見出し画像

ある気象予報士の観測記録 第23話:人によって態度を変える者の気圧配置

 正義が通じない組織への絶望と、それでも捨てきれないボイラー技士としての矜持。私の成すべき使命。それは法令違反を断ち切るための権限という最強の剣を得ることであった。


 毎年5月下旬の日曜日に、ボイラーの性能検査が行われる。検査技師は、毎年違う人が来た。B整備業者の専務は、検査前日になるといつも私に

 「今年は誰が来るの?YSさんは来ないの?」

 と聞いてきた。前もって誰が検査するのか、公的検査機関からFAXで連絡が来るからだ。

 「今年はYSさんじゃないです。別の方ですね。YSさんは2020年に一回来られただけです」

 私がYSさんではないことを伝えると、B整備業者の専務は、安心した表情を浮かべていた。YSさんは法令違反に非常に厳しいと評判の検査技師だったからだ。他の検査技師たちにも共通して感じたのは、温和で穏やかながらも、毅然とし、誠実さに満ち溢れていたこと。そんな彼らに強い憧れの念を抱いたのは私にとってボイラーの師であるFさん以来のことだった。

 この間の私は、係長昇格に結婚、年収も700万円を超え人生の絶頂期にあった。だが、自分自身の処遇に全くの不満が無い訳ではない。部下が休めば、自らの職務を遂行しながらその代わりをする。簡単には休まなかった私は、結婚休暇も取らずに責任を果たしたつもりだ。小さな不満の火種は、怒りの粒子の爆発により、憎悪の熱圏へと到達した。そこでは上司や部下との狭間で不条理の摩擦により、禍々しい負のオーロラが発光する。それは闇夜を黒色光で染めていった。

 2024年6月26日(水)、私は自らの過ちにより、左足踵骨亀裂骨折の大怪我を負った。これにより、3ヶ月に及ぶ休職により戦線離脱した。私は自身の招いた労災の責任を取り、係長の解任を申し出て、承諾された。と同時に、工場唯一の一級ボイラー技士でありながら、ボイラーの取り扱いを無資格者に代行される屈辱を味わうことになった。自己負担で5年かけて取得した一級ボイラー技士免許をないがしろにされた無念は、大怪我の痛みを凌駕するバックドラフトのような爆発的逆流となって私の臓器を駆け巡った。

 2024年12月末、工場生産部門の最高権力者であるN部長から、2025年1月より、再びボイラーを取り扱うことを命じられた。法令違反となる無資格者の業務代行を危惧したのか、会社上層部の真意は私には分からない。

 2025年1月の正月休み。休職復帰直後に注文した豪華な三段重のおせち料理を妻と二人で食べた。これほど穏やかな年明けは無いと思う。係長から一般職に降格となったが、一級ボイラー技士として、再びその剣を振るうことができる喜び。私は、鞘に納めた資格という武器、一級ボイラー技士の柄に手をかけて、無資格という闇を照らすために剣を抜いた。

 「熱の聖域であるボイラー室に入りたくば、炉筒煙管式ボイラーに触れたくば、二級ボイラー技士を取得せよ。そしてボイラー取扱作業主任者として俺の代わりを務めたくば、一級ボイラー技士を取得せよ」

 私は、言葉には出さなかったが、胸中ではいつもそう思っていた。だが、私の後を追う者は現れなかった。

 2025年1月から4月。私にとって、休職復帰から続く左足の後遺症による痛みと痺れが、私を苦しめた。段ボール工場の機械オペレーターとして、最大重量1トンに及ぶ巻取紙を押す。制限時間内に機械に取り付ける作業は、リハビリにもなると自分自身に言い聞かせて必死にやっていた。早朝からのボイラーの点火と昇圧に加えて、機械オペレーターとして休憩時間もなく動き回る。係長からの降格であっても、プライム上場の親会社に籍を置く私の年収は680万円。私が何とか耐えたのは、疼痛前線から繰り出される烈風と雷撃を、平均より高い年収という防御の盾で、凌いでいたとしか言いようがない。

 私の出向していた関連子会社の段ボール工場のこの現場では、工場内が機械の耐え難い騒音と全長100メートル近い生産ラインにより、合図応答連絡が取れるようにインカムを各作業員が装着した。だから、上司から部下への指示は、該当者でなくても耳に入る。この現場内で司令官は、私より1歳年下のM課長であった。M課長は、私に対し直接命令をくだすことはない。私が係長だった時から変わらずだ。必ず、直下のW係長を通して私に指示を与える。私に気を使うのが嫌なのか、私を避けているのか。私のことが嫌いなのか。M課長と元係長の私の間で、お互いがリスペクトし合う関係ではなくなっていた。

 2025年4月のある日、私はインカムでM課長の信じられない言葉を耳にした。

 「Y。聞こえるか。今日からお前がボイラーを停止させろ。生産工程が終了したら直ちにだ。今後はお前がボイラーを停止させるんだ。俺が教えたようにな。分かったか」

 それを聞いたY君は、躊躇することなく

 「M課長。了解です。自分がやります」

 と即答する。これを聞いて、私の消化器から食道を、あの屈辱の時と寸分違わぬポロロッカの大逆流のような胃酸の壁が、せり上がるのを察知した。私は遡上した吐き気を必死にこらえ、目元は屈辱と嗚咽の雨に滲んだ。

 私は数日前、M課長がY君を連れてボイラー室に入るのを見た。その意味を涙ながらに理解した。ボイラー技士免許を持たないM課長が、同じく免許の無いY君にボイラーの停止手順を教えたのだ。M課長は、私が労災で休職中の間、何らかの手段で、このボイラーの操作方法を知った。恐らく以前にN部長の命令で私が教えたW係長から聞いたのだろう。M課長は、この関連子会社に赴任した当初、係長だった私に

 「ボイラーを含め、分からないことを教えて下さい。お願いします」

 と挨拶をしてきた。だが、私が彼にボイラーの操作方法を教えたことは無い。M課長から私に教えを請われたことも無い。二人の間には無言の対立による冷戦が繰り広げられた。法令を重んじる私に対し、安易にボイラー室に立ち入ることが無いM課長。だが、M課長は内心思っていただろう。

 「ボタン一つで起動できる自動化されたボイラーなど誰でも運転できる。あの無能なWができるんだからな」

 機械構造に詳しいM課長なら、たかがボイラーと考えていたと言っても疑いは無い。

 また、その当時、生産部門の頂点であるN部長が言っていたのは

 「ボイラーの起動には点火を伴い、蒸気圧も上昇する。危険を伴うからボイラー技士免許のあるお前がやるのが自然だ。だが、火を消してボイラーを停止させるのは誰でも良い」

 火が消えれば危険は無い。それがN部長の考えだったようだ。しかし一級ボイラー技士の私には分かる。未燃焼として残存するガスが爆発の機会を伺っていることを。缶内の飽和水が大気解放で一気に蒸発し、1700倍に膨張する恐怖を。

 後に聞いた話では、ボイラーの燃料であるA重油の使用量を削減するため、一秒でも早くボイラーを停止させろというN部長の指示がM課長にあったらしい。それをM課長は、ボイラー取扱作業主任者の私ではなく、無資格者のY君に命じたのだ。

 「Y。お前がボイラーを停止させろ。W係長じゃ、やることが遅いからあてにするなよ。Wは要領悪いからな」

 なぜM課長は私に命じなかったのか。本人から聞いていないから分からないが、左足の後遺症により左右非対称で歩く私に、迅速な任務をさせたくなかったのだろう。確かにこの時の私は走ることが出来なかった。だが、彼は私ではなく、W係長を引き合いに出した。

 M課長には、自分の機嫌という大気において、人により異なる気圧配置が垣間見えた。従順で逆らわないW係長には、機嫌の谷の軸が西に傾き、罵声の低気圧を発生させる。変わって将来、自分の右腕として班長に推すY君には、期待と甘さを伴う移動性高気圧を呼び寄せる。そして一級ボイラー技士の剣を振りかざす私には、なるべく関わらないために無風の凪のような静けさを持って無視をした。

 私を個人的に嫌うのは構わない。無視されようと、私は資格の武器を手にして、無資格者たちと闘う覚悟がある。だが、私の目の前で無資格者の業務代行を見せつけ、法令違反を平然とやってのける会社組織の上層部に対し、怒りの電磁波が熱圏へと向かうようだった。憎悪のオーロラを発光させるために。

 2025年5月7日(水)、実家の飼い猫のルナちゃん、通称『先生』が、慢性腎臓病から一命を取り留め安堵したこの日。始業前に私の元へW係長がやって来た。彼は私に1枚のレポート用紙を渡し、こう伝えた。

 「◯◯君、M課長からの命令です。始末書をこのレポート用紙に書いて提出して下さい」

 私は訳が分からずに気が変になりそうだった。偏西風が南に蛇行しても北に戻らずに、極からの寒気が赤道に流入し続けるようだ。現職における私の赤道、つまり仕事への情熱は、上司の理不尽極まりない仕打ちにより、凍りついた。

 「何で俺が始末書なんて書かなきゃいけないんだ。俺はあんたらの言う通りにやっている。なぜなんだ!」

 私は同い年のW係長に食い下がる。彼は、優しくもM課長の後ろ盾を得たことに毅然とした態度で応じてきた。

 「◯◯君は言っていることとやっていることが違うとM課長は言っています。◯◯君が復帰してから、生産性は悪くなり、工場の収益に悪影響を及ぼしていると。だから、始末書を書くように指示されました。早目に提出をお願いします」

 そう言うと虎の威を借るW係長は、ボイラー室から立ち去った。

 私には青天の霹靂であった。私に対し沈黙を決め込むM課長が命じた業務改善命令の始末書。

 法令を遵守する私が、法に背く無資格者に対し、何を反省せよというのだ。
 私一人が工場ラインの生産性を下げているとでも言うのか。
 そうならなぜ、私が復帰した2024年9月23日から2025年5月まで、私を放置したのだ。自ら犯した労災とはいえ負傷した左足患部の後遺症による痛みと痺れ。歩くのもやっとだったあの時、足を引きずりながら数百kgの重い巻取紙を押してきた。そんな者を工場収益に関わる重要な生産設備に配置したのは誰なんだ!
 誰も俺の代わりをしようとは思わなかっただろうが。法令違反などせず、堂々とボイラーを取り扱うために二級ボイラー技士を取得しようとは誰も思わないのか!かつての俺が、師であるFさんを目指したように。
 そしてM課長。なぜあんたは部下の俺に対し、直接言ってくれないんだ!話をしてくれないんだ!なぜ、あんた自身がけなすW係長に代弁させるんだ!

 あまりの悔しさと怒りが、心の中の炉筒煙管式ボイラーの点火源となり、闘争心という燃料が供給されて憎しみの火炎を燃え上がらせた。またたく間に私の缶内は最高使用圧力へと昇圧する。まさにそれは血圧の急上昇となった。ボイラー鋼材が一気に熱影響を受けたように、私の血管壁も同様の歪みが生じた。蒸気がキャリーオーバーするような吐き気が、右回転のめまいとともに私を襲う。北半球ではありえないあの時計回りの台風が、今この時、私のマインド天気図において最大瞬間風速として解析されたのだ。

 私は、この日を境に、関連子会社の段ボール工場で働き続けることへの強烈な疑問と修復不能な叛意を抱くようになっていった。ここでは正義を貫いても報われない。今の私には資格の剣を振りかざす立場が無い。私が成すべきこと。それを考えた時、大望のオーロラが一瞬、私の脳裏に現れた。

 そのオーロラの発光先に見えたのは、あの公的検査機関の毅然と振る舞う、人によって気圧配置を変えない、公明正大なボイラーの検査技師たちの誠実な姿だった。

 (第24話に続く)

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集