【インターフォン】#10 創作大賞2026ミステリー小説部門 最終話
祖母は看護師だった。
母の最後の願いは、慣れ親しんだ実家で過ごすことだったという。
祖母は母を看護しながら働いていた。
いつも昼頃に出勤し、帰宅するのは二十時過ぎ。
一方、父は日中を母の付き添いにあて、十九時になると夜勤の仕事へ向かっていた。
誰かが必ず母のそばにいられるようにしていたのだ。
ただ、十九時から二十時までの一時間だけは、二人とも家を空ける時間だった。
「いつも十九時半頃にね、『大人になった陽菜ちゃんがインターフォンを押して会いに来てくれる』って、あの子が言っていたの」
祖母は静かに語った。
「最初は誰のことか分からなかったみたい。でも話していくうちに、陽菜ちゃんだと分かったんですって」
陽菜は思い出した。
――またインターフォン押してもいいですか?
そう聞いた時、吉村さんは何の迷いもなく受け入れてくれた。
「『私がお母さんだよ』って言ったら、変に思われて来てくれなくなるんじゃないかって心配してた。でも、『最初に吉村ですって名乗っていて良かった』って言ってたわ」
嬉しい時も。
辛い時も。
いつも寄り添ってくれていた吉村さん。
その人が母だったのだと知り、陽菜の涙は止まらなかった。
父も目元を拭いながら話し始める。
「にわかには信じられない話だったけどさ。母さん、本当に嬉しそうに話してたんだ」
少しだけ笑う。
「『大人になった陽菜と何を話したんだ?』って聞いても、“それは二人だけの秘密”って教えてくれなかったな」
祖母が優しく頷いた。
「だから私はね。もしかしたら、いつか本当にこんな日が来るんじゃないかと思っていたのよ」
陽菜は涙を拭って言った。
「私が1人暮らしで心細い時を支えてくれたのは母さんだったんだね」
すると父が首を横に振った。
「違うよ。陽菜だけじゃない。母さんも陽菜に支えられていたんだよ。母さんは自分の病気と闘いながら、最後までなるべく赤ちゃんの陽菜をお世話するために頑張っていた。」
陽菜は、いつも楽しく赤ちゃんの話をしていた母を思いだした。
「それは、決して簡単な事ではなかった。辛くて動けなくなる日が段々と増えてった。けれど毎日話に来る陽菜に母さんも元気をもらっていたんだよ。」
父の話を聞いて、陽菜は少しでも自分が母の支えになれてよかったと思った。
父は、母が亡くなった後しばらくして、赤ちゃんの陽菜を連れて父の実家が近い今の家へ引っ越したという。
陽菜は小さい頃に何度か祖母の家へ来ていたらしいが、記憶には残っていなかった。
「お義母さん」
父が頭を下げる。
「あの時は育児と仕事で精一杯で……。少しずつ疎遠になってしまって、すみませんでした」
祖母は首を横に振った。
そして涙を拭いながら微笑む。
「いいえ。あなたも大変だったわね」
祖母は陽菜を見る。
「陽菜ちゃんを、こんなに素敵な子に育ててくれてありがとう」
帰る頃には、空が少し赤く染まり始めていた。
祖母は玄関の外まで見送りに出てくれた。
「おばあちゃん、ありがとう。またすぐ遊びに来るね」
陽菜が言うと、祖母は嬉しそうに頷いた。
「えぇ。楽しみにしてるわ」
その声は、どこか母の声と重なって聞こえた。
陽菜たちの車が見えなくなるまで、祖母はずっと手を振ってくれていた。
そして、その隣に――。
笑顔で手を振る母の姿が見えた気がした。
陽菜も精一杯手を振り返した。
今度は、ちゃんと届くように。
「早く行くよ!」
陽菜は玄関で振り返りながら声を上げた。
「そんなに慌てなくても大丈夫だって」
大輝は苦笑しながら、大きなマザーズバッグの中身を確認している。
おむつ。
着替え。
哺乳瓶。
ミルク。
忘れ物がないか何度も確認してから、ようやく立ち上がった。
その腕の中には、生後五か月になった娘の紬がいる。
結婚して数年。
陽菜は今川陽菜となり、大輝と紬の三人で暮らしていた。
「紬が生まれて初めてみんなで集まるんだから、張り切るでしょ」
陽菜が笑うと、大輝も優しく笑った。
「まぁ確かにそうだね」
車は田舎道を走る。
窓の外には青々とした田んぼが広がっていた。
あの日、初めて訪れた時と変わらない景色だ。
けれど、陽菜の心はあの頃とは違っていた。
仕事に追われ、不安ばかり抱えていた新人時代。
一人暮らしの寂しさを抱えながら、毎日のようにホームセンターへ通っていた自分が懐かしい。
気が付けば、あれから何年も経っていた。
祖母の家へ近づくにつれ、陽菜の頬は自然と緩んでいく。
家の前に到着すると、見慣れた人影が見えた。
「父さん?」
父は家の前を落ち着きなく歩いていた。
車が停まるのを見るなり、すぐに駆け寄ってくる。
「父さん、早かったね」
「お義父さん、ご無沙汰しています」
大輝が頭を下げた。
「大輝くん、運転お疲れさま。疲れただろ。」
父はそう言いながらも、視線は後部座席にチャイルドシートで眠っている紬へ釘付けになっている。
「おー、紬ちゃん! よく来たなー!」
父は満面の笑みで紬を抱き上げた。
「娘の私は?」
陽菜が呆れたように言う。
父は一瞬だけこちらを見て軽く笑いながら言った。
「陽菜もよく来たな」
それだけ言うと、すぐに紬へ視線を戻した。
「はいはい」
陽菜は苦笑した。
孫は可愛いとは聞いていたが、本当にその通りらしい。
家の中へ入ると、祖母が待っていた。
「あらあら、来たのね」
祖母はすっかり歳を重ねていたが、笑顔は昔のままだった。
「ひいおばあちゃんですよー」
父が紬に話しかける。
祖母は目を細めた。
「大きくなったわねぇ」
「この前会ったばかりじゃん。まだ五か月だよ」
陽菜が笑う。
「それでも大きくなったのよ」
祖母は優しく言った。
その言葉に、陽菜は少しだけ胸が熱くなった。
昔、自分にも同じような言葉を向けてくれていたのだろうか。
居間には素麺や天ぷらが並んでいた。
みんなで食卓を囲み、賑やかに食事をする。
食後には陽菜がコーヒーを淹れた。
父はわざわざ、あのマグカップを持ってきていた。
「まだ使ってたんだ!ってかわざわざ持ってきたの?」
笑いながら陽菜が言うと
「これで飲むと美味しいんだよな」
父は少し照れくさそうに言った。
「名前まで入ってるんだから大切に使わなくちゃな」
陽菜は思わず笑った。
あの時の二回目の給料で買ったプレゼントだった。
今では少し色褪せているが、大切に使われていることが嬉しかった。
賑やかな団欒の時間はあっという間に過ぎていく。
ふと陽菜は思い出した。
「あっ」
立ち上がり、車へ向かう。
そして戻ってきた時、その手には赤いカーネーションの花束があった。
花瓶へ生け、そっとテーブルの上へ置く。
赤い花が部屋を明るく彩った。
陽菜は母の写真へ目を向ける。
写真の中の母は、あの日と変わらない優しい笑顔を浮かべていた。
陽菜はいつかの母の言葉を思い出していた。
『娘が大人になって、いつか私にプレゼントしたいって思ってくれる子になってくれたら、それだけで幸せだと思うわ』
「母さん。今年の花、気に入ってくれたかな」
そう呟いた、その時だった。
祖母の膝の上にいた紬が、何もない空間へ向かって手を伸ばした。
「キャッキャッ」
楽しそうな笑い声が響く。
まるで誰かと遊んでいるようだった。
「どうしたの?」
陽菜が声を掛けても、紬は嬉しそうに笑い続けている。
父と祖母も不思議そうにだけど微笑ましくその様子を見つめた。
その時、窓から柔らかな風が吹き込んだ。
テーブルの上のカーネーションが、そっと揺れる。
陽菜はその花を見つめた。
不思議と懐かしい気持ちになる。
そして、少しだけ温かい気持ちにもなった。
もしかしたら。
本当にもしかしたら。
母は今でも、どこかで見守ってくれているのかもしれない。
陽菜は静かに微笑んだ。
かつて母が自分を想ってくれていたように。
自分もまた、紬を想いながら生きていく。
その想いはきっと、これから先も繋がっていくのだろう。
紬の楽しそうな笑い声が、いつまでも部屋の中に響いていた。
