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蒲田菖蒲園 「蒲田の父」鈴木卯兵衛が咲かせた蒲田の未来【後編】(蒲田東特別出張所) #36

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8.【国際編:1912年ポトマック桜寄贈】

 鈴木卯兵衛は、
 ワシントンD.C.のポトマック河畔に贈られた
 6,000本を超える桜の苗木の準備において、
 横浜植木商会の一員として
 中心的な役割を担いました。
 彼の尽力は、単なる植物の輸出に留まらず、
 日米間の国際親善と友好の象徴となる
 歴史的事業を支えたものです。
 この「桜外交」は、後の両国関係において
 文化的な架け橋として語り継がれています。
 ※この桜はニューヨークワシントンに送られ
  ワシントンに送られたのは
  3,300本とされています。


9.【蒲田菖蒲園の歴史ー発展の泉となった園】

 1903年 (明治36年) 3月
  横浜植木商会は、
  輸出目的の花菖蒲の栽培・育成と
  品種改良をさらに推し進めるため、
  手狭となった磯子菖蒲園に代わる
  新たな拠点を求めていました。
  
  蒲田の地が選ばれた理由として
  下記の理由が挙げられます。
  
  1.蒲田の名の通り、湿地帯花卉生産
   適していたこと[出典12]
  2.呑川から花を育てるための
   水の供給が可能だったこと
  3.一面の田園地帯で、
   広大な土地が確保できたこと [出典10]
  4.近隣には、蒲田梅屋敷もあり、
   花作りが盛ん
   腕のいい職人が多くいたこと
  5.横浜の古い生花商の多くが
   蒲田出身が多かったこと
  6.日本橋以北の市場では、
   主に向島百花園から
   花を購入しており、
   
横浜植木としては蒲田が、
   新たな市場開拓が期待できると
   考えられたこと。[出典12]
    
  こうして地元民の協力を得て、
  現在の蒲田小学校付近
  「蒲田菖蒲園」を開園しました。
  およそ3万坪 (約9万9,000㎡・約9.9ha) 
  にも及ぶ広大なものでした。[出典12]

  なお、場長には
  卯兵衛弟平蔵が就任しました。[出典12]

  ※一部文献には、1万坪の表記や
   1902年開園説も見られますが、
   本稿では横浜植木株式会社の発表に
   準拠しています。

  園内には菖蒲をはじめ、牡丹や藤など、
  四季折々の色鮮やかな花々が
  咲き誇っていました。
  さらに、水鳥や猿も飼育されるなど、
  自然とふれあえる憩いの場として
  整備されていました。

  この美しい庭園は、
  東京近郊の新たな観光地として
  大きな話題を呼び、
  蒲田梅屋敷とともに、
  多くの見物客が訪れる
  大人気のスポットとなりました。

  鉄道院が発行した
  当時のガイドブックには、
  堀切村の小高園向島百花園とともに
  蒲田菖蒲園も記載されるほどでした。
   [出典4]
  
  この人出を整理するために
  わずかな入場料を取ることにしました
   ・入園料 大人5銭こども3銭 
     
[出典4 12]

  近隣住民はもちろんのこと、
  遠方の客も数多く訪れていました。
  中には、二頭立ての馬車で訪れるような
  裕福な方もいました。
  また、新橋あたりの美しい芸者さんたちや、
  自動車に乗った外国人の姿もありました。
  当時、自動車は非常に珍しく、
  自動車に乗るのは外国人か
  総理大臣くらいだったそうで、
  子供たちは外国人に戸惑いながらも、
  自動車の珍しさのあまり、
  その周りを囲んでいたそうです。[出典4]

  園内には、茶店すし屋おでん屋などが、
  出店するまでになりました。[出典12]

蒲田菖蒲園 絵ハガキ
大田区立郷土博物館 提供

  その広大な敷地は、区道11号多摩堤通りの
  「蒲田5丁目交差点」を入口とし、
  南は大屋敷通りを一帯に、
     (→上記交差点から右下に伸びる道)
  東は京浜急行駅付近まで、  
  北は薭田神社付近までと
  広がっていました。  [出典4]

本図は、Google マップを基に、
当時の蒲田菖蒲園の広大な敷地(約3万坪)について、
文献資料(出典4など)の記述や
関連情報とを照らし合わせて、
筆者が推定した範囲を示しています。
実際の広さとは異なる場合があります。
蒲田菖蒲園の絵葉書
(やまだくんのせかい [出典5])

10.【蒲田駅開業にまつわるお話】

  1896年 (明治29年) 
  蒲田村と周辺の6か村が連合し、
  大森駅と川崎駅の間に
  新駅を設けてほしいと、
  請願書を逓信大臣に提出します。
  しかし、この時は残念ながら
  認可が下りませんでした。[出典8]

  ※この請願活動に関して、
   月村惣左衛門が具体的に
   「携わった」ことを示す
   記録は見当たりませんでした。
   しかし彼は、
   1889年 (明治22年) から
   蒲田村村長を務めており、
   その職務上何らかの形で、
   活動に関わっていたものと考えられます。

 1901年 (明治34年) 2月1日
  京浜電気鉄道開通
  蒲田駅 (現京急蒲田駅)

  存在していたものの、
  「東海道線 (現JR)」 に
  蒲田駅はありませんでした。

 1903年 (明治36年) 
  蒲田菖蒲園の盛況ぶりを
  目の当たりにした、
  蒲田村村長の月村惣左衛門は、
  7年前に叶わなかった
  念願の実現に向け、
  来場者の利便性向上と共に、
  何より地元住民の地域発展への
  熱い願いを叶えるため、
  陳情書を提出するなど、
  蒲田駅設置のために奔走しました。
  そして、

 1904年 (明治37年) 4月11日 蒲田駅開業
  惣左衛門の尽力によって、
  村民の念願であった駅の開業が
  ようやく実現しました。
  
  ※月村惣左衛門(1848-1916)
   蒲田地区の名家の生まれの惣左衛門は、
   伝説によって有名な月村宗観
   子孫であった。

   1871年 (明治4年) 品川県第二区副区長
   1874年 (明治7年) 御園村村長
   1889年 (明治22年) 蒲田村初代村長
   1916年 (大正5年) 蒲田町町長在職のまま
           69歳で亡くなる。
   1922年 (大正11年) 功績を称え
      御園神社頌徳碑を建立される。
         2025年11月23日加筆

 1906年(明治39年)
  
この頃には、蒲田菖蒲園の存在も、
  広く知られるようになったため、
  近傍地図に「菖蒲園」の表記が
  確認されるようになりました。
   [出典9]

菖蒲園の上の○印は村役場
(出典 小川裕夫 よくある農村だった
「蒲田」を繁華街に大変身させたのは
「ショウブの花」だった! )

 1907年 (明治40年) 4月1日
  蒲田小学校隣接地新築移転しました。
   (蒲田672番地、6教室、総工費4,300円)
  [出典11]


11.【駅が街を変えた ― 蒲田駅誕生と企業の進出】

  蒲田駅の開業により、
  この地域への
  新たな企業の流入を促進しました。
 1914年 (大正3年)
  黒澤商店
  国産タイプライターの生産工場を開設
  これは、蒲田における
  最初の工業系企業の本格進出例
  されています。

[出典6]

 1920年 (大正9年)  
  旧中村化學研究所の跡地に
  9,000坪の広さの松竹蒲田撮影所が開設

出典 大田区立郷土博物館

  同年隣接地に
  「高砂香料」(現「高砂香料工業」)も
  設立されるなど、
  その後の蒲田は、
  産業・文化・行楽を備えた
  多層的な都市へと
  発展していきました。


12.【時系列まとめ】

 1890 横浜植木商会 創業
 1897 磯子菖蒲園 開園
 1903 蒲田菖蒲園 開園
 1903 磯子菖蒲園 閉園
 1904 蒲田駅 開業
 1906 地図に“菖蒲園”の表記
 1907 蒲田小学校が隣接地に移転
 1912 ポトマック川桜寄贈 (桜外交)
 1914 以降 黒澤商店進出を機に
     企業の進出ラッシュ
 1916 月村惣左衛門町長在職のまま
      亡くなる 69歳
 1920 松竹蒲田撮影所・高砂香料進出


13.【蒲田菖蒲園の辿った軌跡】

 1920年 (大正9年)
  松竹蒲田撮影所
女優たちの
  手踊りなどの余興が園内で演じられ、
  来園客を喜ばせました。[出典4]
 1921年 (大正10年) 3月
  18年間続いた蒲田菖蒲園は、
  多くのファンに惜しまれつつ
  需要低迷のため閉園しました。
  生産品目の役目を終えたことが主因です。
  [出典12]

  その菖蒲は、花月園の対抗として造られた、
  三笠園に植栽され、
  新たな憩いの場となったそうです.[出典12]
  
 跡地
  1931年 (昭和6年) 
   蒲田町役場
北蒲田地区より
   菖蒲園跡地に移転 [出典13] ブレ
           20250721加筆

  1937年 (昭和12年) 
   敷地の一部に
   蒲田区役所の新庁舎が建ちました。
   戦後は「大田区立蒲田小学校」の
   敷地に繰り入れられました。[出典4]

  ※この庁舎移転の背景には、
   火災による旧庁舎の焼失がありました。
               [出典15]
   
  蒲田町役場燒く
   不完全な煙突から

   17日午前10時06分
   府下蒲田町新宿77
   蒲田町役場2階控室の壁と
   羽目板間から発火
    (中略) 
   同10時40分鎮火した。
   けが人はなく
   原因はストーブの煙突の
   不完全かららしく
   蒲田署にて調査中である。
    ほぼ原文のまま [出典16]
        2025年9月7日加筆

   この火災を受け新築の際
   木造・コンクリート造かの議論の末
   1931年 (昭和6年) 12月29日
   蒲田新宿町359番地に新築移転した。
            [出典15]
         2025年9月7日加筆
    


14.【考察:文献間の「ブレ」の背景】

  1903年 (明治36年) 開業
  1907年 (明治40年) 隣接地に小学校が移転
   大正期まで来園客の多かった園の近くに
   小学校が移転してきたことに
   違和感を感じます。
   不特定多数の来園客による
   治安面での問題が発生する
   可能性もあります。

   すでに明治の頃から、
   何らかの理由で
   園の維持管理が困難になり、
   敷地の縮小を
   余儀なくされたのではないかと考えます。
   あえてそのような場所に
   小学校を移転したのは
   児童数の増加による
   校舎の増設を見越して、
   移転してきた可能性も考えられます。
  
   この辺りが、
   一部文献間の「ブレ」を生む
   原因の一端となっているかもしれません。


15.【菖蒲園跡地はいま】

  かつて多くの人々で賑わった
  蒲田菖蒲園の跡地は、
  現在も大田区立蒲田小学校が建っています。
  その近くの呑川には「あやめ橋」が架かり、
  橋の欄干にあしらわれた菖蒲の模様が、
  花々に彩られた往時の情景を
  そっと伝えてくれます。
  また、近くの交差点の名前も、
  当時を偲ばせるものとなっています。
  今もなお蒲田菖蒲園の面影を
  静かに伝えるランドマークです。

1907年 (明治40年)
この地に移転してきた蒲田小学校
一部1906年明治39年の記述もあり
創立146年の歴史があります [出典11]
奇跡のカットが撮影できました
京急バスの「あやめ橋」バス停
あやめ橋交差点

16.【菖蒲園が咲かせた蒲田の未来】

  磯子菖蒲園
  手狭だったことをきっかけに、
  まだ田園が広がるばかりだった
  蒲田の地に目が向けられ、
  蒲田菖蒲園を開園しました。
  園はたちまち評判を呼び、
  各地から観光客が押し寄せ、
  園内は大いに賑わいました。
  
  こうした人々の利便を図るべく、
  当時の蒲田村村長月村惣左衛門
  立ち上がりました。
  彼の並々ならぬ尽力によって、
  蒲田駅開業しました。
  
  駅の開業によって、都心から近さに加え、
  交通アクセスの良さも相まって、
  多くの企業が続々と、
  蒲田に進出するようになりました。

  蒲田菖蒲園の開園期間は、
  わずか10年ほどと短命ではありましたが、
  その存在は「蒲田という街の礎」となり、
  「蒲田駅の開業」へと繋がっていったのです。
  だからこそ、菖蒲園を開園した
  「鈴木卯兵衛」は、
  今日の蒲田の発展において
  欠かせない人物です。
  
  私は、
  自身が管理する「Otapedia」において、
  この歴史的な事実をここに記録します。

  蒲田菖蒲園は、
  まさに**「蒲田発展の園」**であった
  と言えるでしょう。

  鈴木卯兵衛は、
  菖蒲園の集客力と駅誘致という
  文化と経済の起爆剤
  蒲田にもたらしました。
  これにより、
  蒲田の土地の価値は飛躍的に高まり、
  工場や住宅地としての開発が
  急速に進む
という、
  現代の蒲田の発展の礎を築いたのです。


  鈴木卯兵衛氏
  「蒲田の父」と称し、
  
さらに「大田区準特別顕彰区民
  として登録します。

  蒲田菖蒲園
  「大田区未顕彰の地域遺産」、
  蒲田駅開業に並々ならぬ尽力をされた
  月村惣左衛門氏を「蒲田駅の父」とし、
  またこの一大事業を手掛け、
  蒲田の発展の礎を築いた
  横浜植木株式会社
  
**"蒲田駅を生んだ園芸師たち"**を
  「大田区陰の功労者」として、
  登録したいと思います。
  
  本記事を通じて、
  鈴木卯兵衛の名とその偉大な功績が、
  今後も末永く記憶されることを
  心より願っております。

  大田区の記憶を呼び起こす
  「Otapedia」の活動

  私たちは
  その“名を失いかけたものたち”に、
  もう一度まなざしを向け、
  記憶の岸辺に呼び戻す営みです。

  彼らの活動や
  痕跡は消えても、
  地域に遺した軌跡
  未来へと伝えていきます。

  これらの呼称は
  「Otapedia独自の呼称」であり
  「大田区公式の認定ではありません」。

初代社長 鈴木卯兵衛
百花繚乱「横浜植木物語」
~花と緑で世界を結んだ先駆者の歩みを追憶~
より転載

© かえる11号 (Otapedia) 2025。
無断転載・営利利用を固く禁じます。
本記事は、地域の記憶を未来に残すための
デジタルアーカイブです。
引用の際は出典明示と事前連絡をお願いします。

【出典】 
  1 『人事興信録』初版(明治36年4月発行)
       2 小原 敬:神奈川県植物研究史補遺(2)
       3 横浜植木株式会社 「企業情報ページ」 
       4 かまにし 第20号 平成18年6月1日
       5 やまだくんのせかい (ウェブサイト)
  6 クロサワグループ 「沿革」 
  7 松竹 (企業・関連史料)
  8 大田区立図書館 所蔵資料
  9 小川裕夫 よくある農村だった 「蒲田」を繁華街に大変身させたのは
  「ショウブの花」だった! 

  10  三井トラスト不動産 大森・蒲田 4:時代の先端をゆく蒲田
  11 大田区小中学校ホームページ 蒲田小学校 沿革|大田区教育委員会
  12 横浜植木株式会社 ご担当者様への取材に基づく 2025年7月3日
  13 シリーズ調べる 蒲田の菖蒲園 大田区立蒲田図書館
  14 大田区立郷土博物館
  15 蒲田町史
  16 東京朝日新聞 昭和5年2月
 ヘッダー写真:AIに生成による
  蒲田菖蒲園 大田区立郷土博物館 提供


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