母と僕(父の章2025.12.17追記)
00.1 父91歳
本日、令和7年11月29日9時35分、父が亡くなりました。暦では明日の友引は祭事にふさわしくないらしいのですが、僕はお構いなく、トントン拍子でお通夜とお葬式ができるように段取りました。
父には亡くなる3ヶ月前から様々なトラブルが訪れました。それは実際、物凄い体験だったので、父がこう仰ったとき、
「(ワシは)小説やドラマになるような物凄い体験をした!」
私はすぐさま「僕が書く。書いてやる。」とお応えしました。
父は目を丸くしましたが、僕がほとんど嘘をつかない人間なのをご存知なので、まるでご自身がヒーローになったかのように、喜んでくれました。
もちろん僕は物書きのド素人ですし、母の体験談を書いたことも父は知りません。それでも父の要望通り、約束ですし、父のヒーローっぷりを文字起こししてみます。その前に、明日のお通夜、明後日のお葬式を、父が喜び満足できる内容にします。
00.2 父が語った幼少期
父は誰の意見も聞かず我が道を行かれる人でした。そもそも昭和9年生まれの父は、戦争の影響で、特別な子供だったそうです。まず、昭和8年生まれの年上はみな戦争の手伝いに従事させられたので、身の回りに先輩がいなかったそうです。つまり父に限らず昭和9年生まれの方々は、子供として扱われる人達の中で最年長だったらしいです。つまり、もしも同級生の中でガキ大将にさえなれれば、目障りな先輩がなく、そのまま子供たち全員の総大将になれたそうです。また父が仰るには、大人も兵隊さんに取られて少ないため、山や河には自然の恵みが捕られないまま残っていたたそうです。総大将になれた父は、手下を率いてムベやアケビ、ウナギやサワガニなど、食べられる生き物を捕って食べて遊んで、楽しく暮らしたそうです。これは僕が学校で習った戦時中の貧しく悲惨なイメージとは全く異なります。父は田舎の山奥に昭和9年生として生まれ育った幸運で、大変に楽しい子供時代を過ごせたそうです。
更に父は長男でしたので、家庭でも特別扱いを受けたそうです。珍しい食べ物は全て長男の物。しかも九州男児なので、理屈ではなく身分やゲンコツで力関係が決まる価値観。そんな偏った生き方をする父へ、親戚は"勉強せず、どまぐれ者(?)になって、可哀想だ"---と嘆かれたそうです。一方で当の本人は、体格に恵まれ、勉強せずとも頭の回転も記憶力もよく、何より先輩がいないのでトップに君臨できる。そんな毎日が楽しくて、親戚の嘆きなど気にせず、全く勉強をしなかったそうです。
それでも父の頭はよく働いたご様子でした。詳細は書けませんが、未成年であっても"親分"---として君臨し、ただし、警察に追われて、憧れだったらしいヤクザへの就職が失敗し、九州を離れて身を隠した先でもすぐに先輩に手を掛けて、そんな未成年時代を過ごしつつも、ご自身の頭脳と膂力と何より子供時代から染みついた親分気質もあってか、"組長"---を名乗って、大量にお金を稼いで大量に消費する、そんな豪快な生き方を続けられたそうです。
そんな父も91歳になりました。まだ頭は冴えておりましたが、足と膝がたった2年で見る見る弱りました。まず昨年2024年の猛暑で散歩が減って、更に2025年も猛暑で外出せず、家でTVばかりを観る生活が続きました。私は実家に帰省してからずっと、毎週土曜日は、父を車で焼き肉と買い物に連れ出していました。しかしながら私の車は極端に車高が低いため、"もう2人乗りのスポーツカーでは父の乗り降りはしんどいだろうな"---そう心配しておりました。
父もご自身の衰えに気付いておいででした。坂道を登り切るのが億劫になり、途中で休憩が必要になりました。ですが父は高すぎるプライドをお持ちなので、"休んでいる弱い姿を誰にも見せられない"---とお考えになり、坂道は人が居ない夜に歩くようにされました。父は誰にも弱みを見せませんでした。風邪でもひこうものなら、周囲に当たり散らして誰も寄せ付けませんでした。父は誰にも頭を下げませんでした。そんな父であってもあるとき初めて僕に「ありがとう」と仰ることがありました。そしてそんな父へ事件が迫りました。最初は2025年8月、続いて9月、そして10月、11月、父はまだまだお元気であったのに、頭も冴えていたのに、2025年11月29日、お亡くなりになりました。
この物語は、父へ突然に訪れた困難と、父がどれだけ強く立ち向かったのか。そして最期に「もう諦めたー」と言う表情をされて、サーッと顔色が白くなられた。そんな格好良すぎる父の生き様と死に様を、そのまま文字起こしした物語です。物語は父の格好良い所だけを書きます。僕は父の死に化粧を「強そうにして。格好良くして。」と主張し続けました。しかしながら全く受け入れられず、父は穏やかで良いお顔にされました。僕は納得がゆかないので、父の強さと格好良さを文章に残します。父は僕の中で"男らしさ"の塊です。ヒーローだと思っています。
01.1 父78歳
僕が母の介護を決意し実家に戻った時、父の年齢は78歳になっておられました。見た目はそれなりに歳を重ねておられましたが、父は朝晩の筋トレを欠かさないため、さり気なく引き締まった身体をチラつかせて、ご満悦のご様子でした。
頭の冴えも凄まじかったです。僕は実家に戻った翌朝に、何の気なしに冷蔵庫を空けました。するとなぜか房から取られたブドウが山盛りに保存されていました。僕はそれを一粒拝借して元に戻すと、あとから父は鬼の形相でこう仰いました。
「ワシをナメるな!ちゃんと数を数えて覚えているんだ!まだボケてないんじゃ!」
これはあっぱれでした。僕は父の性格をよく知っているので腹は立ちませんでした。
父はその日のうちに、"次はTVで見た1万円を超える高級イチゴを仕入れに行くぞ"---とルンルン気分でした。
父は高いプライドも相変わらずでした。僕が昼まで眠っていると、父は"朝の挨拶をしに来んかい!"---とイライラし、わざわざ掃除機をかけて、更には掃除機を振り回してガタガタガタガタとうるさい音を立てて、それでも僕が二階から降りてこないので、遂には「いつまで寝とるんじゃ!ワシをなめるな!!」とお吠えになりました。僕はやっぱり"相変わらずだな"---と呆れましたが、一階に降りて頭を下げて「おはようございます」とご挨拶してから、さっさと二階に戻って二度寝しました。
その後、父は1万円を超える高級イチゴが口に合わず、「おい健一これ食っていいぞ。ワシは食わんぞ、美味しくないから。」と仰って僕にくれました。父にとって、期待外れのイチゴはトータル何万円であっても全く興味がなく、一方で美味しいブドウは全部自分の物。1粒でさえも別け与えない。大変に分かりやすいご性格でした。
実は母から事前に父のことを聞いていました。母は「(父は)歳をとって見た目は丸くなりましたが、中身、本質は全く変っていないので、くれぐれも警戒を怠らないように注意しなさい。」と仰っておられました。僕は「お母さんそんなに心配しなくて良いですよ。」とお返ししておりましたが、僕は帰省してたったの二日間で、"ああ母の仰る通りだ"---と納得しました。
01.2 父のルーチン
父は"一緒に生活する"---となると、大変に面倒くさい人物でした。一方で、他所ではどこでもVIP扱いをされているご様子でした。若い頃の父は大勢を引き連れて「何でも食え。好きな物を頼め。一番高い物を選べ。」と豪勢に振る舞う人物でした。今の父は流石に一人で行動されているご様子でしたが、どうも必ず決まった曜日に決まったお店へ行き、そこで決まった高級料理を頼むらしいので、どこのお店も父のために席を準備しておき、父が現れると注文も取らずにサッと料理を運んでくる、そんな満足感に溢れる生活をされているご様子でした。
朝晩の筋トレも日課で、最初はどこからともなく"フン!フン!!フン!!!"---と気合いの声が漏れるので気味悪く感じましたが、実際に父の身体を目にする度に、"80歳を過ぎてもこの身体なのは凄い。僕も同じ遺伝子を持っているはずなので、お手本にしなければならない。"---そう考えるようになりました。
父には大変に素晴らしい面がありました。美食家でもあり料理造りも趣味であったため、父は母と僕に、毎晩美味しい手料理を振る舞ってくださいました。これは母が施設暮らしになるまでの三年間、ずっと毎日続けてくださいました。
父は大変な綺麗好きでもありました。そのため家の中も外もピカピカに掃除されました。母の洗濯もしてくださいました。これも母が施設暮らしになるまでの三年間、ずっと続けてくださいました。その後も父はご自身が亡くなる91歳になっても、介護保険のヘルパーさんを一度も雇わずに、全てご自身で身の回りの掃除・洗濯をされました。
このように素晴らしい一面をお持ちの父であっても、そこは中身は"ほぼ極道"---でしたので、何かしらの失敗があると、鬼の形相で怒り狂われました。あるとき父は「すき焼き用の肉を買ってこい」---と数万円を僕に手渡しました。そして父がすき焼きの下準備をされながら何かしらわめき散らしているので、僕は覗きに行きました。すると父は塩と砂糖を間違っていたご様子で、「このアカンタレの砂糖が!幾ら入れても全く甘くならんやないか!!このアカンタレが!!!」---と「アカンタレ」を繰り返しつつ塩を大量に振りかけておいででした。僕は父のプライドを傷付けないように、一言だけ「それは砂糖ではなく塩ではないかな?」---と、独り言のフリをしてボソッとつぶやきました。すると父はハッとして、お肉もろとも流しへすき焼きの具材を全部捨ててしまわれました。僕は勿体なくて、流しから肉をすくい上げて、洗って、塩抜きもして、母と二人で分け合って食べました。そのとき父が何を食べていたのかは分かりません。もしも虫の居所が悪い父へ顔を向けたり目でも合わせようものなら、当たり散らかされるのでかないません。そこで僕も恐らく母も同じように、全く父が居ないかのように振る舞っておりました。
父は筋トレでも失敗されました。80歳を過ぎても毎朝、毎晩、筋トレをし続けた悪影響で、父はご自身の足を自ら筋トレで折ってしまわれました。この時も僕は父のプライドを傷付けないように配慮し、僕は「あまりにも筋肉が強すぎて骨が耐えられなかったのだろう」---とつぶやきました。すると怒り狂って叫ばれておられた父が、何となく"筋肉が強すぎて"---の意味でご納得されたご様子で、プライドを回復されたご様子で、溜飲が下がったご様子で、落ち着かれました。その後、父はすぐに頭を切り替えて、"恥ずかしくない嘘のストーリー"---を考え始めました。そして救急車をお願いする前に、"朝のラジオ体操でバランスを崩して転けて足が折れた"---と口裏を合わせるように指示されました。
父は一気に要介護4度になりました。これは最も悪い要介護5度に次ぐ区分です。それでも父は絶対に自分の流儀を貫きました。何と筋トレを続けました。そして絶対に他人に頭を下げない気性も貫きました。そして一切ヘルパーさんを頼まずに、たった3年で要介護2度まで回復されました。その後は介護保険そのものも利用をお辞めになりました。父はお亡くなりになられるまでずっと、"絶対に自分の流儀を貫く。絶対に誰にも頭を下げない。"---これらを続けられました。
02.1 父90歳
父は90歳を迎えてもまだまだ元気でした。流石に足を折った悪影響で自転車には乗れなくなりましたが、バスや地下鉄を使って、馴染みのお店へ通って、そこでVIP待遇を受けて、ご満悦でご帰宅される、そんな生活を続けておられました。頭もまだまだ冴え渡っており、儲け話を作って、シメシメ、ニヤニヤ、とされておいででした。
僕は実家を離れて一人暮らしを始めました。なぜならば、父とうまくお付き合いするには"距離感"が大事だと考えたからです。母は既にお亡くなりでした。そこで僕は、"週に1回、母へお参りする"---そんな名目を作って、毎週土曜日に、バスと電車を乗り継いで、父の元へ通いました。まず母の遺影にご挨拶をしてから、父を実家に停めてある車に乗せて、馴染みの焼き肉屋さんへ連れ出しました。そのまま買い出しやら、その他諸々にお付き合いをして、戻ってから再度、母の遺影にご挨拶をして、そのまま車を置いて一人暮らしのワンルームに戻る。そんなルーチンを続けました。
父は最初、「親の面倒も看られんのか!!!」とお怒りでした。しかしすぐに頭を切り替えられて、「大事な物が3つある。どうやっても親子だからワシに何かあった時にはお前が動かなければならない。1つは保険証。他にも全部ここにある。1つは金。通帳も全部ここにある。1つは宝クジ。もしもワシが入院して買えなくて当たりを逃したら気が悪い(腹が立つ。ゆるせない。などの意味)。もしも入院することがあったらお前が買いに行け。だけど当たってもお前にはやらん。」---そう仰いました。父は宝くじの同じナンバーを買い続けておられました。確かにそれは親父さんの大切な物の1つでしたので、僕はやっぱり"親父さんらしいな"---と納得しました。
03.1 父92歳
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これ以降は親父さんの良いところしか書かない。
既に書かざるを得なかったダメエピソードも全て、
「そんな親父さんだからこそ、ここまでやれたんだ」
と納得できる伏線回収でなければならない。
もしも納得できる伏線回収ができなければ、元エピソードを削除する。
03.2 8月
消化管出血による輸血と入院
これで身体が弱った
03.3 9月(ヒーロー1)
大動脈解離による5日間のサバイバルと生還
これで気合いが戻った。(生還エピソードによるヒーロー化)
03.4 10月
転院による父の寂しさと生還エピソードを知らない転院先の人達
2度の転院で誰も父の生還エピソードを知らなくなった。チヤホヤされず寂しい。
03.5 11月(ヒーロー2)
胆嚢炎による敗血症と7日間のサバイバル
凄まじい気迫と根性。頭も冴え渡り仕草も最期の直前まで格好良すぎ。最期は一瞬でお亡くなりになった。
04.1 親父さん
全て母よりも上位もしくは上位がなければ同等の通夜と葬儀
父のお金は望み通り使い果たした。そして不思議な偶然の重なりと再現性。誰もが"親父さんらしいな"---と納得した。
2025.12.17
2025.12.15
2025.11.29
