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アライグマの憂鬱(娘に渡す文学版)| ♯シロクマ文芸部

娘が大きくなったら、深そうで浅い話をしてやりたくて話を作りました。


シャボン玉が空高く飛んでは消える。

アライグマは、人間の都合でこの町に連れてこられた。捕まり、檻に押し込まれ、名前も奪われ、
役に立たないとわかると、ただの「特定外来生物」として処理された。

毛皮の色も、爪の形も、野性の匂いも――
すべてが“異質”という一言で片づけられた。

人の勝手な都合で、役割を期待され、
その扱いに困ると無慈悲に処分された。

誰も彼らの意思など気にしなかった。
無関心は、暴力より静かで、深く刺さった。

「人間になれば……人間に近ければ、きっと迫害されない。」
そう思ったアライグマは、必死に人間の真似をした。

手を洗い、床を拭き、仕草を真似た。

洗うたびに毛が抜け、皮膚が赤く腫れあがり、
自分の輪郭が少しずつ削れていくのを感じながら。

仲間たちの視線も変わった。
「嫌な人間の真似をするヤバいやつ。」
その言葉は、泥より重かった。

ある日、ゴミ箱の底に小さな石鹸を見つけた。
拾い上げた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。

「身体がきれいでなければ、人間らしくない……。
食べ物も、服も、水も、
すべてきれいでなければ人間になれない。」

泡を指先に繰り返しすり込むたび、
指先の痛みが“正しさ”の証のように思えた。

だが、色んなものを洗えば洗うほど、
口に合わない食べ物を無理して食べるほど、
身体は弱り、心は揺らいだ。

気づけば行き先失い、誰からも相手にされない。

夜、軒下で震えるたび、
自分が何者なのか分からなくなった。

その時、静かに声が降りてきた。

「……ずいぶん、無理してるのね」

顔を上げると、人間の女
――珠代さんが立っていた。

彼女の目は優しいようで、どこか疲れていた。
生活の重さを抱えた大人の目だった。

嘲りでも、哀れみでもない。
ただ、見ている。
その距離が、逆に痛かった。

珠代さんは息を吐き、低く言った。

「ねぇ、アンタ。深いこと言ってるようで
めちゃくちゃ浅いのよ。」

「でもね。浅いってことは、
まだ沈めるってことよ。」

「偉そうに言ってるけど、私もよくわかってない。
他人が話してくれることなんて、
結局そんなもんなのよ。」

アライグマは息を呑んだ。
珠代さんは続ける。

「勝手に連れてこられて、理不尽な目に遭ってもさ、
生き残るには、ちょっとだけ合わせるしかないのよ。」

「でも全部、勝手な人間に合わせる必要なんてないの。人間の私が言うことじゃないけど…。」

そして、ほんの少しだけ笑った。

「ヒトはヒト、アライグマはアライグマ。
サカナを石鹸で洗って食べたりしてまで、
人間にならなくていいのよ。」

アライグマは何で薄汚れた自分に
声をかけてくれたのか、不思議で仕方なかった。

「……アンタ、似てるのよ。
昔の私に。
身体が治るまでウチにいらっしゃい。」

その一言が、胸の奥の古傷に触れた。
理解される痛みは、孤独より鋭い。

珠代さんは、近くの仲間たちに目をやり、
ふぅーとシャボン玉を吹いた。

虹色の泡が、風に乗ってゆっくり舞い上がる。
触れようとすれば壊れる距離で、ふわりと揺れた。

「男なんて、シャボン玉ね」

軽く言ったその言葉の裏に女として生きてきた
長い時間の重さが滲んでいた。

彼女は小さな角砂糖を一個だけ目の前に置いた。
理由は言わなかった。
アライグマも聞かなかった。
ただ、その沈黙が、妙に温かかった。

アライグマは珠代さんを真似て、
手を洗い、食べ物を口にし、水を飲んだ。
そのたび、石鹸の香りが黒い鼻をくすぐる。

身体の調子が戻るまで、珠代さんの家に
居候させてもらった。

正しい努力の仕方を少しずつ学びながら、
アライグマとか人間とか、どうでもいいことを
考えずによく食べ、よく眠った。

過剰な努力で壊れかけた身体も、心も、
少しずつ楽になった。

孤独や失敗の痛みが、珠代さんの静かな理解の眼差しに溶けていく感覚―― それは、初めて自分を許される気持ちだった。

そして深呼吸ひとつ――
野生の香りが鼻をくすぐる。

自分の世界へ戻る時だ。

もう、人間になろうと焦る必要はない。

ヒトにはヒトのルール、
アライグマにはアライグマの世界。

無理に背伸びする必要はないのだと、
初めて理解した。

最後まで角砂糖をどうしても
食べることができなかったけど。

川に飛び込み、仲間たちの中へ戻る。

窓の上から、珠代さんの吹いたシャボン玉が、
ゆっくりと空に溶けていく。

アライグマは泥と太陽の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。


【注意】アライグマは特定外来生物です。可愛い外見に似合わず、凶暴とされ、農産物や環境に大きな負荷をかけると言われている動物です。
見かけた場合には、近寄らないで自治体などに連絡してください。


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