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「令和人文主義」という外装

「令和人文主義」という言葉をSNSで見かけた。ある種の話題性とともに流通しつつある語である。調べると、谷川嘉浩氏による名付けである。これは、ここ10年ほどの間にゆるやかに集合してきた一群の発信者を、ひとつの思潮として括り直す試みであり、2016年前後に始動した若い言論者を「兆候」として捉えることで成立している、という説明である。なるほど、だからこそ話題性が担保されているのか。

この「令和人文主義」で語られる情景とは、おそらくこうしたの活動様式——SNSを横断し、動画・文章・講義・ラジオ・Youtubeなどを自在に行き来し、教養主義でもビジネス知でもアカデミズムでもない、しかし「人文」的な話法を編み出す人々——の知的活動を指しているのだろう。軽やかな文体、多メディア的な移動、会社員層に向けた語りのモード。これらを総称して「令和」の人文知と名付けようとする意図は理解できる。(数式がないから人文知なのかもしれないが)。

この説明は、ある意味「外形をまとめるための箱」であって、その箱の内側が何で満たされているのかは、ほとんど言及されていない。名付けの意図はわかるが、名辞だけが自立すると中身の空洞化に気づきにくくなる。そして空っぽの箱は、いずれ中身にふさわしい、おそらく、ある種のガラクタ——あるいは、もっと言えば、知の残骸——を呼び寄せてしまう。

人文学の外観だけで充足する

「令和人文主義」という語を耳にしたとき、私が覚えた違和感は単純である。これは本当に「人文主義」なのか、という老人にうってつけの疑問である。やや突き放した言い方になるが、そもそも日本の知的共同体の中で、「人文主義(Humanities)」という語の起源や複数形である意味、それを支える古典語学的背景が十分に理解されているのかは心許ない。この語の起源を辿れば、それはキケロを介した文脈にあり、当然ラテン語の知見が前提となる。にもかかわらず、「人文主義」という語が安易に標語化されるとき、語の背後に広がる学知の厚みはごっそりと切り落とされてしまうように感じられる。

「令和人文主義」という言葉とその現象に触れても、そこに肝心の人文学そのものは存在しないのではないかとまず感じる。現代思想や哲学の語彙は流通しているが、それは語彙のレベルであり、それらを成立させる知的基盤——原典への格闘、方法論の選択と排除、読解を支える身体的持続——は見当たらない。人文学の"Arts"は本来、Liberal Arts が示すように技芸であり、身体的熟練と経験の飽和によって成立する。それは、この語の原点にあるように、ラテン語などの原典との格闘や方法論の吟味など、ある知的な緊張を持続する知性によって支えられている。ところが「令和人文主義」の領域では、そのような内的過程はほとんど見えてこない。

あたかも「人文学」という外装だけが彷徨い、その影が本体から切り離されたまま漂っているように見える。それは、たぶん、人文学が軽くなったということではない。むしろ、人文学という営みが本来必要とする重量を、最初から要求しない思想の形態——身体経験的な重さを必要としない思想の形態——が成立しつつある、というべきなのだろう。

書影文化、読書が「記号」へと変換される

この潮流をもっとも端的に表すのが、SNSで頻繁に見られる書名・書影文化である。「この本を読んだ」と告げる写真。この書名・書影を取り上げる投稿。そして、帯の文言か、導入部などのわかりやすい主張が簡略に復唱される。ここでは、読書という過程は、写真という外部化された表象によって〈完了〉してしまう。

だが、読書とは、「私」という主体が、読まれた文字によって再定義される過程のことである。十分な時間と邂逅の契機を経て、書かれた言葉は読者の内部で、自身の肉声のような反響を通して、ある名状しがたい内的な変容を引き起こす。すなわち、「私がこれを読むということで再定義される私」というものが立ち現れる営みである。ところが「令和人文主義」的な読書は、その内的持続の経験を必要としない。読書の経験は、書名・書影によって代理され、読者は変容しないまま、変わることなく、ゆったりと、書棚に本を並べるように自己を充足させていく。読書を行ったことにする外観が消費される。

あるいはさらに、それらはAIメモツールへ蓄積され、「検索可能な知識」として身体の外部に保存される。その蓄積は、知識の入力装置としては有効だが、内的変容の契機を奪う。知識が「保持される場所」が身体から外部へ移るとき、人文学的な内的経験は成立しない。

要点の復唱と思考の代行・理解の代理化

「令和人文主義」的な語りは、おそらく「わかりやすく説明する」ことを目的としない。そうではなく、「わかりやすさを最終形として提示する」こと、すなわち「わかりやすさを完成した状態で提供する」ことが目的に見える。要点はあらかじめ整理され、図解される。それは理解の補助ではなく、理解そのものを代行する技術であり、理解の基礎となる「本源への道」はそもそも問われない。「何をわかりやすく説明したか」ではなく、説明されたプレゼンテーションが本源に入れ替わる。

この構造は、思想を「概念のプレゼン化」へと押しやる。あるいは「高校参考書化」と言えるだろう。かつて浅田彰がFarceとしてアイロニカルに示したように、現代思想の危機性を戯画化した「参考書化」が、今では逆に、清潔で無個性的なプレゼンテーションとして肯定的に提示される。そこで読者が手にするものは、「理解する必要のない復唱」——「理解する必要のない理解」——である。思想は読まれず、考えられず、ただ整理されて表示されて所有される。

本源はもはや名辞にすぎない。この代行は、思考の入口を閉ざすだけでなく、出口も閉ざす。知の入り口は入り口として機能せず、出口は出口として成立しない。理解と「理解するふり」の差異が消え、それゆえに読書主体であった「私」という個性はその代替としてキャラ化し、キャラ化された語り手の笑顔が調和を促す。仲良く、人文主義される、のである。

かくして、「令和人文主義」の様式において、思想はチャート化され、平面化されていく。歴史は年表に、概念は図式に、議論は箇条書きに、立場の違いは対比表に、思想家はキャラクターに、変換される。教育的でかつ親切である。

人文学の不要化、社会は代替物を選ぶ

ここまで述べてきた諸相は、個々の語り手の力量不足ではない。むしろ「令和」という時代の社会的条件に起因している。コスパやタイパが絶対的な基準となる世界では、時間をかけること、手間を必要とすることは価値を持たない。人文学が必然的に要求する「長い時間の読書と沈潜」は、効率性を重んじる社会の論理には不適合である。この不適合性が、人文学的経験を不要のものとし、その代わりに「人文学の外観」を消費する市場を生み出した。「令和人文主義」は、人文学の衰退ではなく、人文学がなくても社会が成立する状況の副産物の優位である。本源は名辞と化し、代替物で充分だと社会が判断してしまった以上、かつて人文学の問いは成立しない。

かくして、「令和人文主義」は、知の極限的な軽量化の結果として立ち上がった、新しい形式の知である。書影が読書を代替し、復唱が理解を代行し、わかりやすさが思想の経験そのものを覆い隠す。この状況を私は、人文学と呼ぶことにもはや、ためらいはない。

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