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作者の特異性と読解の成立条件

――発話の内的身分・確信の像・批評の基礎――

要旨 本稿は、テキストの多義性と読解の不決定性を承認したうえで、なお作者が批評において特異な位置を保持することを論じる。作者は作品の意味を一義的に決定する主権者ではない。しかし、作者だけが、自らの言表がどのような身分――真としての差し出し、仮構、皮肉、偽装、試行――で書かれているかを第一次的に知っている。本稿はこの次元を「発話の内的身分」と呼ぶ。読者はこれを完全には確定しえないが、作者に問いかけ、その内的身分に近づこうとする努力のうちで「確信の像」を形成しうる。この像は真偽判定不能であるが、単なる恣意的投影でもない。なぜなら、作者は何ものかが伝わりうると信じて書いており、読者は何ものかが差し出されていると信じて読むからである。ゆえに作者は、意味の独裁者としてではなく、創作と読解の成立条件として特権的である。
キーワード 作者の特異性/発話の内的身分/確信の像/多義性/作者の死/読解の成立条件

1 定義と基礎命題

1.1 作者

本稿で「作者」とは、単なる法的著作権者でも、作品の外部に実在する心理的個人の総体でもない。ここで作者とは、あるテキストを他者へ向けて差し出す行為の担い手をいう。その行為において作者は、何を本気で言っているのか、何を仮構として提示しているのか、どこで韜晦し、どこで自らを露出しているのかについて、少なくとも第一次的な位置を占める。したがって本稿の作者概念は、経験的個人の厚みを保持しつつも、その全体像を問題にするものではなく、あくまでテキストを成立させる行為の極としての作者である。

1.2 発話の内的身分

本稿の中心概念である「発話の内的身分」とは、ある言表が作者自身においてどのような仕方で差し出されているか、その身分を指す。ここで問題となるのは、命題の外在的な真理値ではない。問題となるのは、その言表が作者において、真として差し出されているのか、演技として差し出されているのか、意図的な偽装として差し出されているのか、あるいは試行や仮置きとして差し出されているのかという区別である。したがって、抒情詩、虚構、告白、理論的散文のいずれにおいても、この概念は作動しうる。発話の内的身分は、テキストの意味内容とは別の次元でありながら、読解の方向を深く規定する。[3]

1.3 確信の像

読者は作者の内面に直接到達しない。それにもかかわらず、読者はテキストを読み、その調子、構図、反復、回避、誇張、沈黙をたどることで、作者が何を真として差し出しているかについて、ある像を形成する。本稿はこれを「確信の像」と呼ぶ。この像は、厳密な証明の産物ではなく、漸近的な接近の産物である。したがって真偽判定不能である。しかし、その不確定性は、直ちに恣意性と同一ではない。確信の像は、作者の発話の内的身分を知ろうとする読解の努力の形式である。

1.4 特権性

本稿でいう「特権性」は、意味の専制的な決定権を意味しない。作者が「正しい読み」を命じ、読者がそれに服従すべきだという意味での権威はここでは否定される。ここでの特権性とは、創作と読解の成立条件に関する非対称性である。すなわち、作者だけが自らの発話の内的身分を第一次的に知っており、読者はその身分に向かって接近するほかない、という非対称性である。

1.5 基礎命題

以上をふまえると、本稿の基礎命題は次のように定式化できる。作者は意味の唯一の所有者ではない。しかし作者は、自らの発話の内的身分を第一次的に知る唯一の位置にあり、その身分の何かが他者に伝わりうると信じてテキストを差し出す。読者は、その差し出しを受け取り、作者が真として差し出したものに近づきうると信じて読む。ゆえに作者は、解釈の主権者ではなくとも、読解の成立条件として特権的である。

2 作者の特異性はどこにあるか

2.1 意味内容ではなく身分における特異性

多義性の理論が説得力を持つのは、意味内容が読者の側で増殖し、再配置され、歴史的条件の変化に応じて組み替えられるからである。この記述自体は正しい。だが、この正しさは、テキストの意味内容に関して成立するのであって、発話の内的身分に関して直ちに成立するわけではない。ある詩句が政治的に読まれ、宗教的に読まれ、心理的に読まれうるとしても、その詩句が作者において告白として書かれたのか、仮構として書かれたのか、皮肉として書かれたのかという問いは、別の位相に属する。作者の特異性はまさにこの別の位相にある。

2.2 「作者だけが知っている」という命題

本稿のもっとも簡単な原理は、「作者は、そのテキストが、嘘か本当かを知っている。作者だけが知っている」という命題に尽きる。ただしここでいう「嘘か本当か」は、事実命題の外在的真偽を意味しない。作者は、自分がいま真として差し出しているのか、それとも真を装っているのかを知っている、という意味でのみこの命題は維持される。この限定を施したとき、命題はきわめて強い。なぜなら、読者はいかに精緻に読んでも、その差し出しが作者においてどの身分を持っていたかを、作者と同じ直接性では知りえないからである。

2.3 例外の扱い

ここでただちに、自己欺瞞、忘却、混乱、意図的統御の弱い書法、あるいは超現実主義的な自動記述が反例として持ち出されうる。しかし、これらはいずれも原理を無効にしない。第一に、自己欺瞞の可能性は、第一次的な位置の存在を消去しない。人は自らについて誤ることがあるが、それでもなお、自らの発話の身分をめぐる問いはまずその人に属する。第二に、自動記述や偶然性の導入それ自体が、しばしば作者の方法的選択である。したがって、それは「意図の不在」ではなく、意図の様式の変更にすぎない。第三に、忘却は執筆時の位置の消滅を意味しない。これらの事情は、発話の内的身分に関する作者の第一次性を全面的には崩さない。

3 読解はどのように成立するか

3.1 作者の期待

作者は、テキストが多様に読まれうることを知らないわけではない。それでもなお作者は、自身の内的な確証の何かが、他者にまったく無関係にはならず、像として、傾向として、濃淡として伝わりうると信じて書く。この「伝わりうる」という確信は、完全な到達の確信ではない。誤解や逸脱を排除しきれないことを知りつつも、なお書くという行為を支える構造的確信である。ここで重要なのは、この確信を経験的な一般化として理解しないことである。全ての作者が毎回明示的にそう考えている、と主張する必要はない。むしろ作者として書くという行為そのものが、そのような確信を作動させているとみるべきである。[1]

3.2 読者の努力

読者もまた、単に文字列に意味を投影しているのではなく、「誰かが何かを差し出している」という前提のもとで読む。読者はしばしば、私は作者がここで真を述べていると信じる、ゆえにこの読解を通じてその確信へ近づきうる、と感じている。この感覚は理論化以前の素朴な感覚である。しかし、まさにその素朴さゆえに、それは読解の原初的条件に属する。もし読者が、最初からそこに何ものも差し出されていないと信じるなら、読解は成立せず、残るのはせいぜい素材の利用だけである。

3.3 確信の像の形成

読者において形成される確信の像は、作者との一致を保証しない。むしろ通常は、ズレを抱えたまま形成される。それでもなお、その像は読解の中核的な達成である。なぜなら読者は、その像を通じて、単なる主題理解や構造把握を越えて、作者がどこで身を賭しているか、どこで意図的に覆面をかぶっているかを感じ取ろうとしているからである。この努力は失敗しうるが、失敗可能性は努力の意味を奪わない。批評はしばしば、まさにこの失敗と接近のあいだで形成される。

3.4 投影との区別

確信の像は投影ではないか、という反論は不可避である。本稿は、投影であるか否かを完全に決定する基準があるとは主張しない。むしろ、その決定不能性は認められる。しかし、ここで言うべきなのは、決定不能性と恣意性は別だということである。作者の発話の内的身分に近づこうとする読解は、テキストの細部に拘束され、全体の調子に拘束され、前後の配列に拘束される。その意味で確信の像は、自由連想ではなく、拘束された接近のかたちを取る。投影の危険はあるが、それは方法全体の無効を意味しない。

4 「作者の死」への批判

4.1 多義性が証明するもの

多義性の理論が証明するのは、作者の意図が読解の唯一の裁定者ではないということである。これ以上でも以下でもない。テキストが作者の手を離れて複数の読みに開かれること、また読解の真理判定が不決定であることは、ここでは全面的に承認される。したがって本稿の議論は、単純な意図主義への復帰ではない。

4.2 多義性が証明しないもの

しかし多義性は、作者が理論的に不要であることまでは証明しない。ある読解が唯一の真理として確定しないからといって、作者の発話の内的身分が理論上どうでもよいとはならない。同様に、作者への到達が媒介的であるからといって、作者が他の読者と同列の一解釈者にすぎないともならない。ここでしばしば起きているのは、認識の困難さから存在論的対称性を導く飛躍である。だが、到達の媒介性は位置の対称性を意味しない。作者にしかない第一次的な位置は、読者の到達の困難さによって消えない。

4.3 成立条件の抹消

「作者の死」が方法上の挑発として有効であるのは、読解を作者の外部に解放する局面においてである。だが、そのテーゼが創作と読解の成立条件にまで拡張されるとき、事態は変わる。作者が何ものかを伝えうると信じて書き、読者が何ものかが伝わっているはずだと信じて読む――この二重の信がなければ、作品の提示も受容も始まらない。にもかかわらず、作者の死がこの水準まで一般化されるなら、それは読解の自由を記述する理論ではなく、読解の根拠を空洞化する理論になる。ここに本稿の批判点がある。[2]

5 批評の方法的帰結

5.1 作者への問いは偶然的ではない

批評は、作者の発話の内的身分に向かって問いを差し向けることを、偶然的な補助手段としてではなく、本来的な契機として保持しなければならない。ここで言う「作者への問い」は、作者の発言をそのまま採用することではない。むしろ、作品・草稿・書簡・対話・周辺発言を含む広い意味での痕跡を通じて、作者が何を真として差し出し、どこで仮構し、どこで読者を意図的に攪乱しているのかを問う営みである。問いは完遂されないが、完遂されないからこそ持続する。

5.2 解釈と利用の区別

この立場から見ると、解釈と利用の区別が重要になる。テキストから現代的な問題系を引き出すこと、あるいは別の思想的布置のもとで再配置することは可能である。しかし、それが作者の発話の内的身分に向かう努力を欠くとき、その営みは厳密には読解というより利用に近づく。利用は否定されない。だが、利用と解釈を無差別にすることは、批評の語を曖昧にする。作者への問いを保持する批評だけが、解釈と利用を区別しうる。

5.3 素朴さの特権

本稿が擁護するのは、理論以前の素朴な前提である。すなわち、誰かが何かを言おうとしている、そしてその何かは完全には届かないとしても、ある像としては届きうる、という前提である。この素朴さは、しばしば理論的未熟として退けられる。しかし実際には、それは創作と読解を可能にするもっとも基底的な構えである。ゆえにこの素朴さは、批評理論において一定の特権性を認められてよい。理論がこの前提を無媒介に否定するとき、理論は自らが寄って立つ地盤そのものを失う。[4]

5.4 批評の目標の再設定

以上から、批評の目標は「正しい意味の決定」ではなく、「作者の発話の内的身分に近づく確信の像の形成」と捉え直されるべきである。この目標は、証明不可能でありながら規制的である。すなわち、完全には達成されないが、批評の方向を定め、読解の恣意を抑制する。批評が作者を全面的に排除しないのは、この規制的目標を保持するためである。

6 想定される異論

6.1 循環論

異論の第一は、作者の内的身分も結局はテキストからしか推定できず、その推定はテキストへ循環する、というものである。この異論は一面で正しい。読者はテキストの外へ直接出ない。しかし、この媒介性は、作者の位置の特異性を消さない。読者が作者に直接到達できないことと、作者が第一次的な位置を占めていないこととは別である。ここで混同されているのは、認識論と存在論である。

6.2 自己申告への不信

異論の第二は、仮に作者に尋ねても、作者の自己申告はそのまま信用できない、というものである。これも正しい。作者の自己説明は、さらに一つのテキストであり、遡及的再構成や自己神話化を含みうる。しかし、本稿は作者の発言の絶対化を主張しない。主張されるのは、作者への問いが無意味ではないということである。自己申告が不十分であることは、問いの不要性ではなく、問いの継続性を意味する。

6.3 虚構への適用可能性

異論の第三は、虚構作品において「真」とは何か、という問いである。これに対して本稿はすでに、真を事実命題の真理値としては理解しない。虚構においても、作者は自らが仮構していることを知っており、どこまでを仮構として、どこからを切実な差し出しとして構成しているかを知っている。したがって、発話の内的身分という概念は虚構文学においても維持される。

6.4 読者中心理論との関係

異論の第四は、読者が形成する確信の像もまた一つのテキストになり、多様な読みに還元されるではないか、というものである。たしかにそうである。だが、このことは、確信の像の形成そのものを無効化しない。像が再び読まれる対象になることと、像が形成される第一次の読解行為の構造とは別である。批評のテキスト化は、その前段階にある作者への接近の努力を抹消しない。

7 結論

本稿の結論は簡潔である。多義性は事実であり、唯一の真なる読解は不決定である。しかし、そのことから作者の特異性の消滅は導かれない。作者だけが自らの発話の内的身分を第一次的に知っている。作者は、その身分の何かが他者に伝わりうると信じて書く。読者は、その差し出しに応答し、作者が真として差し出したものに近づきうると信じて読む。批評はこの往復の上に成立する。ゆえに作者は、意味の主権者としてではなく、創作と読解の成立条件として特権的である。作者の死は、読解の自由を記述する限りでは妥当であっても、この成立条件の水準にまで一般化されるべきではない。本稿が擁護したのは、作者の権威ではなく、作者と読者のあいだに成立する伝達可能性への原初的信頼である。[5]

  1. 本稿における「作者は伝達を信じている」という言い方は、経験的心理の一般化ではない。むしろ、作者として他者へ向けてテキストを差し出す行為それ自体が、そのような伝達可能性への信を構造的に要請する、という意味である。

  2. ここで批判されるのは、多義性や「作者の死」の理論そのものではなく、それらが本来の射程を越えて、創作と読解の成立条件にまで一般化される場合である。したがって本稿は、多義性の事実や読解の不決定性を否定してはいない。

  3. 「発話の内的身分」は、意図の内容と同一ではない。意図の内容は複合的で変動的でありうるが、ここで問われるのは、作者がその言表をどの身分で差し出しているかという、より限定された次元である。

  4. 「素朴さの特権」とは、未反省であることの礼賛ではない。むしろ、理論が後から分析しうるための前提として、創作と読解の現場ですでに働いている基礎的構えを指す。

  5. 本稿の立場は、作者の自己説明を最終審級として受け入れる立場とは異なる。作者の自己説明もまた読まれるべきテキストであり、批評はそれをさらに問い返す。


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