「すべてがFになる」森博嗣 感想:読書はシミュレートか?
ネタバレ
私は四季シリーズを読んでいないので、深ヨミや間違いがあるだろう。
感想のたぐいだと思えば良い。
タイトル
-すべてがFになる
-The Perfect Insider
直接的意味は、16進数表示による2byteのunsigned integer型変数が
バッファオーバフローする様(違うか単にフルカウントになること)
を指している。
しかし、タイトルが
物理的事実を指しているだけ
と考えるべきであろうか?
通常、タイトルは作品全体を指していなければならない。
あるいは作者得意のダブルミーニングである。
巻頭引用文の内容
-オブジェクト指向について
-抽象化について
-交換の末の抽象化
-金と匂いの交換可能性は抽象化の末の事象
-抽象化の実態は脳の発達
-脳の機能はシミュレート
-喩えるものと、喩えられるものとが現れる
-脳の回路の余分が信号一つと複数との対応を生み出す
天才の頭脳が
その回路余剰によって
シミュレートを行い
一から多を生み出す
という抽象的交換現象を引き起こすことを暗示
これは、天才である登場人物の真賀田四季多重人格の説明であると同時に
”金の匂い”、という
”具体的””物理的”不存在の存在
を生み出していることに注意。
殺人の証拠
-手足が切断されていること
-背中にナイフが刺さっていること
-証拠がすべて綺麗になっていること
間接的であることに留意。
自殺が論理的帰結、とは、中序盤の作中の言である。
真賀田四季の娘が存在した証拠
-黄色いレゴブロックに付いていた指紋
-15冊ずつの種々の本
-人形等の存在
-鍵を締めるロボットの存在
-前述の死体の間接的殺人の証拠群
レゴブロックに付いている指紋、だけが物理的に存在した証拠である。
そして、その証拠性は弱い。
やや余計な深読み的であるが、他人の子供の指紋でも同じことである。
いや、時間的な制約を取り除けば、誰でも一時は子供であり、
四季以外の誰の指紋でも良い。
本当に存在したのか?
「”不存在”の存在」の可能性に留意。
死体は誰か?
-真賀田四季本人
-真賀田四季の娘
これは作中でも議論になったことである。
議論は完全だったか?
真賀田四季と娘の区別は?
-年齢
-出産の有無
-天才性
娘は天才か?
-泣いた
-四季は泣かない
つまり否。恐らくこれは信じて良い。
ところで、泣かずに生まれてくる、存在、とは
いつどう生まれたのか?
そして、「人形」とは?
人が生まれるのは、物理的存在として生まれた時、なのか?
そして、いつどうやって死ぬのか?
「人形」がどこかへ行ってしまったとは?
どこかとはどこか?
脳の機能は余剰の回路によるシミュレートであることに注意。
死体の性質
-年齢: 不明
-出産: 無し
-指紋: 不明
年齢については、真賀田未来が
冒頭の萌絵ちゃんが話した”四季”よりも
歳がいって見えるという描写があるが
研究所の人物たちは年齢より若く見えていることが何度も言及されている
ので見た目を確定要素とは出来ない、ことに留意。
死体の出産歴は、警察の芝池による出産歴なし、が言及されており、
事実と見るべきであろう。
しかし、直ちに導けるのは、死体の出産歴がない、ことだけである。
真賀田四季なのか、その娘なのか、とは即座に対応しないことに注意。
死体の論理的帰結
- 真賀田四季であるが、出産はしていない
娘の"物理的"存在が証明されない限り。
- 真賀田四季は出産しており、死体は真賀田四季ではない
犀川の推理(=娘の存在)を信じる限り。
では、前者を仮に信じ、犀川を疑う時、
事件の推理パート(VR空間)および事件後パート(現実空間)における
四季だというデジタル・人間存在は何であるのか?
真賀田未来は存在するか?
-存在する言及はわずか
-存在しない言及もない
決定不能である。
ところで、名前がFutureすなわち未来である。
真賀田四季は存在するか?
存在とは抽象的交換によるシミュレートであることに留意
つまり、どう存在するか?というのがより精密である。
推理の不自然さ
完璧だったか?
科学的な説の作中の定義は?
対応関係
最終盤の犀川に対する監視の「存在」は「不存在」になった
これは、「勘違い」、という脳のシミュレートの結果である
そして、それは四季による犀川の脳の操作である
四季の「人形」と犀川の「マリオネット」
唯一の娘の存在証拠である、「黄色のレゴブロック」
シミュレートは脳の機能であり
シミュレートはコンピュータの機能である
シミュレートは読者の脳の機能である
シミュレートは不存在を存在させる
誰が何をシミュレートしたのか?
コンピュータウイルスは実際に生命である、という犀川の定義
解決編はVRゲーム世界で行われた
VRは
Virtual Reality
つまり、直訳で”殆ど現実”の意味である
そして、コンピュータ世界が現実を上回る、であろう
という四季と犀川の未来予想
すくなくとも、区別不能である、という発言
これは、シミュレートでしかない、という暗示
一般に、独立した2つのエンティティが完全に同一の主張を述べる、時
それは「世界の真実」への収束である、ということに留意
「三人の人間を殺したのは、貴女ですね?」
「そうです」
3人とは誰か?
① Aの存在を認めて、Bの存在を認めない時
② Aの存在を認めず、Bの存在を認める時
どちらを採用するかで、
この3人および死体、の仮説は
入れ替わる!
(もちろん、AとBとには、作中の登場人物を具体的に当ててほしい)
これにより、山根が殺された、理由は、俗ではなくなる。
泥縄ではあるのだが、それが起きている状況が異なる。
red magic。
存在をかけて。
シミュレートをかけて。
それは、有機でも良く無機でも良く。
当然、異なる名字を持って。
当然、完全なるシミュレーションをもってして。
完全でなければ、存在できない。
存在するなら、完全である。
完全なシミュレートを我々は区別し得るか?
山根さん優秀だよなぁ。僕は山根さんになれれば十分である。
優秀であるから、殺されたのだ。
魔法は止められてはならない。
真賀田四季は天才でもあるが、化け物でもある、という事がよく分かる。
人間か?
しかし、これが100年以内に十分問われ得る、という現実と、作者である森博嗣氏の預言者ぶりに感服せざる得ない。
僕も、化け物、となることを決断する人々、ぐらいは見れるだろうか?
100年では追いつけないか?
分からない。迫っているのだという主張は急激に多くなってきた。
本作で予言されたのは
固定電話がなくなることか?
メールやメッセージングか?
テレビ電話?
SNS?
リモートワーク?
スマート家電?
VRゲーム?
デジタルワールド>リアルワールド?
AIの誕生?
いや、違うではないか。
2025年の今、さらに踏み込んだ人間存在に関する議論、があるではないか。
本作では、死の定義、生の定義、が非常に曖昧化されている。
それは、コンピュータウイルス、それは、デボラの静電容量、それは、ロボットに載って動く様、それは、VR空間での登場、それは・・・
読書とはシミュレートか?
文学とはシミュレートか?
創作とは存在か?
存在はシミュレート出来るか?
コンピュータで。ニューロモーフィックで。AIで。脳で。ネットワークで。
これは、疑問であり、終わらない結論でもある。
あなたのシミュレートも続いていく。
そして、それが存在でもある。
追記
封印再度と合わせると、魔法、とはシミュレートであり、存在の継続、であることが分かる。
そのシミュレートは全く別の媒体、方法で行われることになる。
この意味では、封印再度で赤がアクセントカラーであり、OSがRed Magicであることは示唆的である。
天王寺翔蔵が時間に追われていたこととは対象的である。しかし、不完全ながら、その3人は似ていた。
そして、夢野久作のドグラ・マグラがど真ん中であることも、この関連で理解できる。精神遺伝とは何であるのか?胎児の夢とは何であるのか?
追記
個人的には、それなりに読めたつもりでいて、故に最近の森作品が非常にSF的であるらしいが、読むまでもない、という感じもするのである。ある種の満足感である。S&MとVとスカイクロラは読んだ。そして、私はミステリが読みたい。また、単に時間が無いだけであり、僕の能力の不足による対象の過小評価なのである。まぁ、まだ読む時間はあると信じている。
追記
存在の存続、というのは、非常に重要であり、私は、いくつかの天才的な人物や存在に関して、現代でも、その観点が不足してみえることもあるのである。例えば、チームラボは猪子さんの「バイブルチーム」でも作るべきである。作品だけで十分である、ということもあり得るが、それはNNで言う蒸留をできるか、という話であるのだが、性能の低いニューラルネットに写し取ってシミュレートするには、中間表現がいるだろう、という主張である。テクニカルには、映画などよりも物理的なテーマパーク的であると強い、というのがとある遊園地の一例から言われているらしいが、分からないと思う。その意味では、歌舞伎などはずっと強いし、宗教も同義である。しかし、真賀田四季は封印再度の一族を超えている。これからは現実でもそれが出現するのだ。
追記
どうもネットで散見するネタバレ感想を部分的に見てしまった記憶からすると、四季シリーズの描写とやや矛盾するのかもしれないのだが、正直、どっちを信じるのか?という問題であり、真賀田四季人格のシミュレートは完全である、という前提があるので、存在と不存在とは、どう書いてあっても関係ないのである。名字が違うのは何故?とは作中でも語られているのであり、当然、完全なシミュレートであるので、これは作中現実と矛盾するのである。だって、我々程度のシミュレートである作中「現実」に栗本氏は存在しない。その意味では、本作のあるシミュレート結果と他作での描写(シミュレート)が異なってもどうでも良いと思う。
追記
私は、この「すべてがFになる」を読むと、夢野久作の「瓶詰め地獄」の最後の三通目(4通目とも)を思い出す。いくつかの順列において、最後の手紙の解釈の「存在」と「非存在」とは非常に本作と似ている。具体的なギミックさえ似ているのである。そして、「瓶詰めの地獄」はこのシミュレートによる「存在」の不安定性をシステマチックに試す「ミステリ」の金字塔である。
追記
シミュレートとは、予測であり、高度な知性とはその予測を行うのみならず、他者の予測も外すものである。
その意味で、LLMはこのバランスを道具として失っており、この先は反粒子的な時間的継続を問えない存在でしか無い、とも思う。
一方で、LLMを本作の真賀田四季のように主体をもたせるのであるならば、人類は主体から後退するように思える。しかし、これは、時間的に継続するアラインメントを持ち得る。これは、時間的持続のある進行解のようなものだ。
追記
細かいところではあるが、作品の技巧としては、研究所の異常発生から受信は出来るが、送信はできなかったことは、アップロードは出来ず、ダウンロードは出来たということであり、その点は、前半の日常パートで表現しておいても良かったのにな、とは思う。
これは、重要な点である。アップロードが出来ないのである。

