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ざっくり「哲学」入門の入門|⑦テーマ「世界は認識できるのか?」近代哲学とは?

 最初の3回の記事で、哲学の大きな流れを見てきました。その中から、テーマを別けて、まとまった潮流について、一緒に見ていきましょう! テーマの記事を通して読むと、これまでの哲学の基本的な考えを網羅することができます!

テーマ「世界は認識できるのか?」 近代哲学の始まり

 中世の終わる頃は、キリスト教の権威はなくなり、自然科学で世界の在り方がひっくり返され、何も信用しない「懐疑派」と呼ばれる学問の派閥の人達がでてきます。何でも懐疑的に見る人たちです。社会に不信感がでてきます。
 そのような中で、時代が求めるように登場したのが、デカルトです。


理性的な考えしか受けつけないモンスター「デカルト」

 デカルトは、すべてを疑うことから開始します。キリスト教に配慮することは一切しません。そして人間の理性のみで追求しようとするのです。
 いま、目の前にある光景や、モノそのもの、その意味などすべては、自分がそのように認識しているからなのではないか。そこまで懐疑的に考えたのです。(方法的懐疑)。その結果、有名な言葉を残すこととなります。
「われ思うゆえにわれあり」
 全ては疑うことができてしまう。しかし、最終的には疑っている自身の存在だけは、疑うことができない、という発想です。

 この考えが画期的である理由は「問い方」にあります。
 古代ギリシャ哲学では、「世界とは何か?」ということを、世界の中から客観的なものを見いだそうとしてきました。
 しかし、デカルトは、「世界とは何か?」ということを「世界(神・存在・真理)は、人間の理性(主観)で認識できるのか?」という問いに読み替えたのです。その結果としての言葉です。デカルトの理性で理解できるという考え方は、自然科学の発見が連続した時代に、共存しやすい考え方でした。
 これは「主客一致」の問題として、この後も、ずっと議論されていきます。

 加えて、もう一つ難問を残しました。人間は身体と精神が合わさった存在だと考えました。世界もモノと精神が合わさってできている。神がそのように作ったと考えました。「物心二元論」の問題です。もし、精神と世界が一致していないのであれば、精神が及ぶ範囲でしか世界を捉えられない、となってしまいます。はたして、どこまで精神が及んでいるのか? という大きな問いです。

デカルトの問いの深化、「大陸合理論」と「イギリス経験論」

デカルトの問いに対して、2つの潮流が現れます。
「大陸合理論」客観的に見れる派(スピノザ、ライプニッツ)
「イギリス経験論」客観的に見れない派(ロック、バークリー、ヒューム)

「大陸合理論」客観的に見れる派

 スピノザは、「主客一致」の問題は、世界は人間の理性で認識できる、と考えた。これはデカルトと一緒です。スピノザは数学のような証明方法で、神の存在、世界そのものを理性で解き明かそうとしました。『エチカ』
 しかし、二元論については、世界はすべて神の現れなので、精神も自然も矛盾しない。理性的なルールで(演繹的に)理解できる。一元論(汎神論)の立場と取りました。

 ライプニッツは、神は無数の実態からなっていて、その不可分な存在を「モナド」となずけました。それは、精神的な実体として、見ることができる(世界が現れている。世界を表象している)と考えました。プロセスがややこしいですが、これも結局は、精神と世界(神)の現れの一致「一元論」と考えています。

 どちらもデカルトの二元論を「世界(神)=認識(精神)」(一元論)として、乗り越えようとしています。

「イギリス経験論」客観的に見れない派

 大陸合理論で、いくら客観的世界が現れてそれが一致していると言われても、結局は「世界に関する観念がどのように主観において形成されるか」ということですよね? という立場をとったのが、イギリス経験論です。
 デカルトの、「意識=主観」(われ思う故われ在り)を継承しています。

 ロックは「主観」に着目します。人間が生まれた時は白紙の状態で、その後いろいろなプロセスを経て、複雑な観念ができてくる。主観は育つものだ、という主張です。
 しかし、抽象的な概念、(形状:さんかく、数字:1とか0とか)は、どこからか学ぶことになる。「どかからか」というためには、それには原因(大本)が無くてはならないので、心の外部にそのような客観的な世界があって、それを「観念」として受け取っていく、と考えました。

 大本がないとこまるから、心の外には客観世界がある、というのは、根拠が乏しいような気がしてしまいます。

 バークリーは、ロックの、心の外にある客観世界が存在するかどうかは証明はできない、と言いました。懐疑的な態度です。

 ヒュームは、最も批判的で懐疑的な人です。神でも世界でも真理でも、なんでもいいけど、すべては習慣です、という主張です。
例えば、
 山が見えます。目をつぶります。目を開けると同じ山が見えます。
 ローソクの炎を見ます。触ると熱かった。炎は熱い。次も熱い。

でも、それは経験的に言っているだけですよね。習慣から生じた信念に過ぎないですよね。それって同じ山ですか? ローソクの炎って次触ったら熱くないかもしれないですよね? 自然科学の発見がいっぱいでてきましたが、因果的に正しそうに見えますが、それらも人間が実際に解釈するのは経験的にそう言える、という信念でしかないですよね。
 という主張です。この人は、ぶっとんでて、振り切れてますね。

「カント」、デカルト問題を片づけた巨人

 時を経て、ドイツの哲学者カントによって、「大陸合理論」と「イギリス経験論」の折衷案のような、画期的な世界の認識が提示されます。そして、それ以外にも、形而上の問いについての態度や、道徳的な態度自由の在り方、という社会秩序に対する見解も述べます。それではカントの主張をみてみましょう!

カント① 世界(客観)は認識できるのか問題

 カントは、これまで「客観的」として使用されていた言葉の定義を少しずらします。
 これまで語られてきた、いわゆる世界(客観、神、真理(可想界))は、それそのものは認識できない。すべて自分の意識(主観)に現れた世界(現象界)である。しかし、主観に現れた世界の中で、他者と共通了解できる(認め合える)秩序が存在する。それは誰もが認める秩序なので、それを「客観性がある」と言える、という主張です。
 個人は「主観」でありつつも、客観的な合意できる部分がある、それが、自然法や自然科学分野である、というものです。

 現代のわたしたちの感覚にグッと近づいたのではないでしょうか。

カント② 形而上の思想をどう考えるか

・世界に始まりはあるか?ないのか?
・物質は無限に分割できるか?できないか?
・すべては因果法則にしたがっているのか?それとも自由はあるか?
などなど。形而上の究極の問いがいくつもあります。

 カントはこれらを「答えの出ない問い」アンチノミー(二律背反)だ、と言います。アンチノミーは二つの対立する命題がどちらも証明できることを指します。

例えば、
 「世界に始まりはない」とすると、いまの時点で無限の時間が過ぎさったことになりますが、それは不可能なため、どこかの時点で、世界に始まりがある、となります。
 しかし、「世界に始まりはあるか?」と仮定すると、さかのぼるとどこかの時点から無の状態になってしまいます。無から有は生まれないため、始まりは無くなってしまいます。

 また、人間は理性でいろいろなものの形而上学的な理由(存在理由)を求めがちだけど、答えはない、と言っています。

カント③ 「道徳的」であることと「自由」の関係

 カントは、②の理由により、形而上的な「自由」そのものを考えることは答えの出ない(認識不可能)だと考えています。しかし、人間の行動は全て自然の因果律で決まっていて、運命や宿命のようなもので決まっているわけではありません。決まっていたら人間は「自由」ではなくなります。
 実際には、わたしたちは「自由」であり選択できる。その場合、衝動的な感情を抑制して「道徳的」な行いを選択することが必要だ、と言います。その時の「道徳的」とは、理性から生まれた、他者のためになる善き行い、と定義しています。

 なんとなく、民主主義的な合意形成の原型のように感じますね。

ヘーゲルの弁証法、ドイツ哲学の主流、『精神現象学』

 カントの思想を展開したのは、ドイツの哲学者ヘーゲルです。ヘーゲルの思想の核になっているのは、「弁証法」です。

 まず、カントが認識不可能とした、世界そのものについては、想定する必要がない、と切り捨てます。「意識に現れてくる対象をどう認識するかのみ」を問題とします。

 ヘーゲルの弁証法は、3段階で発展します。
●弁証法
①「正」最初の判断A
②「反」Aを否定する判断B
③「合」Bを否定する判断C(Aの否定の否定)「止揚」

 最初の考え(A)に、反する考え(B)が出てきたときに、それらを統合した考え方(C)へ昇華させるのです。それにより、自己が成長する、と考えました。
 この考え方は、歴史にも適用して説明します。

●歴史の弁証法的発展
①「意識」
②「自己意識」ストア主義 ー 自己中心的
③「理性」普遍意思    ー 他者に配慮

 「意識」が現れて、「自己意識」を中心に行動し戦争がたえなかった古代から、中世のキリスト教の「普遍的なもの」をもとめる時代に変化して、近代は、理性を用いて、他者に配慮した、みんなにとって正しい「普遍意思」を求めるように、歴史が成長(発展)してきた、と述べます。

ヘーゲルの考える「国家」、個人の自由と社会の法の調和

 個人の自由と市民社会は、どのように両立させることができるのか? まず、自由を定義します。
 自由とは「自己の存在価値を求める欲望」と「他社から存在価値を認めてもらいたいという欲望」の均衡と考えました。
 自由は欲望をみたしますが、争いの原因にもなります。自由を奪われた側の人は、自由を求めて争うようになります。
 したがって、すべての人々に自由が与えられない限り、争いはやまないと考えました。とすると、人々が自由を相互に承認し合うことができて、社会制度をそのように整備できたら、それこそが理想的な「市民社会」のあり方だ、と考えます。

 そのような「市民社会」を実現するために「国家」が必要となります。市民社会では、自己の存在価値が他者に承認されてこそ、真の自由を実感することができる。そして、他者の承認を得るためには、承認の基準となる共同的な道徳(人倫)や秩序が必要になる。これを「共同性における自由」と呼びました。その調停を行い、承認の基準を確立して運用していくために「国家」が必要だ、と考えました。

 他者の承認についての指摘は、SNSが発達した現代人は深く同意するでしょう。国家を他者と自由を認め合うための調停機関としたことは、改めて国家や社会というものを考えさせられますね。

フッサールの「現象学」、近代哲学のラスボス、現代哲学の始祖

 フッサールとは「現象学」を唱えた人です。現象学は近代哲学の一つの解答だと考えています。デカルトやカントに比べると知名度は低いと思いますが、わたしはこのフッサールが近代哲学のラスボスで、非常に重要な人だと考えています。
 フッサールは、客観世界はないと考えます。主観と主観(「間主観性」)のなかに共通了解を見いだす。それ以外はない。
 人間の、「主観」「理性」「意識」を全面的に信頼し、これまでの近代哲学を継承しつつ、それを限界まで突き詰めたものです。

おわりに

 「世界は認識できるのか?」というテーマに沿って、近代哲学が、どのような考えを積み上げてきたか、ひととおり理解できたと思います。フッサールの詳細は、次回の「現代哲学」の回にします。その理由は、「現代哲学」が、フッサールによって突き詰められた「近代哲学」を否定するところから始まるからです。現代哲学はいろんな方向に枝分かれして、ややこじれていますが、わかりやすく解説します!

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つづく!

承認欲求があってこまるの図


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