河童抄
「笑つてゐる顔は、なかなかないな」
「まあ、さう簡単には見つからないだらう。しかし、可怪しいな。一葉位はあると思つたんだがね……」
「また最初から捲つてみるか」
分厚い写真の束は七つ。大きさも不揃ひで、それらを留めた紐も擦り切れる手前である。総てを仔細に調べたつもりだが、葬儀の為の故人の笑ふ顔はまだ発見できてはゐない。彼是二時間は経つ。淹れられた茶は微温い。
「さて、何処へやつたものか。埒が明かない」
K君は立ち上がり、厠へ行くと言ひ残し、縁側を北へ向かつた。
私は故人を、──A氏のことを慕つてゐた。尊敬してゐた。が、実際に逢つてみて、その人間性には複雑な気持がしたものである。亡くなるまで、食事に招かれたことが数度あつた。或は観劇に、それから旅行にと連れ出され、おそらく可愛がつて貰つたものだと思ふ。
しかし、食事といへば、卓は屏風を隔てて。観劇は別席で。旅行は違ふ宿、と奇妙なものだつた。これでは共に行動する意味を解せといふ方が無理だらう。折からのA氏の神経衰弱を鑑みても、仰ぎ見ることと訝しむことはまだ半々である。……
「何歳だつたかね? 」
K君が戻つて来た。何を訊いてゐるのか。
「なに? 」
「Aさんの年齢だよ。いくつだつたかな? 」
さういへば、何歳で亡くなつたのか。
「どうだつたかな。ええと」
……三十、いや、……三十三か。違ふな。ああ、三十五ぢやないか。
「三十五だよ、確か」
「……どうも忘れがちだね。Aさんに怒られるな」
K君は取り繕つたが、私も即座に返答できず、居心地の悪さを感じた。
「ところで、細君の話ではね。Aさんは家でも笑はない人だつたさうだよ」
K君は厠の序でに目的の写真の見つからないことを細君に相談してきたらしい。
「どうするかな……」
また写真の束と一人で格闘を始めたK君は少し機嫌が悪くなつたやうだつた。
縁側に蜘蛛が糸を垂らして、ぶらぶらと湿つた風に揺れた。夕陽を浴びて橙色の糸になつた。
私はふいにA氏の強迫観念に就ての話を記憶から掬ひ上げた。
「Aさんは歯の悩みがあつたね」
「歯の悩み? 」
K君は怪訝な顔を浮かべた。
「いや、……その話は知らないな。さうか。歯がね……」
それぎり、K君は黙り込んだ。私もまた写真の束を漁りながら、沈みつつある陽を恨めしく感じた。
蜘蛛は巣作りを遂げ、幾何学模様の中心に獲物を待ち構へてゐた。糸の色は既に黒か白か判別出来ない。のみならずK君の姿も輪郭だけが、ぼうつと浮かぶ。
A氏の細君が新しく茶を持つてきてくれた。唇と喉に火傷を起こし、身体の中に入つて行く。
細君は灯りを点けた。
……私は一体いつ、これを見つけたのか解らなかつた。私の手の中には写真があつた。誰かと談笑中のA氏の横顔の写真だ。見事に笑つてゐた。これは初めて見る顔だ。確かに気の毒に感じる位、歯並びが良くない。眺めてゐるうち、なにか私の知らぬ全くの赤の他人のやうに思へてきた。
「K君、ご覧なさい。ここに……」
しかし、私は言葉をそこで切り、飲み込んだ。捜してゐた写真を発見したことを、つひにK君には伝へなかつた。
A氏は矢張り笑顔のないA氏のままで善いのである。(昭和二年八月・未定稿)
