(ホラー小説 短編)トラウマから逃げられない…幻覚
一
最近、眠れない。
眠気はあるのに、布団に入ると胸の奥がざわつき、呼吸が浅くなる。
そして、眠りに落ちた瞬間、意識だけが浮かび上がる。
体が動かない。
声も出ない。
まばたきすらできない。
金縛り。
医者はそう言った。
「レム睡眠麻痺です。脳が先に起きてしまうだけですよ。ストレスや寝不足で起こりやすいんです」
説明は理解できる。
だが、納得はできなかった。
なぜなら、金縛りのたびに“影”が部屋の隅に立っているからだ。
二
最初は、ただの黒い塊だった。
輪郭も曖昧で、目の錯覚だと思い込めた。
だが、回数を重ねるごとに影は形を持ち始めた。
肩のライン。
髪の長さ。
立ち方。
どこかで見たことがある。
思い出したくない、あの姿に似ている。
「幻覚です」
医者はそう言った。
「強いトラウマがあると、睡眠中に再体験が起こることがあります。
金縛りと重なると、幻覚として知覚されることも」
トラウマ。
その言葉に胸がざわつく。
あの日のことは、忘れたはずだった。
三
金縛りは悪化していった。
影は毎晩、少しずつ近づいてくる。
呼吸を整えようとすると、影が同じリズムで揺れる。
ある夜、影が胸に手を置いた。
冷たく、重い感触。
確かに触れられた。
朝、胸には黒い手形が残っていた。
幻覚なら、触れられるはずがない。
幻覚なら、痕が残るはずがない。
医者は「無意識に自分でつけたのかもしれません」と言ったが、
背中にも同じ痣があった。
どうやって自分でつけるというのか。
四
起きている時にも影を見るようになった。
ガラスに映る。
通りすがりの人の顔が影に変わる。
耳元で名前を呼ばれる。
「……どうして」
その声は、あの日の声だった。
忘れたはずの声。
封じ込めたはずの声。
事故の日。
自分のせいで、守れなかった“あの人”の声。
「どうして助けてくれなかったの」
影が囁くたび、胸が締めつけられる。
五
眠るのが怖くなった。
だが、眠らなければ影はもっと近づいてくる。
三日目の夜、限界が来た。
意識が落ちる。
金縛りが始まる。
部屋の隅に、影が立っていた。
もう輪郭は完全に“あの人”だった。
「お前が見捨てたんだろ」
影が一歩近づく。
布団が沈む。
「違う……俺は……」
声が出ない。
体が動かない。
影が顔を近づける。
その顔は、主人公自身だった。
「お前が殺したんだよ」
耳元で囁かれた瞬間、現実が崩れ落ちた。
六
翌朝、主人公は病院のベッドで目を覚ました。
医師が言う。
「あなたは自分で救急車を呼んだんですよ。
“影が来る”と叫びながら」
主人公は首を振る。
そんな記憶はない。
医師は続けた。
「強いトラウマが原因で、現実と幻覚の境界が曖昧になっているんです。
治療すれば、影は消えます」
主人公は天井を見つめる。
影は消えるのか。
その時、視界の端で何かが揺れた。
呼吸のリズムに合わせて、
黒い影がゆっくりと立ち上がる。
「……また、来た」
医師には見えていない。
影は主人公だけを見ている。
そして、囁いた。
「次は逃がさない」
主人公の呼吸が止まった。
影は、もう離れない。
あとがき
この物語を書きながら、ずっと意識していたのは「恐怖の正体は、外側ではなく内側にある」ということだった。
金縛りという現象は、医学的には説明がつく。
睡眠麻痺、ストレス、トラウマの再体験、どれも現実に存在する。
けれど、人が本当に恐れるのは“説明できること”ではない。
説明できるはずの現象が、説明の限界を超えた瞬間に生まれる“揺らぎ”だ。
主人公が見た影は、怪異ではない。
誰かの怨念でも、超常の存在でもない。
もっと近く、もっと深く、もっと逃げ場のないもの主人公自身の心の奥に沈んでいた痛みそのものだ。
人は、忘れたつもりの記憶を完全に消すことはできない。
封じ込めた感情は、形を変えて必ず戻ってくる。
それが夢であれ、金縛りであれ、影であれ。
この物語の影は、主人公の罪悪感であり、後悔であり、
そして“向き合わなかった自分自身”の象徴だ。
もしあなたがこの物語を読んで
「影は本当にいたのか?」
「すべて主人公の幻覚だったのか?」
と考えてくれたなら、それで十分だ。
恐怖とは、答えがひとつではないからこそ、心に残る。
そして、あなたの中にも、まだ名前を持たない影がひっそりと息を潜めているかもしれない。
