粋に、
音楽っていいなあ、って気持ちがゼロではなかろう。
(だとしても筆者は厭だなと思うわけだが。)
星の王子さまたち
筆者は、あらゆるアーティストを敬愛している。
理想の押し付けと言われれば、ぐうの音も出ないが、
筆者の目に彼らは『星の王子さま』に見えている。
未読の君への親切心で紹介するが、
無垢で無欲な王子さまの世界には、“つまらないもの”に囚われた大人たちがたくさん出てくる。
権威に執着する王様、称賛を求め続けるうぬぼれ屋、数字ばかり数えている実業家、
彼らはみな真面目で、一生懸命で、自分なりの理屈を持っているが、
王子さまには、その姿がどうにも非本質的に見える。
なお、未読なんぞ許さない。
白いテーブルクロスのかかった丸机の前で、
明らかに飽きてそう(に筆者には見えた)な彼らが、心底愛おしい。
大人たちが作った豪奢な席で、大人たちが決めたルールの中で、
大人たちが価値を与えた金属の塊を受けとりながら、
「なんじゃこりゃ!」
と思っているのではないかと、妄想してしまう。
もちろん、そんなことはないかもしれない。
彼らは本当に喜んでいて、シメシメと思っているのかも。
だが、それでも筆者は思う。
権威が欲しいなら、ミュージシャンなんて職業は選ばん。
センパイ王子さまたちに倣え
日本で生まれた音楽、ないし自分たちの努力をappreciateしたいという純粋さゆえに、
白人ごっこと権威主義に傅かざるを得ないアーティストたち、
立場が弱い。あえて言えばへっぽこだ。
現代芸術史におけるセンパイ星の王子さまたちの、
美しき抵抗をご紹介しよう。
受賞しながらガン無視すると、かっけーよっていう示唆として。
宮崎駿が一番顕著かな。
オスカーもらったのに行かなかった。
2003年、『千と千尋の神隠し』がアカデミー賞長編アニメ賞を受賞した。
普通なら日本映画史上の快挙なので、監督はロサンゼルスに飛んでレッドカーペットを歩く。
ところが宮崎駿は授賞式に出席せず、代理人が受け取った。
当時は理由が明かされなかったが、後年になって本人はこう語る。
「イラクを爆撃している国に行きたくなかった」
わかんの。
2003年はまさにアメリカのイラク侵攻の年だった。
他にも、宮崎パイセンは、「アカデミー賞のための作品を作らない」とか痺れる発言がたびたび。
お歳だからってことらしいけど、2024年『君たちはどう生きるか』がアカデミー長編アニメ賞を受賞した際も欠席だったね。
我らがRadioheadも。
グラミー賞何度も受賞してるけど、へのカッパ。
意にも介しておりましぇーん、と言わんばかりの音楽キャリアを紡ぐ。
ご存知、1997年の『OK Computer』で世界最大級のロックバンドになった。
普通ならその作風を強化するところ、2000年に『Kid A』を出す。(愛)
最高だ。
ギター・ロックを捨て、シングルもほぼ出さず、ラジオ向け楽曲もない。MVすら最小限。
当時の業界では商業的自殺と言われた。
まあ?結果的には全米1位になったけど?(愛)
さらに2007年『In Rainbows』では、
購入者が価格を自由に決めるPay What You Want方式を実施。
レコード業界の常識をキック。
やっちまえ、トム!
ピカピカのトロフィーを自信満々に渡してくる権威たちに、
肩透かしをお見舞いしてやれ!
Fugaziの態度も痺れるよね。
1987年結成。90年代にはアメリカで最も影響力のあるインディーバンドの一つになった。当然メジャーレーベルから契約の話が来るけど、断り続けた。
チケット代は5ドル前後に固定。グッズ商法やらない。MTV乗らない。メジャー行かない。徹底的な反商業主義、マジで憧れる。
…けどマネはできんね。
食いっぱぐれちゃう。
Steve Albiniは一番過激かも。
Nirvanaの”エンジニア”。
1993年に有名な論考『The Problem With Music』を書く。
内容は要約すると、メジャーレーベルはアーティストを食い物にしているという告発。
彼は具体的な数字を並べて、アルバムが何十万枚売れてもバンドにほとんど金が残らない構造を説明した。
さらに本人は、プロデューサーという肩書すら嫌い、レコーディングエンジニアを名乗った。印税も取らない。
『In Utero』級のバカデカ案件でも同じだった。
世界からお歳暮みたいにどちゃどちゃ送られてくる“権威“に、中指立ててたんだ。
かっけー。
ザラっとした感覚の正体
別に俺とて、賞を腐せって言ってるんではない。
Let’s appreciate music!
ただ、「評価されること」と「評価制度に跪くこと」は別だ。
特にこうやって、国家プロジェクトやら自民党やら西洋中心主義やらヘゲモニーやらのイトがびちびちに絡み合ってるときは、足元注意だと、個人的には思うわけ。
問題は賞そのものではない。
賞の存在によって、音楽家やファンが『いつか権威に認められたい』という欲望の回路へ回収されることである。
ミュージシャンは権威に迎合するな!
っていうクソデカ主語とクソデカ述語をふるいたくなる現状、
リスナー諸君の心中、大いにお察しいたします。
しかしザラっとした違和感を微分すれば、ちょっと見えてくる。
MAJは、「ソフトパワー強化」という非暴力的国力に直結するプロジェクトとして、その意義を隠す道理を持たず、
そこにミュージシャンが集うのは、純粋なappreciationモチベだと俺は仮定してるんだ。
そんでもって、
権威って蹴っ飛ばすともっとかっこいいぜ。
みんなで蹴っ飛ばせば、多分、怖くない。
いいねよろしくう!
