北村神社 野口六郎左衛門 (大森東) #232
※野口六郎左衛門という名は
代々受け継がれており、
本稿に登場する
六郎左衛門は、
特定の一人に
限るものではありません。
また、
本記事にはOtapedia
独自の推測や解釈が
含まれています。
※本記事は
Otapedia公式note(https://note.com/fine_rat5784)のみで
公開しています。
無断転載・改変・商用利用を禁止します。
© Otapedia
北村神社
(大森中3-17-15)
大森の海苔漁業
創始者とされる
野口六郎左衛門を
祀る神社である。
今回は
この神社が
建てられるまでに、
どのような
歴史があったのかを
紐解いていきます。
神社の建立
この神社は、
大森堀之内の
海苔養殖業者によって、
1967年 (昭和42年) 9月に
建立された。
海苔文化を支えてきた
地域の人々が、
六郎左衛門を祀るために
建てた神社である。

大森の堀之内という土地
堀之内は、
徳川時代以前からの地名であり、
地域信仰の拠点として
三輪神社が
祀られてきた土地でもある。
その堀之内に、
大森海苔漁業の
創始者でもある
野口六郎左衛門を祀る
北村神社が建立されたことは、
地域の記憶と信仰が
海苔文化と結びついていた証
と言える。

右側の小さなお社が北村神社
北村神社由来(石碑の内容)
當社は大森海苔養殖業に
特に功績のあった
北村石見守 (いわみのかみ) を祀り
當地の海苔養殖業者の
崇敬するところとなっております。
本場浅草海苔の中心となった
當社の海苔養殖業は
今より二百八十有余年前の
天和二年當大森村字堀之内の
野口六郎左衛門が有志と計り
幕府より海苔濵建の免許を請け
『※石碑では「濵」の上が竹冠の異体字』
その基礎が確立されたのでありますが
その後文政三年九月二十二日
境界紛争から海苔濵建場を
全面的に改めるという
海苔養殖史上最悪の事態を
招いたのであります
このような危機に際し
當大森村の窮状を理解し
海苔養殖業継續の
決断を与えたのが
北村石見守であり
村民の崇敬するところと
なったのであります
かくてその盡力を徳とし
永く祀らうと同氏の烏帽子
(大東亜戦争で焼失)
を請い受け
神社を建立したのが
當社の起源であります
爾耒例年九月一日を
建入祭と定め
同氏の徳を崇め
海苔の豊作を祈願し
今日に至っております
尚 現在の社殿は
昭和三十六年九月
堀之内地内の海苔業者と
有志の手により
再建されたものであります
「行く水や何にとヾまる海苔の味」
『室井其角の句を引用』
昭和四十二年九月一日
※『』はOtapediaによる注釈
宝暦の紛争
上記の文政三年までの話は
「宝暦の紛争」に遡る。
当時海苔漁業に関して
後発だった糀谷村の村民と
北大森村・東大森村・西大森村
三村との間で
境界争いが勃発した。
しかし幕府は、
「海苔養殖業者が増えたほうが
多く年貢 (税) を取れるのではないか」
と考え、
糀谷村の言い分を通した。
大森村側は、
勘定奉行大橋親義の決定に
異言を唱えられなかったとも
伝えられている。
六郎左衛門の苦悩
長く続いた
大森三村と糀谷の紛争に、
村々は疲弊していた。
その後も
境界をめぐる争いは絶えず、
六郎左衛門は
何度も訴えを行うが
却下されてしまう。
文政三年 境界紛争のの決着
1822年 (文政3年) 9月22日
幕府は
この境界紛争を
不届きであるとして
北大森村の総代であった
六郎左衛門を追放処分とした。
追放に見かけられた六郎左衛門
六郎左衛門は
生活に困窮し、
粗末な身なりで
困窮した生活を
送ったと伝えられる。
彼を知る代官所の役人が
調布村近辺で見かけたが、
あまりにも哀れだったので、
声をかけられなかったという
逸話も残っている。
六郎左衛門の最期
墓誌に刻まれた
「萬光童子 文政五年四月五日」
の記録から判断すると、
追放から
およそ1年半後に
この世を去ったと考えられる。
その戒名に、
かつての名はないが、
萬光童子
「あまねく照らす光」
と刻まれた日付が、
彼の生前の功績と
最期を伝えている。
萬光童子と結論付けた理由
通常「童子」という戒名は、
子どもに付けるものですが、
「社会的な身分を剥奪された者」や
「世俗から切り離された清らかな魂」
人物に対して用いられることもあります。
紛争の決着後に
野口家でなくなった方の戒名
・文政5年(童子)
・安政2年(居士)
・明治5年(信士)
①罪人に
キチンとした戒名が
付けられることは考えにくい。
罪人として追放された
六郎左衛門には
童子が精一杯の形。
②文政3年9月22日
追放年から数えて
・文政5年(1年半後)
・安政2年(33年後)
・明治5年(50年後)
身分や住居を失ったまま
長い期間生き延びるのは
極めて困難であること。
以上の理由から
Otapediaでは
「萬光童子」を
追放された六郎左衛門と
推測します。
村人の六郎左衛門への想い
長い紛争の中で
海苔場を守り抜いた
六郎左衛門の姿は、
村人にとって忘れがたい
存在として刻まれていた。
しかし、
彼は “罪人” として
処罰された身でもあった。
公には祀れぬ “罪人” のままに
しておくことはできない——
そう感じた村人たちは、
彼を静かに崇め祀り、
いつでも戻れる場所を用意した。
「北村」という名の推測
「野口神社」や
「堀之内神社」と名乗れば、
“罪人を祀る” 神社という形が
表に立ってしまう。
「北村神社」になった
理由については、
①北大森村
(当時『北村』と呼ばれた地域)
が存在した。
Otapediaでは
①を北村となった理由として
支持します。
村人たちは、
「北村」の名を
冠することで、
六郎左衛門を祀る形を
整えた可能性がある。
追放という
処分を受けた人物を
公に顕彰することは
難しかったと考えれば、
地名を冠するという選択は、
当時の状況の中で
自然な方法だったのかもしれない。
北村神社の存在は、
六郎左衛門にとって
「帰る場所」であったと
解釈することもできる。
この「北村」という
名に関する解釈は、
Otapedia独自の推測によるものです。
神と崇められた六郎左衛門
村人たちは
六郎左衛門を
『北村様』と呼び、
その名はやがて
「北村石見守」という
“称号” として定着していった。
石見守とは、
公的な官職名ではなく、
村が六郎左衛門に与えた
名誉称号というのが、
史実から推測される
事実なのである。
※現存史料では
任官記録は確認できないため。
Otapediaとの共鳴
手前味噌ではあるが
私の活動に酷似している。
こうした
名もなき人々の営みに
体温を与えることこそ、
Otapediaの活動である。
六郎左衛門の眠る場所
(大森中2-17-5)
墓所は
大森中にある密乗院である。
この地から
六郎左衛門は
大森の海苔養殖を
見守っていたのだろう。

密乗院
六郎左衛門 その他の功績
「浅草の紙漉き」
の技術を応用し、
現在の「板海苔」の製法
「海苔ひき」を
考案したことでも
知られている。
ただし、
どの時代の
六郎左衛門に該当するかは
史料上不明瞭のため、
Otapediaでは
特定しない。
最後に
Otapediaは
以前
野口六郎左衛門を「大田区裏名誉区民」
として顕彰しました。
改めて
大森海苔漁業の始祖であり、
文政の紛争を収め、
村民より
北村石見守と崇められた
彼を
Otapedia最上級の称号である
「大田区特別顕彰区民」
として改めて登録します。
また、
野口六郎左衛門が
亡くなったとされる
4月5日を
「大田区記憶の日」
として登録します。
大田区の記憶を呼び起こす
「Otapedia」の活動
私たちは
その“名を失いかけたものたち”に、
もう一度まなざしを向け、
記憶の岸辺に呼び戻す営みです。
彼らの活動や
痕跡は消えても、
地域に遺した軌跡を
未来へと伝えていきます。
これらの呼称は
「Otapedia独自の呼称」であり
「大田区公式の認定ではありません」。

出典
1.Wikipedia 三輪神社(大田区大森中)
2.大田区大森の海苔業発展に貢献したとされる北村石見守という謎の人物
3.Wikipedia 密乗院
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