接吻

どういうアルゴリズムなのか分からないが、youtubeを流しながら家事をしていたら、 original love の「接吻」が流れて来て思わず洗い物の手を止めて聞き入ってしまった。

長く甘い口づけを交わす
深く果てしなくあなたを知りたい…
焼けるような戯れの後に 
永遠に一人でいることを知る…

随分と前に流行った歌詞の断片に聞き覚えがあり、流行歌ではなく、古典的名曲となった今でも新鮮に聞こえる。

わたしは、キスや人の体に触るのが好きだ。
そして、キスが上手で、触り方も上手だ。容姿や普段の態度からは想像がつかないねとよく言われる。
サム・ガルバルスキ監督の「やわらかい手」の、マリアンヌ・フェイスフルの如く、一種の才能だと思っている。
ただ、病気の孫はいないので、この才能を金に換える機会は無い。

夫は、むやみに身体に触られることが嫌いな人だった。
持って生まれた性質もあるだろうが、ヨットマンとして海外で暮らした時間も長く、ボディータッチは欧米の人たちは非常に無礼なことと捉えるんだよとよく言っていた。何よりも、男の沽券に関わるじゃないかという昭和の人で、キスもそれほど好きな人ではなかった。

触れもみで、接吻したことがある。
お互い色々な事情を抱え、未練を残して別れた男と何年かぶりに、それぞれの恋人を連れて偶然同じレストランの近い席に座ったのだ。
視線は合ったが、特別挨拶もせず、わたしは私の食事を楽しんでいたら、あることに気が付いた。
わたしが白ワインを飲むと、タイミングを合わせ彼も白ワインを口にするのだ。赤ワインを飲むと同時に、彼もまた赤ワインのグラスに口をつける。
食後にアルマニャックを頼むと、まだ食事の途中だった彼が同じ酒を頼んだ。
彼のテーブルにグラスが置かれたのを確認してから、最後の接吻を交わすように同じ酒を同じタイミングで飲み交わした。
その強い酒の作用ではなく、感情でしびれる様に酔った。
触れてはいないけれども、彼の柔らかい懐かしい唇を楽しんだ。

脳は臓器であり、物理的な物質であるので物理法則に従う。なら、脳から生まれる感情も物理法則に則れば良いのにと思うが、キスをするされると言うフィジカルな行動によって引き起こされる感情に好悪があることは、不思議に思える。

遊女という体を売ることが生業の女たちにとり、接吻を拒否することは、尊厳を守るための大切な手段だった。
体は大勢の男たちに日々売っているけれども、貴方だけに接吻を許したと言う特別な証とみなされた。
遊女が客への愛情を示す究極の行為の一つに「切指(きりゆび)」がある。自分の小指を切断して客に渡すという壮絶なものである。
だが、自分の小指は一回しか切れないので、小指を人から買って何度も切指をする商売が遊郭にはあったなどと読むと、遊女の接吻商売もあったのだろうなと思うが、それでも、この愛してしまった男とだけはという心底の口づけはあったのだろう。

夫は、酒を嗜むことが生きる中で最も好きな事柄の一つであった。
強い拘りと、知識、経験を持ち、浅草の水口食堂から、パリのグランメゾンまで、ありとあらゆる場面で、「自分は、この場で酒を飲むことがふさわしい人間なのだ」という態度を取ることが出来る人だった。
そんな彼の末期の水が、コンビニで買った安酒になってしまった。
彼の体が運ばれた東京の西の果ての斎場まで大荷物を持ち、初めての電車に乗って辿り着けたのが不思議なぐらい彼の死に混乱していた私は、最上の古いウィスキーを用意していたのに家に忘れてしまったのだ。
結局、東村山の小さなコンビニでかろうじて売っていたデュワーズの小瓶を手に入れ、ごめんねえ、満足に死に水を取ることさえままならない至らない妻でと、彼の口を湿らせて、泣きながら口づけした。
あんなに酒を愛した彼との最期の接吻は、安酒の味だ。

「接吻」と書けば、クリムトのあの黄金に包まれた官能的な絵画を思い出す人も多かろう。夫ともベルヴェデーレ美術館 で見た。
余りにも有名すぎる絵画は、実際に目にする機会があると、期待と妄想が膨らみ過ぎていてがっかりすることがあるが、クリムトの接吻はまごうことなき名画であった。
夫とわたしの最後の接吻は、美しくはない。
病に衰え果てた70過ぎの棺の中の老人と、泣きはらした目で取り乱しやつれた中年女性。それが現実である。
だが、わたしにとり、あれ以上の愛の接吻は、今までも、これからも無いだろう。

家事の途中から、懐かしい甘いメロディをきっかけについ書き始めた文章が、思いの外長くなってしまった。
さて、次は風呂洗いだ。





















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