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神の見えざる手はどこに消えたか。

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政治や行政が「官の力(市場介入)で経済をコントロールできる」と考えていた時代の賞味期限が、いよいよ完全に切れようとしている。

高市政権とGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)を巡る騒動。片山財務相が「GPIFなどによる国内資産への投資拡大」を示唆したことで、とうとう1ドル164円に迫る市場には一時的に「巨大なクジラが国債を買い支えるのでは」という期待が広がり、金利上昇にブレーキがかかる場面があった。

「日銀が金利正常化のために国債買い入れを減らすなら、その穴埋めを国民の年金資金(GPIF)にさせればいい」

透けて見えるのは、そんな官側の都合と計算。しかし、私たちがここで考えなければならないのは、特定の経済理論の正誤ではなく、「都合が悪くなるたびに官の手で市場をいじくり回せば何とかなる」という発想そのものの限界ではないか。

▪️「メーターの針」を手で押し戻す愚

金利や為替といった市場の価格は、本質的に「その国の経済や財政の健康状態を示すメーター(警報装置)」のはずだ。長引く財政拡大への懸念やインフレの定着によって金利が上がろうとするのは、市場が政府に対して「借金の増やしすぎではないか」「財政規律はどうなっているのか」と警告を発している自然な反応にほかならない。

しかしアベノミクス以降、その警告音が鳴り響くと、日銀の爆買いで無理やり音を消し込もうとしてきた。そして日銀が「これ以上の爆買いは無理だ」と退き始めると、今度は「約300兆円もの国民の老後資金があるじゃないか」と、GPIFの影をチラつかせて市場を押し抑え込もうとしている。

これは、体重計の数値の見栄えが悪いからといって、指で強引に針を押し戻している様なまやかしだ。数値は一時的に取り繕えるかもしれないが、体重そのものが減るわけではない。むしろ、警告を無視して無理な介入を続けた結果は、「コントロール不能な物価高」や「歯止めのつかない円安」という歪みとなって、国民の生活に重く跳ね返ってきてしまう。

▪️「官」の規模を超えたグローバル市場

「困ったときは官製資金で買い支えればいい」という発想は、かつてのバブル崩壊後のPKO(株価維持政策)の成功体験を引きずった、昭和・平成的な「統制の残像」をみているのかもしれない。

現代のグローバル市場において移動する民間資金の規模は、国家の財布をはるかに凌駕している。いくら300兆円という世界最大級の機関投資家(クジラ)であるGPIFといえども、世界中の投資家が「日本の財政や通貨のリスク」を意識して起こす大きな波の前には、ただのプレイヤーの一人に過ぎない。

口先介入や無理な買い支えで一時的に波風を立てることはできても、市場の大きな潮流を力ずくで変えることなど不可能に近い。むしろ、厚生年金保険法で「専ら被保険者の利益(運用益の最大化)のために運用する」と定められている国民の年金資産を、政策目的の「都合の良い財布」として使おうとする姿勢を見せること自体が、海外投資家からの信認を失わせかねない。

▪️アダム・スミスの原点へ帰るとき

経済学の歴史を振り返れば、18世紀にアダム・スミスが唱えたのは「見えざる手」、すなわち市場の自由な取引と価格発見機能に委ねることの重要性だった。

20世紀に入り、大恐慌という極限状態においてケインズが「政府による緊急避難的な介入」の必要性を解いたことは歴史的な功績である。しかし、それはあくまで「大病を患った際の一時的な集中治療」であり、平時においても政府が市場に居座り続け、金利や価格を自在に操っていいという免罪符ではなかったはずではないのか。

政治家や官僚が「市場を自分たちの思い通りにコントロールできる」という全能感(傲慢さ)を持った結果、日本の市場は自律的な調整機能を失い、麻痺してしまった。「日銀がダメならGPIFに」という対応は、政府が取れるまっとうな政策手段がいかに尽きかけているかを、自ら市場に白状しているように見える。

政治の都合で市場のメーターを弄ぶのは、もうやめるべきだ。金利の上昇も、為替の変動も、市場が発している生のメッセージとして真摯に受け止める。そして、政府の手による過剰な介入を排し、市場が本来持っている自律的な調整力(見えざる手)にハンドルを戻す。それこそが、いま日本経済が直面しているジリ貧のゲームから抜け出すために求められていることかもしれない。

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