忘却のアルターアニマ| 第十話「小さなあかり」
※こちらは物語の没入感を高める為に作成したBGMです。良ければBGMを聴きながら、お読み頂ければ幸いです。
その夜、小屋はいつもより静かだった。
かまどの火は小さく、ぱちり、ぱちりと控えめに音を立てている。
鍋の中では、薬草を煮たスープがゆっくりと湯気を上げていた。
窓の外は、すでに闇に沈んでいる。
昼間の森とは違う顔。
虫の声が重なり、風が木々を揺らし、どこか遠くで枝が折れる音がする。
そのすべてが、昼よりも近く感じられた。
レインは椀を両手で包みながら、静かに息を吐いた。
今日の出来事が、まだ身体の奥に残っている。
あの魔物の姿。
赤黒い瞳。
動けなかった自分。
そして——ルナの背中。
すべてが、消えずにそこにあった。

「……冷めてしまいますよ」
ルナの声で、レインは我に返った。
「すみません」
慌ててスープを口に運ぶ。
温かさが喉を通り、身体の奥へ染み込んでいく。
少しだけ、肩の力が抜けた。
食事は、いつもより言葉が少なかった。
気まずいわけではない。
ただ、お互いに今日の出来事を、それぞれの中で整理しているような時間だった。
やがて、ルナがそっと口を開く。
「……今日は色々ありましたね」
静かな言い方だった。
事実をそのまま置くような。
「はい」
レインは、すぐに頷いた。
「魔物を初めて見ましたが、すごく怖かったです」
隠さなかった。
隠す必要もないと思えた。
ルナは小さく頷く。
「それでいいと思います」
その言葉に、少しだけ胸が軽くなる。
「怖さを知らないまま進むと、どこかで必ず無理をしてしまいますから」
ルナは匙を置き、ゆっくりとレインを見た。
「レインさんは今日、ちゃんと怖さを知りました」
「……はい」
「そして、それでもその場に立っていました」
その言葉に、レインは少しだけ視線を落とした。
褒められているのだと分かる。
けれど、まだ素直に受け取るには、心の中が少しだけざわついていた。
「僕は……何もできませんでした」
ぽつりと、こぼれる。
ルナはすぐには答えなかった。
少しだけ間を置いてから、静かに言う。
「“何もできなかった”と感じることも、大切な一歩です」
「え……?」
「できたことだけを見ていると、自分を過信してしまうことがあります。でも、できなかったことを知っている人は、次に進もうとします」
ルナの声は、変わらず柔らかい。
けれど、その言葉は深かった。
「今日のレインさんは、“できなかった自分”から目を逸らさなかった。それだけで、十分前に進んでいます」
レインは、ゆっくりと息を吐いた。
胸の奥にあった重さが、少しだけ形を変えた気がした。
食事を終え、片付けを手伝ったあと。
レインは小屋の外に出た。
夜の空気はひんやりとしていて、昼間よりもずっと澄んでいる。
見上げると、星が広がっていた。
数えきれないほどの光が、静かに瞬いている。
こんな空を、いつか見たことがあっただろうか。
分からない。
でも、胸の奥が少しだけ懐かしくなる。
「……綺麗ですね」
背後から、ルナの声がした。
振り返ると、彼女も外へ出てきていた。
白い衣が、夜の闇の中でほんのりと浮かび上がる。
「はい、とても綺麗な星空ですね」
レインは頷いた。
「こんな空、ずっと見ていたいくらいです」
ルナは隣に並び、同じように空を見上げる。

「天界の空も、こんなふうに綺麗だった気がします」
「覚えているんですか?」
「……少しだけ」
ルナは目を細めた。
「形や場所は思い出せません。でも、綺麗だと思った気持ちだけは、残っているんです」
その言葉は、どこか静かだった。
悲しさではなく、遠くを見るような感覚。
レインは、その横顔を見た。
ルナは強い。
でも同時に、何かを失っている。
それでも、今を受け入れてここに立っている。
その姿が、どこか眩しく見えた。
「レインさん」
「はい」
「これから先、森の中で怖いことは何度もあると思います」
ルナは空を見たまま言った。
「今日よりも、もっと危険なこともあるかもしれません」
レインは黙って聞く。
「それでも……一つだけ、覚えておいてください」
ルナの声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「怖いと感じる心を、手放さないでください」
「……はい」
「それは弱さではありません。自分や誰かを守るために必要な感覚です」
レインはゆっくりと頷いた。
その言葉は、静かに胸に落ちた。
少しの沈黙。
風が吹く。
葉が揺れる。
夜の森は、昼よりもずっと深く、広く感じられた。
「……ルナさん」
「はい」
「僕、強くなりたいです」
自然に出た言葉だった。
理由を考えるより先に、口から出ていた。
「今日みたいに、何もできずに終わるのは……悔しいです」
ルナは、すぐには答えなかった。
ただ、レインの言葉を受け止めるように、静かに聞いていた。
「でも、怖さを忘れたくはないです」
「はい」
「ルナさんみたいに……ちゃんと見て、ちゃんと選べるようになりたいです」
言い終えてから、少しだけ照れくさくなった。
ルナはゆっくりとレインの方を見る。
その瞳は、優しかった。
「それは、とても素敵な願いだと思います」
静かに、そう言った。
「強くなることと、優しくあること。その両方を目指すのは、簡単ではありません」
「……はい」
「でも、レインさんなら、きっと大丈夫です」
その言葉に、理由はなかった。
説明もなかった。
でも、不思議と——信じられる気がした。
「では、明日から少しずつ始めましょうか」
「明日からですか?」
「はい」
ルナは、ほんの少しだけいたずらっぽく微笑んだ。
「逃げ場はありませんよ?」
「それ、優しさですよね?」
「もちろんです」
レインは小さく笑った。
さっきまでの重さが、少し軽くなっている。
怖さは消えていない。
でも、それだけではなくなっていた。
夜が、静かに更けていく。
小屋の灯りが、二人の背中をやわらかく照らしていた。
レインはもう一度、空を見上げた。
名前も、過去も分からない。
自分が何者なのかも、まだ何も見えていない。
それでも。
ここにいる。
この森に。
この小屋に。
ルナの隣に。
それだけで、ほんの少しだけ、前に進めている気がした。
胸の奥に、小さな灯りがともる。
消えそうで、頼りない光。
けれど確かに、そこにある。
レインは、その光を手放さないように、静かに息を吸った。
【第十一話「最初の朝、最初の名前」へ続く】
