美しき欠陥
僕は今、7歳になる娘と一緒に公園に来ていて、ブランコに向かって走る後ろ姿を眺めながら、この文章の下書きをポチポチと書いている。
日に日に大人びていく娘は、ずいぶん長くなった髪の毛を耳にかけて、走り出す。
半ズボンから伸びた白く細い足で、一生懸命に地面を蹴りながら、遠ざかっていく。
暮れかけた太陽のあたたかい光が、公園の遊具を金色に染めている。
細く伸びた影は、世界を切り取る不思議な形をした記号みたいに見える。
公園の脇に植えられた名前も分からない花の、甘くてどこか懐かしい香りが、風に乗ってやってくる。
突然、ある感情が、泡のようにふつふつと蘇ってくる。
あれは、7年前の春。
7年前の春、22時46分に、娘が生まれた。
晩御飯どきに産気づいて、急いで義父の車で病院に向かった。
もくもくと湯気を出す春野菜の鍋を食卓に残したまま、家を飛び出す。
途中、義父は静かにパニックになって、道を2回間違えた。
個室でさまざまな検査を受けている途中、妻の方から「パァン!」という大きな音がした。
助産師さんは慌てず落ち着いた声で「あー破水したね」と言う。
僕はというと、義父よろしく完全にパニックになり、「大丈夫ですか、大丈夫なんですかこれ」と質問し続けていた。
分娩室に入ってから、数時間。
妻の痛々しい悲鳴を聞きながら、ひたすらに手を握ったり、水を飲むのを手伝ったりした。
妻の額に滲む汗、僕の額にも滲む汗。
痛みのあまり、妻は、骨が折れそうなほど強く僕の手を握りしめた。
この際、骨の一本や二本別にいいや、と変に達観しながら、励まし続ける。
やっとのことでこの世に生まれ出てきた我が子は、分娩室内に響く大きな声でおぎゃあと泣いた。
その瞬間、部屋の中の空気が一気にたわみ、妻の強張っていた手の力がスウッと抜けたのが分かった。
我が子と対面した妻は、部活を終えた高校生のように、荒い息を整えながら誰にでもなく「お疲れっした」と囁いた。
僕はそれを聞いてなんか笑ってしまった。ごめん。
正直に言うと、生まれてきた我が子を見ても、僕は父親になったという実感が湧かなかった。
あまりにも小さくて、無防備な命。
いきなり「はい、これはあなたの子どもですよ」なんて言われても。
だけど、初めて対面する我が子は、掛け値なしに美しい存在だと思った。
出産が無事に終わり、個室に移動した。
疲れ切った妻はすやすやと眠っていた。
僕はなんだかソワソワしてしまって、病院を少しだけ抜け出して散歩をすることにした。
妻を起こさないようにゆっくりとドアをスライドさせて、病院を出る。
よく晴れた日の夕方。
帰宅時間帯だったのか、仕事帰りの人々が足早に駅の方へ向かって歩いて行った。
しばらく歩くと並木道に出た。
揺れる葉の間から溢れる木漏れ日が綺麗で、少し見入ってしまう。
遊歩道に沿ってまたのんびりと歩いていると、遊具のある広々とした公園にたどり着いた。
少し古びた木のベンチに腰掛けて、ぼんやりと遠くを眺めていた。
足元には背丈が10センチくらいの短い雑草がちらほらと生えており、青臭い植物の香りが鼻を掠めた。
燃えるようなオレンジや黄金色や、薄紫やピンク。空は、たくさんの色を混ぜたグラデーションをなして暮れかかっていた。
強い太陽の光線が、公園の遊具や花や木や、少し遠くに見えるコンビニや、駐車場の精算機や、そういったこの世界のあらゆるものを金に染め上げていた。
夕焼けがあまりに眩しくて、目を細めた。
その時ふと頭に流れ込んできた不思議な感覚のことを、今でもはっきりと覚えている。
今日は何故か、いつもと違う感じがする。
眼に映るものがすべて美しくて、この先待ち受けている未来が、どれもきらきら輝いているように思える。
これから起こる全ての出来事が、うまくいく。
何ひとつ、心配する必要はない。
時が止まり、心の中の海は凪ぎ、鏡のような水面に一滴の水が落ちたような、凛とした感覚だった。
ポタリと落ちた水滴は水面に波紋を作る。そのゆらぎの円は徐々に大きくなりながら広がっていき、やがてまた水面に溶けて消えていった。
これから起こる全ての出来事が、うまくいく。
そんな、到底実現する可能性のないことが、まるで磨き上げられた水晶のように光り輝いて、透き通った真実であるかのように感じられた。
ふと冷静になって、考えた。
全てうまくいく。そんなこと、あるはずがない。
これは、きっと脳のおりなすひとつのバグだ。
思考回路の欠陥だ。
だけど───
だけどとても美しく、素晴らしい欠陥だ。
もしもどこかに神様という存在がいるのなら。
それはたぶんわざと、人間の脳の中にバグを残したのだろう。
あまりにも理不尽で、無慈悲で、うまくいかないこの世界の中を、私たちがどうにかこうにか生き延びられるように。
美しき欠陥。
そんなことを考えながら、病室へ戻った。
妻はまだ、寝息を立ててぐっすりと眠っていた。
それから少し時間が経って、娘が3歳になった年の冬。
仕事中、電話口の相手の話がうまく理解できないことに気付いた。
座っているのもしんどくなって、早退が増えた。
キーボードの「3」がどこにあるか分からなくなった。
職場近くの心療内科を受診した。
診断名は、鬱病。
仕事を休みがちになり、鉛のように体が重く、ベッドで一日中寝ている日が多くなった。
スマホを見る余力もなかった。
ひたすらに横になり、目を瞑って、時が過ぎるのを待つ。
時折、遠くに電車の走る音が聞こえる。電車が走り去ってしまうとまた静寂がやってくる。
音のない音が頭の中に入り込んで、後ろ向きな感情を増幅させる。
仕事に行けない。
家事もできない。
娘とも触れ合えない。
罪悪感と情けなさで、潰れそうだった。
自分はこれから、どうなってしまうのだろう。
ずっとこのままなのだろうか。
生きているだけで素晴らしい、なんて嘘だ。
いつか全部うまくいく、なんて嘘だ。
だったらなんで、生きているだけでこんなに苦しいんだ。
こんなことなら、いっそ───
常夜灯の小さなあかりだけがついた寝室で横になっていると、ドアがゆっくりと開いた。
廊下の光が部屋に差し込んで、小さな影が近づいてくる。
リビングにいない僕を探して、娘がやってきたのだった。
「パパ、だいじょうぶ?」
たどたどしく、娘は僕に言う。
「大丈夫だよ。ちょっとお腹が痛くて」
頭をくしゃくしゃと撫でると、納得したように娘はリビングへと帰っていった。
こんなに小さないのちに、守るべきはずのいのちに、僕は逆に守られている。
そう思うと、思わず泣きそうになってしまったけど、歯を食いしばって必死に涙を堪えた。
それから時間はかかってしまったけど、なんとか動けるようになった。少しずつ仕事にいけるようになり、日常を取り戻していった。
娘は相変わらずいつもニコニコしていて、ひとつだけ、僕によく質問するようになった。
「パパ、お腹だいじょうぶ?」
あの出産の日から、7年が経った。
娘は夏の若草のようにぐんぐんと成長し、この春に小学校へ入学した。
ある土曜日の朝、娘は体を丸めて「お腹がいたい」と言った。
よくある腹痛かと思い様子を見ていると、みるみる顔色が悪くなり、嘔吐した。
痛みも酷くなっているようで、いたいいたいと泣き叫んだ。
病院が開くまで、まだ数時間あった。
少し迷ったが、救急車を呼ぶことにした。
手が震えて、画面に表示されるボタンをうまく押すことができない。
救急車の中で、娘の顔はどんどん青白くなった。
眠っているのか、意識が朦朧としているのか、ぐったりとして動きがない。
救急車がぐねぐねと曲がる山道を走る。
車が揺れる。
救急隊員の動きが、ほんの少しだけ慌ただしくなるのが分かる。
娘の手を握りながら、僕は、ただひとつのことを願っていた。
お願いします。
助けてください。
この子だけは。
やっと手に入れた、
大切なものなんです。
何でもします。
僕の命ならいりません。
引き換えで構いません。
命の交換ボタンがあれば、
今すぐに押します。
だから、お願いします。
この子だけは。
この子だけは。
この子だけは。
情けないことに、涙が止まらなかった。
病院に到着し、様々な検査を終えた娘は、ベッドの上ですやすやと眠った。
目を覚ますと、嘘のようにケロリとして「パパ、ママ、お腹すいた」と言った。
検査の結果、特に異常は見つからなかった。
僕は、娘の頭をくしゃくしゃと撫でてまた泣いた。
7年前に感じたあの予感は、実現しなかった。
辛い出来事がたくさんあった。
ベッドから起き上がれなかった日。
不甲斐ない自分と、未来に絶望した日。
娘の命の危機を感じて、冷や汗を流した日。
あの日の感情は、あまりに美しい存在に騙された、脳みその一時的なバグだったのだ。
だけどもやっぱり、僕はそのシステムの欠陥を美しいと感じてしまう。
たとえそれが、ただの勘違いだったとしても。
思い込みだったとしても。
単なる理想だったとしても。
太陽に照らされて輝く、妻によく似た黒色の髪の毛の美しさ。
心配そうに僕を見つめる、あの日の透き通った瞳。
美味しそうに食パンを頬張る横顔。
ちいさな手のひらのあたたかさ。
そういったひとつひとつのことが、どうしようもない僕の後ろ向きな人生に、またバグを引き起こす。
「心配ないよ、大丈夫だよ、全部うまくいくよ」と、優しい声でこころを撫でて、そっと包み込んでくれる。
凝り固まった卑屈さや、絶望や、終わりの見えない悲しみを、いつのまにか溶かしていく。
僕は今、7歳になる娘と一緒に公園に来ていて、ブランコに向かって走る後ろ姿を眺めながら、この文章の下書きをポチポチと書いている。
あの時と同じ黄金色の夕焼けが、あたりをチリチリと照らしている。
駆け出す風で娘の髪がふわりと揺れて、スニーカーが土を蹴る音だけが公園に響いている。
ふいに立ち止まった娘はこちらを振り向き、何か言いたげに微笑んでいる。
これから起こる全ての出来事が、うまくいく。
何ひとつ、心配する必要はない。
美しき欠陥が、今日もささやいている。
