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ある気象予報士の観測記録 第21話:三択問題と誤答の末路

 「ヤバい!やってしまった!」
 耐え難い激痛が左足を貫く。
 2024年6月26日(水)。私は自らの無謀な行為により左足の踵骨を亀裂骨折した。『自分に厳しすぎた』のか、それとも『自分に甘すぎた』からなのか。私という地球は絶対的支配者からの三択問題の答えを誤り、ジャイアントインパクトを引き起こし心身ともに砕け散った。

 
 2020年4月、前年に赴任したN部長の抜擢により私は一般職から班長を飛び越えて係長に昇格した。ボイラー取扱作業主任者と危険物保安監督者として排水処理設備の管理を兼務。早番のリフトマンTさんとの交代でクランプリフトも任される。私は師と仰いだFさんをついに超えることができたのだ。だが、彗星の尾をなすダストテイルがそれに追いついた時、彗星はすでに燃え尽きて消失していた。私は退職したFさんに感謝と喜びを伝えることは出来なかった。

 2021年2月、N部長はこの工場の生産体制を強化するため、M課長という機械のスペシャリストを親会社から異動させた。M課長は私の1歳年下だが、機械構造に詳しくN部長から最も信頼の厚い人だ。M課長の下に、同い年のWと私の係長二人体制となった。そんなWは、私より先に係長になっている。彼は前の上司にその温厚な性格を気に入られて昇格していた。私も彼の波風立てない人柄を仕事以上の実力と認めて班長以前からWさんと呼んでいた。

 M課長は赴任したその日、私の元に挨拶に来た。

 「ボイラーのことを含め、分からないことを教えて下さい。よろしくお願いします」

 私は、低姿勢なM課長に

 「こちらこそどうぞよろしくお願いします」

 と丁寧に返した。私より遥かに技術のあるM課長に教えを請われ、自分の実力が認められたような気がした。N部長とM課長と係長である私の3人は親会社からの出向者であり、関連子会社の人達とは待遇面で別扱い。Wは、関連子会社の生え抜きであり、私達3人とは違う中小企業の社員だ。彼は優しい性格で人当たりが良く、すぐにM課長と仲良くなっていた。

 2022年8月17日、私は47歳で結婚した。係長で他の従業員が持っていない資格を持つ。 仕事の方は責任もあり大変だったが、やりがいと結婚による幸せを噛み締め、希望の高気圧に覆われた。この頃、M課長は私に対しては気を使って丁寧に接する姿勢が変わらないが、Wには厳しく叱責することが増えていた。それを見て私は、M課長は人によって態度という気圧配置を変えていることに気付いた。Wはリーチ式フォークリフトの運転は上手いが、他に資格は無い。何を言われても逆らわないため、M課長には扱いやすい従順な下僕となっていた。彼には2019年、N部長の命令でボイラーの操作方法を、自作のマニュアルで教えた。その時彼はすでに係長。まだ私が一般職の時だ。それから3年経つが私はこのボイラーをWには指一本触れさせなかった。無免許で操作をさせる訳にはいかないのだ。だから私は、結婚休暇も取らずに休まなかった。彼とは同格の係長だが、複数の資格を持つ私は周りから一目置かれた存在になっていった。かつて憧れたボイラーの師であるFさんのように。M課長の、私とWへの態度の違いがそれを物語っていた。工場の絶対的支配者のN部長からも

 「お前とWでは実力が違いすぎる。Wには班長の力量も無い。お前が上席係長だ。お前の指揮を優先させろ」

 と告げられた。私は係長昇進の時、N部長に提示された管理職としての心得を思い出した。

A 人に甘くて自分に厳しい。
B 人に厳しく自分にも厳しい。
C 人に厳しく自分には甘い。

 N部長の模範解答は『人に厳しく自分には甘い』だ。Wは『人にも自分にも甘く』映るがゆえに周囲から舐められていた。それはN部長の三択には無い論外の思考だった。私は『人に厳しく自分にも厳しい』を信念とした。あの部長の三択の問いに対し、何が正解なのかを常に考えていた。私は彼の姿を見て難問の氷塊が溶けたような気がした。

 2023年。この年は私にとって絶頂期だった。東証プライム上場の親会社の係長。自己負担で取得した一級ボイラー技士と甲種危険物取扱者などに毎月5,000円の特殊技能手当が支給される。年収はついに高卒で700万円を超えた。毎年5月にあるボイラー性能検査に責任者として立ち会っていた。公的検査機関の検査員への憧れや敬意はあったが、その最低条件である特級ボイラー技士を取得する気も無く、現状に満足しつつあった。私は同じ係長であるWを見下し、M課長にすら何も言わせない態度を示した。この時、私はN部長の言った『人に厳しく自分に甘く』の意味が分かったような気がした。はっきりとではない。しかし、手探りで辿った濃霧の現場で、自分の理想郷がその先にあると感じていた。師のFさんをも記憶の宇宙から太陽風で吹き飛ばすような驕りが芽生えた。

 2024年。私は部下が休むと自らの職務、すなわちボイラーの取り扱いをしながら生産ラインに入ることが常態化していた。2022年からは特に新型コロナウイルス感染症の蔓延で、1週間に3人が欠員となることがあった。私はその間、朝4時半に出社しボイラーの点火と排水処理設備の点検後に生産ラインの運転準備を行い、帰宅も21時を過ぎていた。欠員した3人の中には係長のWも含まれていた。

 「管理職なのに簡単に1週間も休みやがって。お前なんか俺と同じ係長の資格などない。お前に俺と同じことは出来ない。だから俺の許可無く現場に一切の指示を出すな」

 私は猛烈な台風が引き起こす暴風雨のように怒り狂った。『人にも自分にも甘ちゃん』なWを同じ係長として認めたくなかった。N部長に班長以下と評価されて当然だ。俺が上席係長でお前は下なのだ。彼の優しい顔を見る度に私の血中気圧は上昇し、周囲に不平不満となって吹き出した。

 「お前達が休む度に俺の仕事が増えるんだぞ。朝5時前に来て帰りも21時過ぎだ。俺の苦労も考えろ。お前達に俺と同じ仕事ができるのか?」

 誰かが休む度にWや部下達に烈風を吹かせた。Wをはじめ、それを見ているM課長すら何も言わなかった。私は確信した。今の自分は『血の滲むような苦労』をしているのだ。そしてそれを正当化するのが『人に厳しく、自分には甘く』なのだということに。まさしくN部長が出した三択問題の正答を知らず知らずのうちに実践していたのだ。
 だがN部長は、私の誤りを指摘した。

 「お前が大変なのは分かるが、怒りを爆発させるな。Wをはじめ皆がお前のことを怖がっている。皆がお前のことを良く思っていないぞ。係長なら一肌脱げ。もう少し自重しろ。分かったな!」

 私はこれを聞いて愕然とした。人一倍仕事をこなしてきたにも関わらず周囲の目は驚くほど冷ややかであったのだ。N部長の指摘への不満も私の精神状態を危うくさせるに十分であった。

 「もっと周りのために動け、我慢しろ!」

 私は、『一肌脱げ』をそう解析した。

 「結婚休暇も取らずにやっているのにこれ以上何をしろと言うんだ!」

 私の気力の天秤が気圧の低い方へと傾いていた。そして、あの精神の均衡が破られた2024年6月26日(水)の朝、ボイラー室へあのWが入って来た。私は彼を見るなり

 「ここは関係者以外立ち入り禁止だ。ボイラー技士免許を持たないお前が何の用だ」

 と言い放った。彼が私のところに来る理由は決まっている。誰かが休んだのか、早退か。いずれにしろ工場内で欠員が出た時だ。

 「すみません。◯◯君、今日、早退希望者がいて……」

 私は血中気圧がチベット高気圧と太平洋高気圧の二重層に覆われたように一気に上昇した。同い年とは言え、下位係長にくん付けで呼ばれた私は怒りの点火源が血管を流れる重油に引火するようだった。

 「また欠員か!ならお前が代わりにやればいいだろうが。何でいつも俺がやらなきゃいけないんだ。そもそもお前に、くん付けで呼ばれる筋合いは無い」

 Wは震える声で私に言った。

 「すみませんでした。◯◯係長、お願いします。あの機械の操作は難しいので自分には出来ません。だからお願いします。M課長にも◯◯係長に頼めと言われました」

 自分で機械を覚える努力もせず、安易に私を頼るWに対し、

 「お前は俺がいなくなったらどうするんだ。この工場ラインが回るのか?何でもかんでも俺ばかりに大変な仕事をさせやがって。お前がやれ」

 そう言うも彼は泣きそうな表情を浮かべて

 「お願いします。自分がやったら不良品の山になります。N部長にもお前では無理だから◯◯係長に任せろと言われました。だからお願いします」

 Wは偽りの表情を見せた。なぜなら彼は懇願しているにも関わらず私に対して頭は一切下げなかった。N部長の命令という暗黒の剣を手にしたからだ。その刃から吹き出す極寒のシベリア高気圧の冷気は、私の二重層高気圧の熱気を凍りつかせた。私がいくら拒否しても、会社組織の後ろ盾を得た彼はブリザードのように襲いかかるのだ。

 「◯◯係長。N部長の命令です。だから逆らえませんよね。だからお願いします。お願いします。お願い……」

 無能な善人は私を陥れる遅効性の毒を吹雪の中から照射したのか、私にはこの時、その判断が出来なかった。

 その日、私は部下の早退により午後から通常とは異なる普段使わない機械についた。操作方法は分かっているが、担当者に比べれば勘が鈍り咄嗟の判断も甘くなる。油断は禁物と肝に銘じたつもりだった。だが、私は自分に慢心していた。

 「俺がいるからお前らは好き勝手に休める。俺は結婚休暇も取らずに働き、誰よりも工場に貢献している。血の滲むような努力をしている俺のおかげで生産ラインは平常に回るのだ」

 私は心の中で周囲の作業員に対し、勝ち誇り、優越感に浸っていた。

 「やはり俺がやれば全て上手くいくのか。何も勉強せずに資格もないお前らが何人いようとこの俺の敵ではない」

 Wのみならず部下達までも侮辱したその時、生産ラインに異変が起きた。私は直ちに高さ2mの梯子を昇り、製品の送りベルトを確認する。先工程のライン速度に自工程の機械速度が追いついていない。機械の自動制御が機能せず自工程から先工程に材料を供給できる下限速度を下回っている。下の制御盤をリセットせねば解除出来ないことを私は瞬時に察知した。機械操作の経験に乏しいWや部下達ではこの判断は無理だ。彼らなら一旦生産ラインを止めて機械を休転させただろう。生産性を落としてもそうするのがここでは正解だった。だが私は2mの梯子の上で何をすれば解除できるのかを知っていた。ゆえに安全策を取る選択肢は無かった。私が操作をした機械で休転させる訳にはいかない。己の承認欲求をスーパームーンのように満たすためにも私が失敗することは許されないのだ。

 今ここで、異常を正常に戻す方法。それは1秒以内に制御盤モニターの異常解除のリセットをすることだ。1秒を過ぎた瞬間、生産ラインの機械は空運転状態になる。そうなれば十数分の休転時間と再起動に伴う初期不良品が発生する。2mの高さから1秒以内に下の制御盤モニターに辿り着くためには梯子を降りていては間に合わない。私はそう判断を下した。

 だから私は咄嗟に飛び降りた。2mの高さから……

 私は愚かにも完璧な自分を演出するために、勇気と無謀を履き違えた。私は予想通り猛烈な踵の激痛の中で、絶対的支配者であるN部長の三択問題を誤ったことに気付いたが遅すぎた。私は己の慢心により『人に厳しく』『自分には甘く』なっていたのだ。全ては自己保身を優先したことが、『自分への甘さ』が勢力を猛烈に強めていった。

 私にとっての正答。それは『人には謙虚に』『自分には厳しく』なければならなかった。ダストテイルだった私は、これを実践していた師である彗星のFさんを追い越してなどいなかったのだ。

 急発達した靴の中の爆弾低気圧により身動きが取れずに苦悶の表情を浮かべる私に誰かが声をかけてきた。

 「◯◯君。大丈夫ですか?今、M課長を呼びます」

 工場内で私に対し、君付けで呼ぶ唯一の同い年。それは聞き覚えのあるW係長の優しい声だった。本当に心配しているのか、あるいは幽かに微笑んでいるのか……彼の口元だけが、影の中で不自然に吊り上がっていた。

彼の放つ屈辱と失意という遅効性の毒は私の全身を巡り、血中気圧をゆっくりと下げていき、ついには沈殿した。

「○○君。N部長にも梯子から飛び降りて怪我をしたことを伝えておきます。まずはM課長と病院に行って……」

 彼が今後、私のことを『係長』と呼ぶことは二度と無かった。

 (第22話に続く)  

 

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