自分が決めるこということ
人生で一番大切なことは何か、と聞かれても、はっきりした答えは出ないものです。大切なことはいろいろあるでしょう。けれど、その中で「これはとても大切だ」と思えることが、一つあります。
それはものすごく当たり前のことです。あまりに当たり前なので、こんなことをわざわざ口にするのはどうかな、とためらう気持ちもあります。でも、人生における当たり前でシンプルなことというのは、不思議と語られないんですね。語られていても、その意味がうまく伝わっていない。意味がちゃんとわかっていれば、そんなふうにはならないはずなんですけれど、なかなかそうはいかない。では、その一つとは何か。
それは、「自分が決める」ということです。
ただ、それだけです。何かを決めるとき、自分が決める。そんなの当たり前じゃないか、と思う人は多いと思います。でも、意外と多くの人が——これは私自身も含めてですが——何かを決めるとき、まず「どれが正しいか」「どれが得か」とか考えるんですね。条件で考えるわけです。条件を並べて、あるいは「これが好きだ」という直感を頼りに、その後で「自分が決める」。だから、決めるという行為が、最後に打つピリオドのような、区切りをつけるだけのものになってしまう。
ところが、実際に何かを決めるときには、あるエネルギーがいるんです。決断のエネルギー、とでも言いましょうか。これは、人間の脳の中である程度の量が決まっている、という説もあります。だから、たくさんの決断をする人は「決断疲れ」を起こす、というような言い方ですね。それが本当かどうかはわかりません。でも、決断というのは、やはりそれなりにエネルギーを使うものなんです。逆に言えば、「正しいか」「コスパはどうか」と条件を並べることは、この決断の力を分散させたり、弱めたりしている面がある。
つまり、正しく合理的な結論を出してしまえば、決断にかかる負荷は軽くなる。でも私が言いたいのは、それは嘘だよ、ということなんです。
いや、嘘なわけないでしょう、と思うかもしれません。でも、決断はやはり重要なんです。
これはどういうことか。決断するというのは、不合理な決断をしてもいい、ということなんです。損をする決断をしてもいい。間違った決断をしてもいい。もちろん、とんでもない決断をすれば、犯罪になったり、災害になったり、事件になったりします。けれど、極端な言い方をしても、自分が決断したのなら、それは自分の決断であって、それでいいんです。
少し極端な話になりますが、人を殺してはいけません。これは明らかにそうです。でも、法律は「人を殺したらこうなる」と書いてあるだけで、人が人を殺すという決断そのものは、法律で裁けるものではないんですね。だから人間というのは、とんでもない結論も、決断も、できてしまう存在なんです。——まあ、これはさすがに極論しすぎですけれどね。
話を戻します。決断をするとき、自分はちゃんとその決断の対価を払うべきなんです。決断にはお値段がある、というか。お金で買えるお値段ということではないですが。むしろ、後悔が対価かもしれません。
そして、「自分で決める」というができるにようになるは訓練する必要があると思っています。
言葉にすると、かえってわかりにくくなってしまうかもしれません。でも、決断というのは、不合理でも、間違っていても、「自分が決断すると決めたら、決断していい」。これが第一原理なんです。
後悔したっていいんです。つまり、「自分が決める」というのは、それだけ重要なことなんですね。自分の人生は、自分で決めていかなければならない。理想的な人生というものは、ないんです。少なくとも、自分の外側に理想の人生が用意されているわけではない。
自分で決めていくものが人生なのだから、そこには必ず間違いも含まれます。だからこそ、その意味で「理想」なんてありえないんですね。といっても、「理想なんてなくていい」という話ではありません。理想はどこかにあるんです。すぐ近くにあってもいい。ただ、それは決断とは別のものだ、ということが言いたいんです。
では、何をもって決断するのか。決断は、どうやって決めればいいのか。——これは、もうそれ以上ないんです。決めるだけなんです。決断するだけ。時間をかけて決断してもいいし、少しずつ決断してもいい。でも、その決断のときは、必ずやってくるんですね。
「決断しない」というのも、実は決断です。これは言葉の遊びではありません。「決断しない」という決断をしておく——これも人生において一つの重要なことです。ただ、その場合も、「自分はあえて決めなかったんだ」ということを、ちゃんと自分の決断として受け止めるべきなんですね。
そして、この「自分が決める」ということは、とても明確なことなんですが、これは人工知能、AIにはできないんです。理由は単純で、AIは私ではないからです。だから、決断できるのは私だけなんですね。もちろん、親も友人もできないのですけど、特にAIはなんでもできそうな幻想がありますよね。でも、AIは決断はできません。
AIは、合理的で、正しくて、得のある候補を挙げてくれます。あるいは、その中から一つ、選択肢を選んでくれる。でも、AIができるのはそこまでなんです。「よし、決めた」と引き受けて、その責任を取るのは、人間——自分だけなんですね。これが、人が生きるということの第一原理です。
そして、「なぜそれを決めるのか」というのは、もうそれ以上、根源も本質もないんです。
この「自分が決める」ということに関連して、特に重要なことがあります。それは、「人を許す」というのも、決断だ、ということです。
多くの人は、「こうなったら許せる」「こうしてくれたら許す」「いつか許せる日が来る」と考えます。実際、「いつか許せる日が来る」というのは、けっこう大事なことだったりもするんですけれど。でも、人を許すか許さないかは、結局のところ、ただの決断なんですね。
そういう人生を生きると決めた、ということです。そして、人を許すというのは、どういうことか。たいていの場合、それは「忘れる」ということなんです。
ここは、自分でもずいぶん変な話をしているという自覚があります。決断をしたら責任は取る。でも、その責任の大半というのは、「忘れる」ことなんです。たとえば、あることをやって失敗した。自分の決断で失敗して、後悔した。わかった、この決断はもう二度としないようにしよう。そこまで決めたら、もうそこで終わりなんです。それだけ覚えておけば、あとは忘れていい。
感情的なことは、忘れていいんです。感情というのは、引きずらないわけにはいかない。でも、いったん決めてしまえば、忘れる方向へと動いていくものなんです。だから、いつまでも忘れられないというのは、決断ができていない、ということなんですね。
もちろん、さっきも言ったように、「決断しない」という決断もあります。許せない状態を、自分ではどうしようもなく抱えたまま生きる。そういうこともあると思います。でも、どこかで決断するなら、決断することはできる。そういうことなんですね。
