母と僕(母の章.2025.05.10修正版)

00.1 母と僕

母はとても優しい人でした。人の気持ちが良くわかり、しかも賢い人でした。例えば近所にお腹をすかせた子供たちがいると、母はこう仰いました。「健ちゃんと一緒にご飯を食べよう!健ちゃんは一人っ子でさみしいから、みんなと一緒にワイワイご飯を食べさせてあげたいの!」。そう母は子供たちに、"一人で寂しい"---と伝えることで、あとで子供達の親御さんが、嫌な気持ちにならぬよう、ご配慮されておられました。そして、その口実をつかって、母はいつも子供達を満腹にさせて、ご安心されておられました。

母には大変にきびしい面もありました。言うべき事は言う、今すべきことは後回しにしない。そんな母は例えば僕がわがままを言って、テコでも動かないときには、オモチャ屋さんの前であっても、人通りのある道ばたであっても、とことん付き合ってくださいました。母はていねいに道理を説いて、怒ってもくださりました。そして僕が納得に至ると、心の底からお喜びになって、褒めてくださいました。よそのお母さん達であれば、大抵「家の中に入りなさい!」と言って、怒る姿を見せないことであっても、母は「この子のために今言うべき」とご判断なされた場合には、僕の将来や人格形成、そのために必要な躾を100%優先されるかたでした。それが母なりの、僕に対する愛情と責任感であることを、僕はよくよくわかっておりました。

そんな母であっても、子育てには大変なご苦労がありました。僕はグズって癇癪をおこすだけではなく、暴れると全く理屈が通らない性分でした。あるとき僕は注射を心底嫌がって、暴れ狂いました。その姿をご覧になられた母は、一切の説得をお辞めになって、真っ正面に僕を見すえて、「健ちゃん、意地悪でするんじゃないんですよ」と仰いました。僕はその真剣なお顔とその言葉に、心で納得せざるを得ませんでした。そして涙ながらに覚悟して、撃たれて、それ以降、注射で暴れることを辞めました。母は体罰も二度されました。お尻ペンペンと足の裏へのお灸でした。お尻は全く痛くなく、母は手を痛めておられるご様子で、可哀想でした。お灸は死ぬ思いをしました。恐怖で怯えて逃げ惑う僕を、父が無理やりに取り押さえました。父は鬼や悪魔に見えました。そして母に目をやると、母は大変に心を痛めておられるご様子で、やはり可哀想でした。そして僕は、"母を悲しませるような悪いことは辞めよう"---そう反省しました。

そんな母に育てて貰えましたので、僕はわがままで気性の荒い性質でしたのに、繰り返し母が、「わがままではいけませんよ、あなたは一人っ子なので、わがままでは将来誰も助けてくれませんよ」と仰るので、僕はわがままであっても、相手の意見を尊重する性格になりました。荒い気性も、僕は腹の底から全身全霊で泣きわめくので、大きなデベソを持っていましたが、母が僕にとことん付き合ってくださったので、僕は仕方なく、"母が正しい"---と納得して、諦めて、いつの間にかデベソが萎んで引っ込んで、直りました。そして僕も母と同じく、根気よく相手とお付き合いする性格になりました。

母と僕はお互いの気持ちがよくわかりました。例えば母はお腹をすかせた子供達を助けるときに、「あなたをダシに使ってごめんなさい」と謝罪されました。僕は母の意図も気持ちもわかるので、「気にしないよ」とお返ししておりました。母と僕はよく対話しました。いつしかお互いの意図と気持ちが、ある程度わかるようになっておりました。そしてあとから答え合わせをして、楽しんでおりました。

00.2 死と健康

母にも辛いことや、悲しいことや、傷つくことや、そもそも身体が弱かったため、心まで弱ってしまわれることもありました。僕はそんな母の心がある程度はわかりましたので、寄り添って、勇気付けて、必ず元気を取り戻していただいておりました。すると母は決まってこう仰いました、「生まれ変わったらあなたの子に生まれたい。」---なぜそんな不思議な言葉を仰るのか?僕にはピンときませんでした。そもそも母は小さい頃からお医者様に「30歳までは生きられないだろう」と余命宣告をされており、そのため母は幼い頃から「死」について、よくよくお考えになられたそうでした。

母は「死」の反動で「健康」にも執念を燃やしておられました。「いかに健康を維持するために、運動と食事が大切か」、度々ご説明されておられました。僕には「死」も「健康」もいまいち理解できませんでしたが、それでも母が絶対にする、困った子供は何があっても助ける行為や、部屋の壁に飾られた「臨終只今にあり(今、突然死んでも悔いのないように毎日をせいいっぱい生きる意味)」の文言を見ると、母は心の底に、"死ぬまでにどう生きるか?"---そんな強い思いがあったことを、僕はじゅうぶんに感じとれました。もちろん僕にはそんな覚悟はなかったので、「大人は真剣なんだな。大変なんだな。」と気にしつつも、「母は深刻すぎるかもしれない」と心配しておりました。そして母が、「死んだらどうなるのだろう?私はどんな顔で死ぬのだろう?」そうつぶやかれても、僕は心の中で、「そんなのわからないや」と無視しておりました。

ちなみに、僕の名前は「健一」です。健康第一の健一です。母は30歳までに家を両親へプレゼントされて、33歳になったとき、ご自身の健康に自信が持てたそうで、子供が欲しいと願われたそうでした。そして36歳で僕を産んでくださりました。そして母の願いである「健康第一」を、僕の名前に贈ってくださいました。

00.3 若年性アルツハイマー型認知症

そんな母と僕は、僕が18歳になると別々に暮らしました。僕がほとんど実家に戻らずとも、母は一言も不満をもらしませんでした。母は僕の後押しはされても、絶対に足を引っ張りませんでした。僕は28歳まで学生を続けて、完璧な世間知らずに育ちました。35歳まで遠方で働いて、そのあいだ母が寂しい思いをされていても、全く気付きませんでした。そして、平成23年(2011年)の8月、僕が久しぶりに実家に戻ると、母はこう仰るのでした。「あなたの顔を見ても、もう誰だか分からない。でも声は間違いなくあなただ!」。僕はそこでようやく悟りました、長いあいだ母を全くかえりみなかったこと。そのあいだに母は、若年性アルツハイマー型の認知症で、僕の顔がわからなくなったこと。これはただ事ではないこと。母、僕、父の人生、将来に関わること。僕は急いで身辺を整理して、半年後の平成24年(2012年)の2月に、母の元へ戻りました。僕は36歳になっておりました。ちょうど母が僕を産んでくださった年齢でした。

この物語は、母と僕の体験談です。僕は母のお葬式で、"母は病気にはなりましたが、必ずしも不幸ではなかった。"---そう母のご友人にお伝えしたかった。それは母のご友人に、ご安心いただきたかったからです。しかしながら、お葬式の短い時間では、"母がどのように過ごされ、どのように「死」をお迎えになられたのか?"---何もお伝えできませんでした。そこでこの文書を通して、皆さんが知らない、病気になってからの母の歴史を、お伝えできたらと願っております。もちろん母を知らない方々にも、「認知症」と「死」がどのようなものであるか?知っていただき、そしてご安心いただきたいとも願っております。

皆さん、人は誰でも死ぬのです。母はそれまで一所懸命に生きられました。母は認知症を患われましたが、母の生き様は、必ずしも不幸ばかりではなかったです。皆さん、ご安心して、読み進めてください。

◆年表
昭和 9年 5月(1934)・・・父誕生
昭和14年 5月(1939)・・・母誕生
昭和50年12月(1975)・・・僕誕生
平成23年 8月(2011, 母72, 僕35)・・・母、息子の顔を忘れたと告白。
平成24年 2月(2012, 母72, 僕36)・・・僕、仕事を整理し実家に帰省。

平成24年(2012, 母73, 僕37)・・・母、息子を思い出すことあり。平日の日中はデイサービス(施設通い)。要介護5。
平成25年(2013, 母74, 僕38)・・・母、赤ちゃん還り。平日の施設通いに加えて、土日に施設への短期入所(寝泊まり)を開始。要介護5
平成26年(2014, 母75, 僕39)・・・母、在宅介護を断念。平日も施設で寝泊まり。認知症が侵攻しても心は綺麗なまま。僕、施設通い。要介護5
平成27年(2015, 母76, 僕40)・・・母、施設暮らし。まだまだお元気。僕、40代になって一気に体力が低下。目が回り首が回らない日々。要介護5
平成28年(2016, 母77, 僕41)・・・母、僕のお世話が1週間ほど途切れるたびに、必ず何かしらの運動能力を失われました。僕、父の介護を平行して開始。要介護5&4
平成29年(2017, 母78, 僕42)・・・母、転倒予防のため車椅子で生活。それでもまだまだお元気。僕、母の施設通いと父のお世話。要介護5&4
平成30年(2018, 母79, 僕43)・・・母、運動能力が低下。僕、ようやく父の介護区分が下がったのに、そのあいだに母が弱ってしまって残念無念。要介護5&2
平成31年、令和元年(2019, 母80, 僕44)・・・母、特養に入居。僕、体力の限界。半年間のお休み。要介護5&2
令和2年3月4日(2020, 母80, 僕44)・・・母、転移癌。逝去。僕、2ヶ月ほど病院に寝泊まり。最期の瞬間まで寄り添わせていただきました。

令和3年 僕、そのまま実家でダラダラ過ごす。
令和4年 僕、一人暮らし開始。父のお世話を土曜の連れ出し(食事、買い物、その他)のみに減らす。
令和5年 僕、一人でダラダラ過ごしつつ、土曜のみ父の連れ出し。
令和6年 僕、ピッタリ1年間のどん底を経験。"僕は1年間なにをやっていたんだろう?"---心が惑う。土曜のみ父の連れ出し。
令和7年 僕、執筆を決意。父は衰えが目立ち始める。僕ももうすぐ50歳となる。どう考えても社会問題だろうとも考える。土曜のみ父の連れ出し。

令和7年4月22日(2025年)執筆開始
令和7年4月30日(2025年)初稿公開
令和7年5月 5日(2025年)母と僕、完

01.1 帰省

母はそもそも物忘れがお上手でした。例えば花への水やりなどは、「あれ?今日はあげたかな?」とお気にされると、「まあ何回あげても良いや」と、ビチャビチャになるまで余計におあげでした。その反面、大事なことは絶対にお忘れになりたくないご性分でした。「先延ばししたくない。宿題にしたくない。」と、前もって完璧に準備をされておられました。そんな母も70代になられると、「大事なことでさえも忘れてしまうかもしれない。自信がなくなった。」と仰って、貯金や生命保険や有価証券など、金銭にまつわる数々を、父と僕へご説明されました。母は僕の誕生日さえお忘れになりました。僕は仕方なく、「今日はあなたが母になった記念日ですよ」と、じょうだんの電話をしておりました。ボケるには早過ぎるだろうと、甘く考えておりました。しかしながら母は薄々、物忘れの病気に感づかれておられたかもしれません。僕が帰省して検査の手続きをすると、すぐに若年性のアルツハイマー型認知症であると確定診断されました。母はショックや悲しみよりも、「なぜ健康志向の自分が病気になるのか!?」と仰って、憤慨(ふんがい。ひどく腹を立てること。)されておられました。

僕は母が悲観(ひかん。悲しく落ち込むこと。)されないように、繰り返しお伝えしました。「この病気はまだ原因不明で、予防のしようがない病気です。だからお母さん、あなたは全く悪くないのです。これが、もしも、例えば、酒飲みの病気や不摂生の病気であれば、それはその人に原因があるので、そんな人なら僕は助けません。でもこの病気は予防ができない。だって(当時は)原因不明なんだから予防のしようがない。なのでお母さん、あなたには全く落ち度も責任もない。悪いのは全部病気です。あなたは全く悪くないのです」。このようなご説明を、僕が戻るまでの半年間と、戻ってからの半年間、続けました。母は僕の帰省を大変に大喜びされて、「息子が帰ってくる!」と方々にご報告されておられました。僕が帰省して半年も経つと、母は認知症の侵攻に伴って、僕のことも、病気のことも、わからなくなられました。そのため母は、僕に対する負い目を感じなくて済むようになられました。母は物忘れの病気で、むしろ気楽にもなられたご様子でした。そこで僕は、もう病気のおなぐさめは必要ないと判断し、一切のご説明を辞めました。

母は僕に対して「健ちゃんはどうしているのだろう?」と仰ることもありました。僕がその健ちゃんなのですが、母は物忘れの病気のせいで、まだ健ちゃんは遠方で働いているとお考えのご様子でした。例えば親戚やお友達などは、母が自分を忘れていることを知ると、だれもが、「私だよ!○○の誰々だよ!」と迫っておられました。それは母を混乱させるばかりで、何の意味もなく、母は謝罪をされて落ち込んでおられました。そこで僕は、母が健ちゃんをご心配されると、「(健ちゃんは)あなたの子だから大丈夫!」と励ますようにしておりました。母はときどき僕に、"あなたは何者なのか?"---と疑問を抱かれるご様子もありました。僕は、「あなたの親類ですよ」とお伝えして、不安や混乱がないようにつとめました。母はご結婚されたこともお忘れになったので、僕は「サツキさん」または旧姓の「大田さん」と呼ぶようにしました。そうやって僕は、表面上は、"親切な親戚"---の立場でご対応しました。もちろん僕は言葉の上では「親戚」でしたが、そこは中身は正真正銘の「息子、健一」です。息子宣言を諦めても、それは母にも僕にも、悪気も責任もないので、僕は僕のできる範囲内で、やれることをやりつくしました。

母はときどき不意に我に還られて、僕を息子の健一だとお気付きになられました。母は必ず最初に謝罪をされてから、仰いました。「今でもあなたが息子の健一だとはわからない。でも健一でしかありえない。だから信じます。」---そして墓場まで持って行かれるような秘密でさえも、「もう今しか機会がない」と仰って、聞かせてくださりました。ずっとあとになってからも、母は長いあいだ僕が息子だとは思い出されませんでしたが、それでも不意に、はっきりと「健ちゃん、こっちおいで」とつぶやかれたこともありました。また、母が「死」を迎える直前になって、母はふたたび僕を、"健一でしかありえない!"---とお気付きになられました。その最期の2日間だけは、母は死を目前にされた苦しみ、不安の中であっても、不思議と僕にだけは、嫌なお顔をされませんでした。もちろん死期は容赦なく迫っておりました。僕は母のおそばに寄り添うことしかできませんでしたが、それでも母と僕は最期の2日間を、「親戚」ではなく「正真正銘の母子」として過ごせました。これは母から僕への、最期で最後の最高のプレゼントでした。僕は母のお気持ちがよくわかりました。"死の苦しみ、死の不安、この世への未練、宿題、それら母がお抱えになった全てを、何とか良いようにしたい。"---そう願って、やれることをやり尽くして、やり尽くして、他にできることが「祈り」くらいしか残らなくなるところまで、必死に寄り添い、語りかけ続けました。僕は鬱陶しいくらいに直球勝負しかできませんでした。母は死の瞬間まで、僕の声をある程度はご理解されておられました。僕がおそばから離れないことを、受け入れておられるご様子でした。

01.2 要介護5

母は極度の健康オタクでした。そこで私は帰省してすぐに運動靴をプレゼントしました。母の介護区分は最も悪い要介護5度でした。しかしながら全く運動能力には問題がなかったため、毎日毎日、かなりの運動量をこなされました。"要介護5度"の理由は、1つはそれこそ花への水やりと一緒で、母は、"寝る前にトイレに行かなきゃだけれど、私はトイレへ行ったのかな?まあ何回行っても良いや」"---そうお考えで、ひたすら夜中2時頃まで、10回も20回もトイレへ往復されました。もう1つの理由は、母は不意に誰かを心配されると、家を飛び出して、その人をさがしました。そんな元気な徘徊で、目も手も離せられないこと。それらが、"要介護5度"---最も悪い介護区分の理由でした。

介護区分の認定員さんは、「お母さんは手が掛かりますよ」と仰っておられました。それでも家族の僕が元気バリバリでしたので、2Fから1Fへのトイレ往復も、「運動になって良いや」と捉えてお付き合いできました。それに加えて、要介護5度ともなると、介護保険で様々なサービスが利用できました。手摺りの増設であったり、介護ベッドも巨大で快適で、電動で上下・斜めにも動く優れものを導入して、トイレもアップグレードして、実家の介護装備がどんどん充実しました。そのため、屋内でのお世話は全く苦になりませんでした。その一方で、屋外への徘徊だけは、困りました。母は、すでにお亡くなりになったご両親が、まだ生きていると信じておられました。とにかく母はお優しいので、ご両親をご心配されると、その場に居ても立ってもおおられずに、新幹線のチケットをお求めになられました。そして僕にはよいご説得ができなかったため、母は業を煮やして(ごうをにやす。話が通じないので怒る)、お一人でも屋外へ飛び出されるのでした。そんなとき母は、とうぜん僕がそばに寄ると怒りました。そこで僕は、せめてうしろから母を観察することで、「まだ車道へは出ないな」、「曲がり道は怖いんだな」、などと、"母の現状把握"---をさせていただきました。やはり、"要介護5度"---最も悪い介護区分は、並大抵ではなかったです。とはいえ、母は怒っても、物忘れの病気を患っても、お優しいご性格は、そのまま変らずでした。お優しいからこそ、ご心配されるのであって、物忘れの病気だからこそ、間違うのであって、母には罪も責任もない。僕はそれを頭でも心でもわかっていましたので、怒りやストレスはほとんどありませんでした。ただし、"寂しさ"は感じ続けておりました。

01.2 絆

母と僕は、お互いに「親戚」として振る舞いながらも、中身は間違いなく「母子」でした。お互い意識せずとも、本能で心の繋がりを感じておりました。

母と僕は、毎日毎日、物凄く歩きました。山の麓から見晴らしの良い中腹まで、3往復するのが日課でした。中腹では柔軟体操とマッサージをして、麓では休憩がてら、僕は母に、「健康を維持するには、いかに運動と食事が大切か」、その蘊蓄(うんちく。もっともらしい理由)をご説明しました。僕が語る蘊蓄の全ては、過去、母が仰っておられたセリフを、そっくりそのままブーメランのようにお返しするだけでした。母はご自身の蘊蓄を綺麗さっぱりお忘れになっておられました。それでも僕が全く同じ内容を語りますと、それはそれはご納得されて、モリモリとやる気がわいて、面白おかしく楽しく元気に運動を続けてくださいました。そして母は見る見るご健康になられました。体重も増えました。母は「一人で(心配だった)お友達の所へ行けたよ!」とまでご報告してくださいました。流石にこれは事故や道迷いの危険があるので、僕は喜び半分、恐れ半分で、ヘロヘロな気分で聞かせていただきました。こんな仲良しこよしの生活でしたが、良い時ばかりではなく、悪い時もありました。「散歩なんてしたくない!気乗りしない!」、そんなときでも、母は重度の健康オタクでしたので、何とか外まではお連れできました。

母は不機嫌になられると、その不快感を態度でありありと示されました。強い意思表示をされますので、歩いても楽しくなく、唄ってもむなしく、母も僕も気持ちが沈んで「はぁ」とため息を漏らしました。すると毎回、不思議な現象が始まりました。実は母も僕も、心が落ち込むと、ため息を漏らすタイプでした。ため息はあまりよくないことだとは思うのですが、つまらないので、どうしようもなく、「はぁ」とため息をこぼすと、何故か奇跡的にピッタリとため息が揃うのでした。そしてお互いに、心がハッとするのでした。

実はこの"ため息が揃う現象"は奇跡ではなく、僕が幼い頃からありました。母が落ち込んでおられたときに、僕は何もできずにため息を漏らすことがありました。母もため息をこぼしておられました。母はそんなため息に気付かれると、ハッと我に還られて、自嘲気味に大笑いをされて、気持ちを切り替えてくださいました。母はため息が揃うと、"もう落ち込むのを辞めて、気持ちを切り替えて、楽しく前を向いて歩こう!"---そんな心のスイッチをお持ちでした。

これは理屈ではなく本能でした。本能なので、散歩の途中でため息が揃うと、母はハッとされて、嫌な気持ちを全て水に流して、新しく気持ちをリセットして、ヤケクソの元気で、散歩を再スタートしてくださいました。歩いて、唄って、体操して、ヤケクソなので雑な体操になるのでしたが、すかさず僕は「首は神経の通り道が詰まっているので、ムリに動かしてはいけませんよ。ゆっくりとでなければいけませんよ」と、このセリフも昔の母からそのまま拝借して、その口ぶり身振りまでも真似てお返ししました。もちろん母は納得せざるを得ず、落ち着きを取り戻されて、そして母は体操の途中か散歩の終わりで、必ず感謝の言葉を伝えてくださいました。「あなたのお陰でここまでできました。ありがとう。」そう仰ってくださいました。

食事も散歩と同様でした。機嫌の良い日もあれば、悪い日もありました。僕は母の好みも習性も、"本能"でわかっておりました。例えば母は肉でも野菜でもスジがお嫌いでした。そのため、母が野菜のおひたしを口にしてモゴモゴし始めると、僕は、"ああ栄養だけを吸い取って、残ったスジを吐き出すな"---と勘付くので、母が口の中でスジを集めて舌で追い出すタイミングで、サッとつまんで取り除いてあげました。すると母はビックリされて、キョトンと目を丸くしておられました。僕は母が次のおかずに移るタイミングも、お味噌汁を飲むタイミングもわかりました。僕は母が上手に次のおかずに移られるのかを見極めながら、できそうな時は応援を続けて、できそうにないときは、母がお諦めになられる瞬間にサッと手助けをさせていただきました。すると母はいつもマジックにでも引っ掛かったようなお顔をされて、大笑いされておられました。

母はよくお笑いになられました。僕は心から応援し、蘊蓄(全て過去に母が仰っておられたセリフをそのままお返しするだけ)の講釈を垂れました。母は"健康の蘊蓄"がお好きでしたので、心が元気でいっぱいになって、「(その蘊蓄に)聞き覚えがある!」と、喜んでおられました。母が食事をこぼされると、僕は「ああ(僕が不甲斐ないばかりに)栄養がこぼれてしまった。もったいない。」と嘆くので、母は笑って「(落ちた)それはもういいから、他の物をちゃんと食べるから、大丈夫だよ」と仰るか、言葉にはされなくとも、母がそう仰るときの顔をされて、残りの食事を一切れも残さずに、いつも完食してくださいました。いつも母は食事を楽しんでおられました。

そんな母にも嫌なこともありました。誤嚥(ごえん。間違って水や食事が気管に入ること。苦しい。)が僕には心配でならなかったので、母がお水を飲まれるときだけは、野太くドスの利いた声で、「お水だよ!お水だよ!!お水だよ!!!」と必死に主張しました。母はそれだけは嫌がられたご様子で、鬱陶しくて、言葉にはされなくとも「わかっています!!!!」と心の中でさけんでおられるような、そんなお顔をされておられました。

01.3 鬱陶しい

そんな母であっても1度だけ、食事をボイコットされたことがあります。母は「私は年寄りなのでたくさんは食べない」とご主張されておりました。それはごもっとも過ぎて、僕には説得のしようがありませんでした。その一方で、"この母の言動には、必ず何かしら、心の中に引っ掛かりがあるのだろう"---そう僕は最初から感づいておりました。そしてようやく母から、その真意を教えていただけました。「長く生きても仕方がない。」そう母は仰いました。

僕は悲しさで身の置き場がなくなりました。心も身体もみるみる小さくなって、土下座をしておりました。そして謝罪をしておりました。「僕が幾ら食べて欲しいと願っても、押しつけはできない。僕が代わりに食べても何にもならない。僕は助けたいと思っても、僕には力がない。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。」そう泣きじゃくっておりました。こんな芝居がかったセリフ。こんなマンガやドラマでも見ない臭いセリフ。そんな言葉も振る舞いも、実際に介護の現場では幾らでもあるのでした。そして僕は怒り始めました。「確かに年寄りだからたくさん食べないと言うのはその通りだ!でも、豆腐の一口でさえも口にしない。それは屁理屈だ!!!!」そう言うか、言い終える前か、それとも同時か、母は物凄い早業で、パクッと豆腐を一口で丸呑みにされました。僕は呆気(あっけ。ビックリして放心状態になること)にとられて、毒気(どっけ。怒りやいきどおり)がぬけました。

それから母は、姿勢を正されたまま、ゆっくりと、しっかりと、食事を進めてくださいました。僕は面食らいつつも、心の中で、"絶対に押しつけになってはならない"---そう強く自戒(自分勝手なお世話をしないこと。そう強く誓うこと。)しつつ、母の食事に付き添いました。そして母は、やはり一切れも残さずに、完食してくださいました。後にも先にも、母が食事をボイコットされたのは、その一度きりでした。あとになっても、母は点滴生活になられるその直前まで、食事の完食を続けてくださいました。もちろんそれは、僕の鬱陶しい食事援助があってこそだったのかもですが、そもそも母は健康オタクであったこと。そのご執念は物忘れの病気を患っても消えなかったこと。加えて、母は心に決めたことは、とことん実行されること。そのご性分も変らなかったこと。そんな幾つもの積み重ねがあって、母は食事の完食を続けられました。

01.4 家族にしかできないこと

こんなマンガのような、恥ずかしいセリフと、振る舞いだらけの日々でした。母の好きな歌を唄ったり、好きな蒸しパンを食べたり、好きな物語を読んだり、思い出の場所へご案内して、母の歴史、物語をお伝えしたり、僕はそんな家族にしかできない、小さくても特別なことを続けました。

母は記憶が蘇える度に感激されておられました。しみじみと懐かしい思い出にふけっておいででした。また、記憶は戻らずとも、好き嫌いの好みはそのまま変わらずでした。美味しそうに蒸しパンを食べておられました。そしていつも記憶がリセットされましたので、また同じ蒸しパンであっても、新鮮な驚きで堪能されておいででした。ときには偶然バッタリと、母を知る人と出会うこともありました。母の着物姿が美しかったことを教えてくださいました。確かに母はときどき着物を虫干し(風通しのよい場所へ和服を干すこと)されたり、姪っ子にプレゼントされたりしておられました。そんな僕でさえも忘れていたことまで、思い出すことができました。

やはり母は健康への執念も発揮されました。とあるお店にさしかかると、母は必ずこう仰いました。「ここは古い食材を使うことがあるので、少しでも味がおかしいと感じたら食べてはいけませんよ」。そして毎回、「どうして古くなった食材を使うのだろう?どうして悪くなる前に捨てないのだろう?」そういつも同じ疑問をつぶやかれて、お悩みになられました。

母は礼儀正しさも失いませんでした。母はご友人を前にすると、礼儀正しく仰るのでした。「私は物忘れの病気のせいで、あなたが誰なのかわからなくなるときがあります。悪気があってのことではないので、どうかご容赦ください。」そうやって、あらかじめ謝罪をされました。するとご友人は驚かれて母を元気付けてくださいました。母は物忘れの病気を患っても、誰からも好かれる性格のままでした。

02.1 1年目

僕が母の元へ戻って1年も経つと、母はもう僕が何者なのか?気付かれたり、我に還られたり、そんな瞬間がなくなりました。母と僕はそうなる前に、半年、一年かけて、しっかりと二人の絆を確かめ終えておりました。そしてもう僕が誰なのか?完全にわからなくなるその直前に、大事なお話をしました。

実はお優しい母であっても、許せないことがありました。母は、「もう病気になったのだ。もう過去に囚われても仕方がない。許そう。」そう仰いました。そしてその特別なお話をした翌日に、たった一晩で、母は赤ちゃん言葉になりました。恐らく母は心の中で、これまでの生き方と、これからの生き方と、その二つを切り替えられたご様子でした。そして母が赤ちゃん言葉からジャーゴン(意味のわからない、母独自の特殊な造語。それでも僕は母の心情や機嫌を汲み取れました)に変化するのに、日数はかかりませんでした。僕は母のご心境を想像しました。"恐らく母は、もう正しく喋ることが苦痛に感じられたのだろう"---そう考えると、むしろ母がご無理をされない生き方を選ばれたことに、安心し、喜びました。普段の母は赤ちゃん言葉ではありましたが、節目節目に、突然ご立派な言い回しで、短いながらも鋭いご指摘をされました。周囲の会話にも、絶妙なタイミングでクスッとお笑いにもなりました。恐らく母は、お喋りはお辞めになっても、心の中で、周囲との会話を楽しんでおられるご様子でした。

ずっとあとになって、僕は母がまだどれくらい言葉をご理解されているのか?テストしてみました。母は昔、幼い僕の足の裏をこそばして遊ぶとき「コチョコチョコチョー」と楽し気に笑っておられました。そこで母がお亡くなりになられる一日半前に、母の足元で「コチョコチョコチョー」と笑ってみました。すると母はとっさに逃げ出す素振りをされて、独特の表情をされました。さらに母が亡くなる半日前に、僕は大泣きしました。すると母は大粒の涙をポロポロとこぼされました。母は過去に一度きりしか涙をお見せになりませんでしたので、これは僕が知る二度目の涙でした。一度目の涙も二度目の涙も、どちらも僕を嘆いてくださる涙でした。恐らく母は、死の直前か、その瞬間まで、周囲の声とその意味を、ある程度はご理解されておられるご様子でした。

病気は母にとって悪いことだけではなく、とても少ないですが、良いこともありました。母は赤ちゃん言葉になられたその日から、僕をもう息子の健一だとは思い出さなくなりました。そのため、母は僕に対する悔いや負い目がなくなりました。僕はそのことだけは、"物忘れの病気でよかった"---と安堵しました。母も肩の荷が下りたのか、悲壮感がなくなって、すっかり可愛らしくなりました。平日はデイサービス(介護施設で日中を過ごすサービス)に通って、夕方から僕と散歩をされて、歩いて、唄って、体操をして、マッサージをして、食事を完食されて、お眠りになる直前までトイレ往復を続ける。そんな毎日を過ごされました。散歩も食事も楽しくて仕方がないご様子でした。土日はショートステイ(短いお泊まり。将来の長期入所をみこして、短いお泊まりを経験します。)を始められ、日曜に帰宅する。そんな一週間のルーチンでした。

02.2 介護施設

介護2年目になっても、やはり母の要介護度は、最も悪い要介護5度から変わりませんでした。認定員さん曰く、「お母さんの介護度が下がること(良くなること)はないでしょう。」とのことでした。母が土日にショートステイをされましたので、僕はようやく身体を休める時間がとれました。土曜の朝、父がタオルやパジャマや歯ブラシなどの生活用品を準備し、僕は車で母を病院や思い出の場所などにお連れしました。そしてお昼になると、ショートステイのお世話になる介護施設へお送りしました。夕方になると再度、僕は母の介護施設まで行って、いつもの、食事、散歩、体操、歌、マッサージ、排泄のお世話をさせてもらいました。これはそもそも介護スタッフの役目なのですが、今でこそ言えますが、当時(2010年代)はどの介護施設もスタッフが足りず、特に夕方から夜にかけては、ネグレクト(手が回らずに放置すること。目を離すと転倒のリスクが高くなるため、入所者さんを壁と机でブロックして動けないようにするケースをしばしば目にします)される入所者さんが多いことに気付いたためでした。母も、たった2日間のショートステイだけで、褥瘡(じょくそう。床ずれ。寝返りをせずに同じ姿勢を長時間続けると皮膚が剥がれて痛々しい穴が空きます。母の褥瘡は仙骨でしたので、恐らく椅子から動けないように拘束されたのでしょう。本来、拘束は家族の同意がなければできません)ができました。しかも母は一時的にやさぐれてしまい。性格が悪くなられました。ショートステイは予約制で、なかなか空きもなく、思い通りに施設を選べない事情がありましたが、それでも僕はその施設を二度と選びませんでした。

また、どの介護施設であっても、良い噂と悪い噂がありました。しかしながら全くあてになりませんでした。どの施設にも、"とても優秀"なスタッフさんがおられ、そして逆に、"残念"なスタッフも、どこの施設にもおりました。そして多くのご家族が、スタッフの善し悪しをご存じないのです。なぜならば、幾ら日中にご面会にゆかれても、日中はスタッフが多いので、悲惨なことはおこりません。スタッフの良し悪しがはっきりわかるのは、スタッフの人数が減る、夜の時間帯になってからでした。悪いスタッフにあたった入所者さんは、雑な介護で怪我をされたり、お口に無理矢理ご飯を詰め込まれて苦しまれたり、抗議すると逆に暴言を浴びせられたり、酷いときには鎮静剤で眠らされたりもして、それはそれはしんどい、ありさまがあるのでした。

僕は他のスタッフさんに、「いかがなものか」とお伝えすることも最初はありました。しかしながら、それはすぐに辞めました。そもそも少ない人数で多くを看るのはムリです。必ずそれができないスタッフは、ストレスを抱えて雑な言動になっておりました。そうなるのは、いつも同じスタッフでした。多くのスタッフさんは、ストレスを抱えられても、しんぼうされておられるご様子でした。一方で、優秀なスタッフさんは、そもそも入所者さんがご安心されて、平和な空気なので、ストレスなく、スムーズなお世話をされておられました。

僕は母の施設へ、毎日、夕方から夜の施錠時間まで通いました。そしてスタッフさんへ深々と頭を下げて、「いつもありがとうございます。僕が母を見られないあいだ、僕の代わりに母の面倒を看てくださって、大変に感謝しております。母をよろしくお願いします。」そうお伝えして、とにかく「どうか僕の代わりに母をお願いします。」この態度を貫きました。それはただ一方的なお願いではなく、僕が母の食事や排泄のお世話をすることで、スタッフさんの負担を減らし、その"見返り"として、母を横着に扱わないで欲しいと、そんな気持ちでお願いしておりました。それが母を護ることだと、信じておりました。

母と僕は通算8つの介護施設を経験しました。その中で断トツに素晴らしい施設がありました。どの施設も名ばかりドクターが登録されておりましたが、その施設だけは、毎晩ドクターが巡回されて、診察もされて、処方もされておられました。そんな素晴らしい施設であっても、やはり残念なスタッフが2名おりました。そのうち1名は、僕が知るかぎり一二を争う酷いスタッフでした。それでもその施設だけは、しんどいありさまや、悲惨な事件はおこりませんでした。

僕はとにかく毎日、仕事が終わると17:30ダッシュで車を飛ばして母の元へ駆けつけました。施設では夕方から施錠時間まで、在宅のあいだは夜中2時まで寄り添いました。そして日曜に眠り続けて、また月曜から元気バリバリに仕事と介護を続けました。

介護も3年目になりました。相変わらず母の介護区分は、最も悪い要介護5度のままでした。それでもまだまだお元気でした。心もずっとお美しいままでした。言葉だけは赤ちゃん言葉やジャーゴンなので、会話にはなりませんでしたが、母は雑談には参加されずとも、ニコニコとお笑いになられるので、介護スタッフの皆さんからも、愛されておられました。しかしながら、物忘れの病気は母から色々な物を奪いました。遠近感に乏しくなって階段が怖くなったり、歌が上手に唄えなくなったり、お箸をお口に持ってくるのが難しくて空中をパクパクされたり、短いスプーンであっても空中をパクパクされたり、どうしても食事をこぼされる量が増えました。それを毎日、掃除・洗濯してくださる、父の負担が増えました。そして父はケアマネに相談して、母の在宅介護を諦めて、土日だけではなく平日も、施設への入所を希望されました。

02.3 介護の負担①

父は精神の限界を迎えておられました。「今日でも明日でも、一日でも早く、どこでもいい。一番早い施設を探してくれ!」そうケアマネさんにお願いされました。そこで母はあっと言うまに民間の介護施設へご入居されることになりました。父は心がずいぶんと軽くなられたご様子で、ケアマネさんも満足されました。僕は呆気にとられはしましたが、それでも僕にも余裕が生まれるはずでした。しかしながら、そうはゆきませんでした。

僕はこれまでの経験で、介護施設には必ず優秀なスタッフさんと残念なスタッフが居ることを知っていました。そこでやはり毎日、母の元へ通いました。幸い、母がご入居された民間施設は、良いリーダーさんが常駐しておられたので、悲惨なありさまも、事件も、目にしませんでした。しかしながら、その施設は僕の実家からも、僕の職場からも遠く離れておりました。僕は遠距離を通い続けて、身体的がボロボロになりました。そして、"遠距離は続けられない"---と判断し、ケアマネさんに施設の変更をお願いしました。するとケアマネさんは難色を示しました。母の入所が決まって安心していたこと、加えて家族が毎日通う必要性がないこと、施設をひんぱんに変えるのは、環境の変化で母を混乱させること、これらの理由で、僕の要望は通りませんでした。それでも「僕は毎日通うので近い施設に変えて欲しい」と強く強くお願いし続けました。ようやくケアマネさんは次の施設を当たってくださいました。その施設は、毎日ドクターが往診される、素晴らしい施設でした。

母が元いた民間施設は、預かり金を大幅に返金してくださいました。すでに返還規定の日数を超過しておりましたが、僕が毎日通ってスタッフさんの負担を減らしたので、返金のご判断をされたそうでした。お金は本当に大事です。僕は最終的には貯金を全額遣い果たしました。それはずっとあとのことですが、施設からのご返金は、母と僕を助ける、大変にありがたいお金でした。

次の施設は老健でした。老健とは健康な高齢者が入所する施設でした。急な施設変更でしたので、ケアマネさんは無理を通されたご様子で、僕はケアマネさんに指示されるがまま、何度も新しい施設のドクターと看護師長さんに面談させていただきました。そして条件付きで、さらに次の施設が見付かるまでの約束で、何とかお世話になれました。

この施設は立地が良く、商業地域の側にあって、そして何よりドクターがご熱心でした。毎晩、回診されるので、その姿は入所者さんの心を安心させて、スタッフさんも緊張感を新たにされるご様子で、そんな大変に素晴らしい環境でした。それでも看護師長さん曰く、「あらかじめ決まった金額の中でやりくりしているので、先生があれこれ処方をされると、実は赤字になるのです。経営が成り立たない面もあるのです。」そう仰いました。幸い母は、自由診療内科(健康保険を使わずに全額自費で受診する内科。極めて先進的な医療や、あらかじめ病気になる前に、予防的な検査や、予防的な医業を受けることができる。ただし内科は自由診療と保健診療の混合診療が認められないため、あえて高度な知識や技術をお持ちのドクターであっても、その知識と技術を存分に活かせる自由診療をされるドクターは稀です)を受診しておりました。そこでお薬は介護施設ではなく、自由診療内科のドクターから処方していただきました。そして僕は次の施設が見付かるまでのあいだ、2人のドクターから厳しいご意見も受け取りながら、その素晴らしい施設へ通いつめました。

02.4 介護の負担②

その施設では、僕の他にもお一人だけ、夕方から施錠時間までの、最も介護スタッフが減って、最も不穏な時間帯に、面会に来られる女性がおられました。もちろんこの施設では、全く不安も事故も起こりませんでした。それはこの施設が毎晩ドクターが巡回される稀な施設だからであって、そうではない多くの施設では、例え防犯カメラがあっても、夜には不穏な何かしらがありました。そしてご家族は、たいてい入所者さんの健康状態が悪くなってから、夜まで残るようになるのでした。当時の僕は経験上、それでは遅いと考えておりました。

夕方から面会に来られる女性は、大変にお疲れのご様子でした。僕はその女性と一言も言葉を交わしませんでしたが、恐らく、ご家庭をお持ちで、ご家族の前では母・妻を務められて、そのまま休むことなく娘として、お母さんのところへ通われているのかも知れないな。そう考えると、それはそれは大変なことだろうなと、頭が下がる思いでした。女性のお母さんはお元気でお喋りでした。いつも僕を「親孝行」だと褒めてくださいました。しかし僕は褒められても、それは娘さんへのプレッシャーになりかねないと判断しました。僕の鬱陶しいくらいに献身的なやり方は、他の入所者さんやご家族には、見せるべきではないと判断しました。そして僕は母のお世話を母の個室でおこなうことにしました。

個室になると、気兼ねなく歌が唄えるようになりました。バナナとヨーグルトの差し入れも始めました。僕は自宅と同じように、母の前から横から後ろから、黒子(くろこ。人形劇や歌舞伎のような古い舞台で、人形や役者の動きをサポートする、影のような存在)や二人羽織(ににんばおり。役者の背後から動きをサポートする芸。大抵は2人の息が合わずに失敗するのがオチですが、僕はピッタリ母のタイミングに揃えました。)のようにサポートしました。母を応援し、母ができないときは、やはり諦める瞬間にサッと手助けしましたので、母はいつも驚きと嬉しさで笑っておられました。母と僕は仲睦まじく、母はご自身の手と僕の手を合わせて、合計4本の手を使って、お食事を楽しまれました。そして母はいつも完食されて、ご満足なご様子でした。

食事を終えると施設内を散歩しました。個室に戻ると体操して、母の好きな歌を唄いながらマッサージをしました。そして排泄のお世話をして、スタッフに挨拶して帰りました。母は、"なぜ僕が尽くすのか?"---疑問をお持ちでした。僕は相変わらず母の混乱を避けるために、「あなたの親類だよ。また誘いに来るよ!」とお伝えしておりました。それでもまだ僕は時々ですが、母のことを間違って、「お母さん」と呼ぶことがありました。母は疑問を持たれて「誰か!この人がお母さんをお捜しですよ!」と、僕のお母さんを探してくださいました。僕はもちろん複雑な心境でしたが、それでも母の心優しさが少しも変わらないことや、母には全く悪気も責任もないこと。それらをふたたび自覚するだけでした。母はおわかれするときに、寂しいお顔をされました。母にとって僕は謎の人物でしたが、僕はできることを続けるだけでした。僕には何が正解で何が不正解なのか?わかりませんでした。とにかく毎日施設へ通って、寄り添い、母の蘊蓄をお伝えして、まだ母はご納得されましたので、"母は認知症を患った今でも、昔と同じように健康を望んでおられる"---そう判断して、食事、散歩、体操、歌、マッサージ、排泄のお世話を続けました。そして介護スタッフさんへの感謝とお願いを伝えて、施錠時間ピッタリに、施設をあとにしました。

介護生活も4年目になりました。僕は何度も追突事故にあったり、車上荒らしや窃盗にあったり、父の介護区分が要介護4度になったり、目が回って首が回らない日々でした。追突事故は全て相手の前方不注意でした。僕は首や腰にダメージがあっても、気合いでいつものお助けルーチンを続けました。車上荒らしと窃盗はダメージが大きかったです。窃盗犯は、僕が病院で母の主治医を見付けて駆け寄った隙に、サッとカバンを泥棒しました。僕は母の通帳とキャッシュカードを失ったので、もう家族であっても、成年後見制度(認知症などを患われたご本人の財産を護るために、後見人を定めて、会計を明朗にし、例え家族であっても、その財産を私的流用させない制度)を使わなければ、預金を引き出せなくなりました。僕はその制度を申請するための、相談までは行きましたが、申請も会計の義務も大変な負担であることがわかったので、そんな余裕も気力もないと判断し、母の雑費は僕の蓄えを充てることとしました。父への付き添いが最もハードでした。父に必要な雑費も、あとで申請すれば全額返金される一時支払い金も、僕には申請する時間的な余裕も、余分な気力もなかったため、支払いだけを重ねて、返金は全て無視しました。僕の身体は一つなので、何かしらのトラブルに見舞われると、たった一週間であっても母のお世話をサボると、母はお箸が使えなくなったり、スプーンが使えなくなったり、その都度その都度、明確に、何かしらの運動能力をお失いになられました。僕は残念で残念で悔いましたが、しかたがないので、やれることをやるしかない。そう前を向いて進みました。

やはり僕は、表面上は"親切な親戚"でしたが、中身は正真正銘の、母の息子、健一でした。母が病気の侵攻で、どんなに不思議な行為をなされても、僕には怒る必要がありませんでした。僕は母のご性質をよくよく理解しておりましたので、その場その場で、母のお気持ちを察することができました。例えば母は病気の悪影響からか、何か糸くずや机や椅子の出っ張りなどにご執着されると、ずっとむしり取るような仕草をされました。僕は母が昔から堅い物と冷たい物がお嫌いなことを知っていましたので、「堅いよ」もしくは「冷たいよ」とお声掛けしました。すると、嘘も方便(うそもほうべん。相手を思いやる優しい嘘。例え嘘であっても、相手のためを思って伝える言葉やストーリ)で、母はスッと手を引っ込められて、落ち着きを取り戻してくださいました。母はもうスプーンでさえも使えなくなりましたので、やむなく僕は二人羽織の食事援助を辞めて、介護スタップがされるのと同じように、母のお口へ食事をお運びしました。ただし僕は絶対に母の食事ペースを乱しませんでした。母はゆったりと食事を完食されて、続けて食後のおやつに立派なバナナとヨーグルトをお召し上がりになりました。母はバナナが大好物でした。お薬の苦みを和らげるために、ハチミツも準備しました。スプーンの上でお薬とハチミツを混ぜて、母に舐めていただきました。母は甘い物が大好きでしたので、ハチミツの味がなくなるまで、ご満足そうなご様子でした。お茶もお味噌汁も飲み干してくださいました。僕は相変わらず野太い声で「お水だよ、お水だよ、お水だよ」と注意を促しておりました。やはり母は鬱陶しく感じておられるご様子でしたが、僕の心配もご理解されておられるご様子で、お上手に飲み干してくださいました。

03.1 手探り

介護5年目になる頃には、僕は40代になっていました。父の介護区分が要介護2度まで下がったので、僕の負担は大幅に減りました。要介護2度であっても、介護保険の範囲内で、じゅうぶんなサービスを受けられました。ただし、やはり父へ時間を割く分だけ、当然、母の所へは行けなくなることがありました。母はさらに3つの施設をご経験されました。そのうち1つの施設では、やはり僕がたった1週間でも施設へ通うことをサボると、それだけで母の靴は汚物が染みついて、薄汚れておりました。とにかく介護スタッフは一人で複数の入所者さんを担当されるので、ご家族が面会に来ない入所者さんは、しばしば横着な対応をされるのでした。僕は母がどんな一週間を過ごされたのかを想像すると、頭が真っ白になって、呆然と立ち尽くしておりました。それでも黙ってこらえて文句を言わずに、とにかく「僕が母を看られないあいだ、どうか僕の代わりに母を看てください。お願いします。」その立場を貫きました。とにかく毎日通って、介護スタッフの負担を減らしました。それでもまた、父の検査入院などがあると、僕は2-3日、母の施設へ通いたくても通えませんでした。そして、母は遂に転倒をご経験されました。それも2回もです。そのとき母は2回とも、明瞭な受け答えをされました。やはり母は、普段は会話をされずとも、まだ目も耳もしっかりされており、転倒の驚きと痛みで我に還って、ハッキリと、その痛みとご心境を、言葉で意志表示されました。

なお、転倒のリスクはどなたにでもあります。一概に介護スタッフが悪者とも限りません。ただし、繰り返しにはなりますが、どの施設であっても、優秀なスタッフと、残念なスタッフがおります。どんなスタッフであっても、お互いに心ある人間です。もしも僕が施設やスタッフを責めても仕方なく、転倒の予防と、母の介護をお願いし、僕自身は、スタッフの負担を減らすことにもつながる、施設通いを続けました。

母は転倒をご経験されたので、再発防止のため、車椅子でのご生活になられました。とは言え、まだ食事は椅子に座り直してとられました。まだ僕がピッタリ寄り添うと、施設内の散歩も続けられました。まだ向かい合ってしっかり両手をつなぐと、ゆるりとした屈伸運動もできました。僕はより念入りに足のマッサージを続けました。そして、「足は一生物だからね、だいじに使わなければいけませんよ。」そう母にお伝えしておりました。このセリフも母の口癖でしたので、母はご納得されるご様子でした。母は不意に、マッサージをする僕のすぐ横を見つめて、そして嬉しそうな笑顔で、「健ちゃん、こっちおいで」と、手招きをされることがありました。僕は不意を突かれて涙がポロポロとこぼれ落ちました。母の口から僕の名前を聞けたのは、もう5年も6年も前のことでした。そのあいだ僕は、"親切な親戚"としてお仕えし、母を混乱させぬように、「サツキさん」、「大田さん」と呼びかけておりました。そんな5年間も6年間も、僕が一度も聞けなかった僕の名前を、母は嬉しそうな笑顔で呼んでくださったのでした。そして手招きをされて「こっちおいで」と呼んでくださったのでした。僕は嬉しくて嬉しくて、心の全てが満たされました。母の姿勢と仕草から想像すると、子供と遊ぶような、まだ幼い僕のまぼろしを見付けたような、そんな幸せなご様子でした。僕はその日のお世話でも、帰りの車の中でも、目の前が涙で見えなくなりました。小躍りして喜びました。母は物忘れの病気を患っても、母の中で僕が消えていないことを、それはもちろんわかってはいましたが、実際に母の口から僕の名前を聞けて、そのお声も仕草も、運転中に前が見えない危険で我に還ったことも、今でもはっきりと覚えております。そのとき僕がどれだけ驚いたか、どれだけ嬉しかったか、それは経験した者にしかわからないです。

介護6年目になると、母は完全に車椅子の生活になられました。その場に立つことはできましたが、バランスがとれずにゆらゆらとされました。ゆるりとした屈伸運動も、危険と判断して辞めました。歩くのも危険なので、施設内のお散歩は車椅子のままになりました。その代わり、僕は車椅子を手で押さずに、身体ごとゆっくりと押し出しながら、空いた両手で母の肩を揉みつつ進む、そんな特殊な技能を身に付けました。マッサージはより一層、念入りに続けました。僕は母の足に向かって、「しっかり頑張れよ!しっかり身体を支えるんだよ!」と、応援しておりました。足を応援する僕に、母はあまりご反応されませんでしたが、嫌がる表情はされませんでした。母の運動能力が低下するにつれて、僕にできることがどんどん少なくなりました。散歩ができなくなって、体操ができなくなって、僕が役立てるのは、食事と排泄のお世話くらいに減りました。しかしながら、これらは介護スタッフさんの負担を大きく減らせましたので、僕はもうしつこいので説明を省きましたが、いつも深々と頭を下げて、「あとはよろしくお願いします」とお伝えして、施設をあとにしました。

母はもう目の前がはっきりとはお見えにならないご様子でした。物忘れの病気アルツハイマーは、母から遠近感を奪っただけではなく、目の前にある何もかもをわからなくして、そして母は不意に目の前で何かしらの動きがあると、ギョッとされるようになられました。そのため僕は母の正面を避けて、横や、斜めや、後ろからお世話をするようにしました。声掛けは優しく続けました。車椅子を押して散歩をしながらも、母が何かにご執着されると、母の心が穏やかになるように願って、背後から、「堅いよ」、「冷たいよ」とお伝えしました。やはり母は言葉をご理解されておられたので、スッと手を引いて、落ち着いてくださいました。母の食事だけは、あれだけご納得されておられた"健康の蘊蓄"であっても、あまりご反応なさらなくなられました。僕には、"今の母は健康と運動と食事について、ご内心、どうお考えなのであろうか?"---それを確かめる確かな手段がなくなったので、いつも手探りで、無理な押し付けにならぬように、母のご反応に気を配りながら、ずっとお声掛けを続けました。僕のやり方が上手であっても下手であっても、母のお心をご安心させる、それができるように、心を砕きました。

介護7年目になって、母は遂に特養へ受け入れていただけました。特養は老健とは違って、死を迎えるその最期まで、あらかじめ住民票まで移せるような、そんな看取りまでをも含んだ、介護の最終施設でした。僕は毎日続けた母へのお世話をお休みすることにしました。なぜならば、母が少しずつ弱られるにつれて、もう僕ができるお世話が減っておりました。また、特養は介護の終着地点です。母の介護を特養のスタッフにお任せして、僕は身体を休めることにしました。

03.2 燃え尽き

僕は44歳になろうとしておりました。介護を始めた36歳の、あふれる元気は消えておりました。確かに母のお世話を100%特養にお任せすると、僕の身体は休まりました。それでも夜中2時まで眠らない習性がなおらず、暇な時間だけが増えました。そのあいだ特養からは、これと言った変化を聞きませんでした。"共依存"という言葉があります。"僕は母に依存していたのかな?"---と思いつつ。それでも母のお役に立てた面もあったので、よかったとも考えておりました。そしてときどき施設に顔をだす、"普通の家族"になりました。そして、様子見の間隔が少しずつ長くなり、半年も経つと、一ヶ月の空きとなりました。

そのあいだ母は、別の病気と戦っておられました。母は一ヶ月前とは別人のように衰弱されて、食事を嘔吐されました。"これはただごとではない!"---ようやく僕は悟りました。首もすわらずグニャグニャで、すぐに救急車をお願いして、病院へ向かいました。癌でした。母はようやく介護の最終施設であるはずの特養に入所されてから、たったの半年で、退所され、新たに救急病院での生活が始まりました。

04.1 闘病

母は点滴の力で、ずいぶんと気力と体力を回復されました。ドクターは、「今日何があるか?2週間後に何があるか?1ヶ月経っても元気か?それがわからない状態です」と仰いました。確かにもしも肺炎などで、急激に体力を消耗されると、いつ亡くなっても不思議ではない。そんな恐ろしさがありました。実際に母がお亡くなりになられるのは、この日から2ヶ月後になるのですが、それは母にも僕にもドクターにも、わからないことでした。

僕はまた母の元へ通い始めました。もう母は点滴生活になられたので、僕にできることは、寄り添いと、マッサージと、声掛けだけでした。たった一ヶ月、たった半年での急変であったため、僕には「死」に対する覚悟がなく、ショックで味覚を失いました。ご飯の味がわからないので、ケチャップを大量にかけて、ムリに食べて、体力を消耗せぬようにつとめました。

母は、身体は弱っても、気力は取り戻されておられました。そしてよく何かを伝えようと、喋ろうとされました。僕は長いこと母のジャーゴンを理解しておりましたので、母がどのようなお気持ちなのか、はっきりとわかることもありました。そんなときは強く、「わかるよ!」とお伝えして、母と一緒になって、母の気持ちに寄り添いました。

母はますます目の前の景色が何なのか?わからなくなられました。僕が隠れていると、母は周囲を見渡して、"ここはどこだろうな?"---そんな興味津々のお顔をされました。僕はその穏やかなご表情が愛らしくて、たまらず動きました。すると母はギョッとされて、けわしいお顔になられました。そうやって僕は、失敗も学びました。

救急病院は、母のバイタル(血圧や血中酸素濃度などのリアルタイムデータ)に少しでも異常を認めると、迅速にご対応くださいました。そして逐一、僕にご報告くださいました。僕は必ず駆けつけました。かなり大きな病院でしたので、駐車場からICUまでの長い道のりでも、心の底から母のご無事を祈りました。"もう僕には祈ることくらいしかできない"---そんな悔しさの反発もあって、僕はまだ僕にできることを、より一層、マジメに考えるようになりました。マッサージは続けられました。体位変換(寝返り。身体が弱ると寝返りができなくなるため、定期的にスタッフが2人がかりで抱えて寝返りさせます)も、僕は力強く安全にサポートできたので、率先して、看護師さんをお助けしました。ICUの看護師さんは皆さんテキパキされておられました。大変に心強い印象がありました。僕を元気づけてもくださいました。僕は病院と医療スタッフを信じて、祈って、お任せしました。

母は容態が落ち着かれました。そのため一般病棟へお移りになられました。僕は心の中で、"そのまま優秀なICUスタッフさん達に看て貰いたいな"---と願っておりましたが、そこはしかたありませんでした。母はちゃんと、一般病棟でも構わないくらいに、気力も体力もご回復されておられました。母はより一層、何かをささやかれておられました。僕にははっきりと、"母が何を仰りたいのか?"---わかりました。いつも同じ内容でした。それは"祈りのことば"でした。僕は母のおそばで、母のお口に合わせて、ご一緒にお祈りました。

母の癌は方々へ転移しておりました。そこで緩和ケア(かんわけあ。治すことや延命することを目的とするよりも、いずれ迎える死を受け入れて、身体の痛みや心の苦痛を取り除く医療)を勧められました。僕はようやく母の死を、現実的に考えるようになりました。いまさらですが、緩和ケア病棟のある病院を選ぶあいだ、母の写真や動画を撮りました。"人は必ず死ぬ=母はいなくなる"---そんなあたり前のことに、僕はようやく気付けました。

04.2 気付き

母はターミナルケア(終末医療。ほぼ緩和ケアと同義)を専門とする病院に転院されました。その病院も、母の容態を逐一ご報告くださいました。僕はその度に母の元へ通いましたので、父をほぼ完全に放置しておりました。そのあいだ、もちろん父には様々なご要望がありましたが、僕は、「母が生きている今できることをする!死んでしまったら何もできない!!今が勝負なんだ!!!」そうお伝えして、いったんは黙らせました。そんな芝居がかったセリフ、それでも父はご要望を引っ込めませんでした。僕は100%無視しました。

病院生活も合わせて2ヶ月になりました。遂に母が亡くなられる2日前、母に大きな変化が現れました。病院には食堂がありましたので、半ば寝泊まり生活を続けても、案外しんどくありませんでした。僕が朝食から戻ると、母はいつもであれば、目の前に誰が現れても一瞬ギョッとされるのですが、なぜか嫌なお顔をされませんでした。僕はこれまでの8年間、ずっと母に寄り添っておりましたので、"おかしい"---と感づきました。すぐに容態を看護師さんに確認しましたが、変化は認められないとのことでした。あとになって翌日から、母の容態が半日ペースで悪化するのですが、まだこの日の母は、ゆったりとされておられました。

僕は夕方、職場から病院へ駆けつけると、いつもの通り、ルーチンのマッサージを始めました。ですがその前に、実験をしてみました。母がまだどの程度、言葉をご理解なさっておられるか?それを確かめるために、母の足元で僕は笑いながら「コチョコチョコチョー」とおどけてみせました。すると母は、身体をすくめて"イヤーーー"と言う表情をお見せになられました。その表情は嫌悪ではなく、例えば遊びの鬼ごっこで、子供に捕まって、コチョコチョの刑にされる、そんな観念せざるを得ない、そのときにお見せになるご表情でした。僕は母に謝罪してから、マッサージを始めました。すると母のご表情は、母がご病気になられる前の、心から息子のマッサージにご満足されておられる、そのときと同じご表情でした。

驚きの連続でした。僕は長いあいだ、"親切な親戚"の立場でしたので、母の身体をマッサージするときは、絶対にガサツに触れることはせず、それは痴漢行為にもひとしいと考えて、母のご反応を慎重に観察しながら、揉んでおりました。一方で、僕が幼い頃からマッサージはよくやっておりました。幼い僕が幾らガサツに揉んでも、幾ら下手くそで痛くしても、母はご満悦であったり、痛いと半べそなお顔であったり、いずれにせよ良い表情をされて、感謝してくださいました。そして今まさに目の前におられる母は、"息子に揉んで貰える幸せにひたったお顔"---そのご表情をされておられるのでした。

僕はまだ観察を続けました。とにかく母は、目の前に誰かが現れると、ギョッとされるはずでした。そして看護師さんが現れると、やはりギョッとされました。それなのに、僕が同じように隠れて現れても、母は全く気に障らないご様子でした。

もう僕は確信しておりました。それでも僕は、ずっとずっと慎重に、"ひとりよがりなことをしてはいけない"---そう誓っておりましたので、まだまだできるテストを重ねました。母の足の裏をわざと、ゆっくりと強く揉みました。すると母は嫌悪の顔ではなく、「健ちゃんそれ痛い!でもまだ大丈夫。もうダメ!お願い辞めてーー!!!ふーーー(痛かった)」---そう懇願された昔の母。それと全く同じ表情の変化をされました。もう疑いようがありませんでした。母はふたたび僕のことを、"健一でしかありえない"---そう気付かれたのでした。僕は心の底から良かったと喜びました。母の心が落ち着かれたこと、母の心がご安心なされたこと、僕にはいまさら息子宣言をする必要がないこと、なぜなら母は、すでに健一がそばにいることをご存知であること。僕は自然と母のお腹をさすっておりました。それは、"親切な親戚"の立場では一度もできなかった、"本当の母子"であるからこそできる手当てでした。僕はもう母が死の目前であることを、心でも頭でも理解しておりました。母も恐らくお気づきであったかもしれません。僕は心の中で、"お母さんは死ぬ。でも僕はずっとそばにいるよ。"---そうつぶやきながら、母の身体をさすってあげました。

母はその日の夜から、みるみる衰弱されました。

04.3 涙

母にはモルヒネが処方されておりましたので、痛みも苦しみも緩和されているはずでした。母にはまた、ICUと同じように、酸素マスクが必要になりました。バイタルがモニタリングされ、絶え間なく電子音が続いておりました。看護師さんは夜中であっても、パソコンに何かをご入力されておられました。僕は母のそばで、祈りとお声掛けを、静かに続けておりました。母は僕に気付かれたこともあってか、少しでも長く生きたいと、願われておられるご様子でした。

僕はあるお話を思い出しました。その先生曰く、「死期が近い患者さんの看取りに立ち会うとき、これ以上ない良いタイミングで亡くなられるかたがおられる。よく見ていると、ほんの少し息を止めるだけで亡くなられるようなかたは、家族に囲まれて、ああこの瞬間、この最高のタイミング、と感じたときに、クッと息を止めて亡くなられる。だから患者さんを見ていると、息をとめる瞬間がわかる。」そう仰っておられました。だから僕は、「お母さん、頑張ってもいいし、頑張らなくてもいいんだよ。」そうお伝えしました。しかしながら母は、なんど息がとまりそうになられても、じっさい翌日には何度も止まりましたが、そのたびに肩と腹筋を使って、頑張って空気を取り込まれて、何度も呼吸を取り戻されておられました。

機械は何度も警告音を鳴らしました。そのたびに僕は、その場で地団駄を踏みました。"地団駄を踏む"---そんな古典でしか読んだことがないような、そんな足踏みを、身体が勝手にその場で踏み鳴らしました。僕は心も頭も身体もバラバラでした。そして母は何度も何度も持ち直されました。僕はその度に、"死は瞬間ではなく、長い変化なのだ"---そう理解しました。

令和2年3月4日の朝になりました。母がお亡くなりになる日でした。母は喉にタンが溜まるので、看護師さんがチューブで吸引してくださいました。そのたびに母は嫌な表情をされましたので、僕は母に抱きついて、「お母さん、いじわるでやっているのではないよ」とお伝えしました。ドクターが抗生剤を処方してくださいました。しかしながら、いつまでたっても届きませんでした。チーム医療(複数の専門職が情報を共有して実施する医療)であるため、ドクターが処方されてから、その処方を薬剤師さんが確認し、最終的には看護師さんのチェックを経て、ようやく抗生剤が届いたのは、もうお昼になっておりました。

母の個室は洗面所もトイレもある、広くて長い造りでした。僕は個室の入り口で看護師さんを出迎えたとき、ようやくお薬が届いたことを知って、ケモノのような声を上げて、号泣しました。よくマンガなどで描かれる、"咆哮"や"雄叫び"でした。「やっとばい菌を叩き潰せる!!!」そう恐らく声にもだして、喜び勇んで、母のベッドへ駆け寄りました。すると母は、大粒の涙をポロポロとこぼされておりました。僕はハッとして、"なにごとか!?"---そう考えて、瞬間的に身体が固まりました。母の涙は一度きりしか見たことがなかったので、僕は正常な考えができずに、答えがわかりませんでした。それでも母の涙は、母がまだ周囲の声を、ある程度はご理解されておられる証拠であると判断しました。看護師さんはテキパキと点滴に抗生剤を加えてくださいました。僕は少しだけ落ち着いて、それでも勢いが残ったまま、「お母さん、薬がきたよ!これでばい菌に反撃できるよ!!」そうお伝えしました。

母がもうどれ程ことばをご理解されておられるのか?誰にもわかりませんでした。それでも僕は、母のそばで語り続けることを辞めませんでした。"僕がまとわりつくから、母は不憫で頑張っておられるのかな?"---そんなことまで考えました。とにかく、何が正解で何が不正解か?わかる訳がありませんでした。

母は相変わらずタンの吸引を必要とされました。夕方になると、もはやお諦めになられたような、されるがままの、無反応に近いご様子になられました。僕は看護師さんのご提案で、父と親族に、"母の死が近いこと"を伝えました。

04.4 宿題

母は昔から、ご自身の課題を、「宿題にしたくない」と仰っておられました。その意味を、「来世に持ち越したくない。(死ぬまでに解決したい)」そう仰っておられました。僕には母が仰る「来世」はわかりませんが、それでも僕は、母がお亡くなりになられる前に、母の課題を解決してあげたいと願っておりました。課題は2つしかありませんでした。1つは母の父、僕の祖父にまつわること。母は祖父のお葬式のあいだ中、ずっと、"死に目に会えなかったこと"を、悔やんでおられました。これはいまさらどうしようもありません。もう1つは、この世に残す夫のことでした。僕は、"今の母がどうお考えなのか?"---それはわかりませんでしたが、祖父のお葬式で見た、"病気になる前の、昔の母"---その姿を思い返すと、母と父、2人だけの、最期のお別れの場を作るべきだと考えました。

父が来るまでには、2時間以上かかりました。それまで母は何度も呼吸が止まりました。そのたびに母は、肩と腹筋で息を吸われて、意識を取り戻されました。そして父が現れたとき、僕は大声で「親父さんがきたよ。あなたの旦那だよ。わかっているね。親父さんだよ。」そうお伝えしました。その大声で、母は眉間にシワを寄せられました。僕は構わず個室をでて、母と父、2人だけの時間と空間を作りました。

04.5 笑顔

母と父に、どのようなやり取りがあったのか、僕は今でも知りません。僕は個室をでてから、車のシートで心と頭と身体を落ち着かせました。僕は悪い息子だとも思いました。せっかく母が僕を思い出してくださったのに、最期の最後になって、母のそばを離れた。もしもそのあいだに母がお亡くなりになられたならば、大変な親不孝だろう。そう考えました。一方で、僕は母の強い意志も尊重しておりました。母が赤ちゃん言葉になる前日でさえ、母はご自身の課題を思い出されておられました。僕は5分なのか10分なのか15分なのか?とにかく身体が勝手に母の元へ行こうと動くのを、心で無理に引き留めて、待ちました。

母の個室へ戻ると、そこには既にドクターと看護師さんがおられました。僕は入り口で、奥からいとこの、「また息を吸ったよ!二回目だよ!」---と言う声を聞きました。僕は前日から何度も息を吹き返された母を知っておりましたので、まだ急がず、洗面所で手と顔を洗いました。そのあいだも身体は不意に、勝手に母の元へと走りだしました。それを無理に引き留めて、母との最期を準備しました。これが最期であるとわかっておりました。最期のために清い身であおうと、腕まで念入りに洗いました。心の中で、"母の最期に何を伝えよう?"---そう考えましたが、すぐに考えるのを辞めました。考えてもしかたない。もう心しかない。そして母の元へゆきました。

ドクターと看護師さんがおられたので、ベッドを迂回して、母のおそばへ回り込みました。母のお顔を横から持ち上げると、一瞬母が目を回されたようなご様子でした。僕は、「あ、ごめんね」と謝罪しました。そして真横から、真っ直ぐに母のお顔を見すえて、お伝えしました。「お母さん、いい顔しているよ。お母さん、いい顔しているよ。」僕は幼い頃に母がお気にされていた、「私はどんな顔で死ぬのだろう?」---そんなつぶやきを、綺麗さっぱり忘れておりました。それにもかかわらず、母への最期のことばに、"あなたの死に顔がお綺麗なこと"---それをお伝えできました。もしも母が、まだことばをご理解なされておられたのであれば、どれだけ母の心をご安心させられたであろうか?そのことばが母に届いたかどうかはわかりませんが、僕は母の最期に、最高のことばを贈れたと、そう思っております。

ドクターの宣告により、母の死が確定されました。母は笑顔のような、微笑みのような。そんなお顔をされたまま、もう肩もお腹も気張らずに、呼吸をお辞めになられました。

04.6 儀式

父からは、母の棺を花で満たすように指示されました。いとこもいつのまにかいなくなりました。他にも来訪があったかもですが、僕は全くうわのそらでした。ソファーで眠り、しばしば起きて、僕の暖かいお布団と、母のお布団を交換してあげました。朝まで続けていたので、看護師さんは、母の身体がまだ暖かいと、驚いておられました。僕は夜中のあいだ、「母は死んだ」と口に出して、自分に言い聞かせました。そうしないと、僕はうわのそらのまま、心に区切りがつけられないような気がしたからでした。

お葬式では、同僚から、母が綺麗なお顔で驚いたと、教えてもらえました。確かに母は、物忘れの病気で、嫌なことも忘れられて、肩の荷が下りて、可愛くなられた面もありました。母は赤ちゃんことばでしたので、僕はまるで娘のようにお世話させていただきました。これはもしかすると、「生まれ変わったらあなたの子に生まれたい。」---そんな不思議な母の願いが、半ば叶ったのかもしれないと感じました。母は僕がそばにいることも思い出されましたので、病気になる前の、昔のご表情も取り戻されました。もしかすると宿題の1つも、片付いたのかもしれません。母は花に埋もれて眠っておられました。母の白い肌と、花の無数のコントラストが綺麗でした。母が棺の中でお眠りになられても、僕はずっと心で寄り添わせていただきました。

母のご友人へ、母の最期をお伝えしました。すると、「サツキさんは、昔から、どんな顔をして死ぬのか、気にされていたんだよ!」そう教えていただけました。僕はハッとして、"確かに母はそう仰っておられた!"---思い出しました。そして悟りました。僕は何も考えずに、ただ本心から、母へことばをお伝えしました。それが偶然にも、母が気にされておられたことであったこと。これはきっと偶然ではなく、僕でなければできなかったであろうと。やはり母のお世話は僕でなければならなかったであろうと。そう気付きました。

僕は母のご友人へ、"母が病気になったあとも、母の優しい性質は変らなかった"、"母は病気になられても、必ずしも不幸ではなかった"、そんな、皆さんが知らない、病気になられたあとの、母がたどった歴史、母がたどった生き様を、お伝えしたかった。皆さんにご安心いただきたかった。しかしながら、それはお葬式の短い場では、まるでできませんでした。その思いを、いまこの文書を通じて、皆さんにお伝えいたします。

母はそもそも、ご自身の「死」について、よくよくお考えになられました。30歳までは生きられないと宣告されて、一所懸命に生きて、30歳で両親へ家をプレゼントされました。その後に母は、ご自身のご健康に自信を持たれて、子供を望まれて、僕を産んでくださいました。母は僕を産んで、育てて、教育してくださいました。母の優しい性格は、物忘れの病気を患っても、一つも変りませんでした。なので母のお世話は、全く苦になりませんでした。僕は下手くそでしたが、それでもずっと、母のおそばに寄り添いました。それは母にとっても、嫌なことではなかったであろうと、皆さんにお伝えします。なぜならば、病気は確かに不幸なことではありますが、母は嫌なことを忘れられて、むしろ元気にさえなられました。そして最期になって、僕が息子の健一であることを、思い出してくださいました。母にとって僕は宝物でしたので、母の最期は、悪くなかったであろうと、僕は考えております。

令和7年5月 5日(初稿)
令和7年5月10日(修正)

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