もしかすると興味の有無なんてどうでもよいのかもしれない
2023年1月6日(金)朝の6:00になりました。
2月にフルマラソンを控えているので、書いたらすぐに走ります。
どうも、高倉大希です。
我々は、知っているものの中からしか選ぶことができません。
今日のごはんも、休日の過ごし方も、好きな映画も、尊敬する人も。
すべては「自分が知っているもの」の中から選びます。
知っているものが増えるということは、選べるものが増えるということです。
当然、知った上で、実際に選ぶのか選ばないのかはその人に委ねられます。
くり返しにはなりますが、そもそもを知らなければ選ぶことすらできません。
そんな「知っているもの」を増やすときの入口になりえるのが、個人の興味です。
食に興味があるから、いろいろな料理のレシピに詳しくなる。
音楽に興味があるから、ギターを上手に弾くことができるようになる。
「好きこそものの上手なれ」という慣用句があるように、これらは至って自然な流れです。
だからこそ、我々はこぞって子どもたちに「将来の夢は?」と問いかけます。
子どもたちは、極めて限られた「自分が知っているもの」の中から一生懸命ひねり出そうとします。
興味があるものはなんだろう。あまりにも聞かれるし、とりあえずこう答えておけばよいだろう。
このような経験を重ねる中で、自ずと「興味の有無」の優先度が上がっていきます。
興味があることはやる。
興味がないことはやらない。
こうして、多くの人は「やりたいことがみつからない症候群」に陥っていきます。
興味をもつことができるかどうかを、対象に委ねてしまうようになるからです。
基本的に興味というものは、自然に湧き出てくるものではありません。
湧き出てきた経験をもっている人は、きっと近くに「強制的に出会わせてくれる人」がいたはずです。
学校でたまたま受けた授業がおもしろくて、国語が好きになった。
友だちに連れられて行った試合がおもしろくて、スポーツ観戦が趣味になった。
そこには自分の興味の有無に関わらない「強制的な出会い」があったはずです。
興味があるからやるというよりは、やるから興味ができる場合がどうも多いようである。
興味がない。役に立たない。理解できない。
これらが入口を塞いでいる限り、一向に世界は広がりません。
興味の有無で判断するのは、もうすこし後でもよいのかもしれません。
毎朝6時に更新します。読みましょう。 https://t.co/rAu7K1rUO8
— 高倉大希|インク (@firesign_ink) January 1, 2023
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