見出し画像

AIの文章生成は、なぜ叩かれるのか?

いままで、AIと文章の付き合い方について、結構、あれこれ書いてきました。
私は、AIの文章表現の技術はますます進化していくと思っているので、それを前提に、「でも、なんでモヤモヤが残るか」というところを見つめてきたのです。

書き手としての感情、実用的・事実的文章と文学的文章との議論の区分、文章を職業とする立場からの嘆き(?)など、角度を変えて問いを出してきて、ここにきて、なんとか少しずつその靄が晴れてきました。

↓(過去の記事は、こちらにまとめてみました!)

では、今回は、「AI作品は、画像や動画、音楽のものと比べて、なぜ文章となると、人に拒まれるようになるのか」について考えてみます。

このnoteでも、たくさんのAI画像やAI音楽作品が、日々、公開されていますね。特に、音楽系の投稿が、最近さらに増えてきたようです。

自分ができないこともあって、文章と画像や音楽がコラボレーションをした記事を見ると、「手間がかかっていてすごいなぁ」と、純粋に感動しています。

これは私だけではなくて、画像や音楽作品を「AIで作った」と知らされても、少なくともnoteなどで個人が発表する範囲では、文章生成ほど非難されることはなく、むしろ「よく出来た!」と、多くの方から評価されているようにも思えます。

少し微妙なのが、映画の話。
去年から今年にかけて、「AI俳優」が世界的に発表され、大きな話題を呼びましたね。
さすがにこれは、ハリウッドでも強い反発や議論を呼んでいます。
つい最近も、AI俳優を起用する長編映画の制作ニュースを目にしました。
でも、そもそも、例えばCGは昔から取り入れられてきたし、何だったらフルCGの映画だってあります。CGを大きく取り入れた『アバター』も、興行的に大成功を収めました。
その延長線上で考えれば、(あくまでも今後の技術の進歩と作品の出来次第ですが)社会的にも十分認められていくのではないでしょうか。

日本で見れば、2007年に誕生した「初音ミク」は、その後、国内外でライブを行うバーチャルシンガーへと発展しました。
これはAIとは違いますが、リアルではなくても疑似的に人を喜ばせることができるという意味では、もう音楽のエンタメ界でも、AIを受け入れる態勢が整っているようにも思えます。

「エンタメ」はAIに優しい?

しかし、こと「文章」に関しては、どうもすんなりとはいかないようです。

まず、こうした画像や動画、音楽は、あくまで「エンタメ」なのだから歓迎されるという意見があります。

確かにそうかもしれませんが、だとしたら、「エンタメ」系の文章だったらAIが絡んでもOK、となるはずですよね。

それが逆に、メールやビジネス関係の文章、議事録、企画書など実用系のほうが、世間では、AIに対する免疫があるようです。

文章の世界では、エンタメ系の作品に向けられる視線にしても、まだまだ厳しい。

アルファポリスの「第18回ファンタジー小説大賞」では、受賞後、作者が作品の大部分を生成AIで作成したことを明らかにしました。応募時では生成AIの利用を禁じる条項がありませんでしたが、その後の規約変更により、書籍化・コミカライズの企画が白紙となりました。この一件は、記憶に新しいところです。
一方、日経「星新一賞」は、「人間以外(人工知能等)の応募作品」も受け付けると明記しています。しかし、これは数ある文学賞の中でも、かなり特別な例といえるでしょう。

この点については、「文章のほうでは、受け手にしてみれば『いかに楽しかったか』というだけではなく、『誰が語ったか』、すなわち書き手の気持ちや考えやその信頼が、より一層重視されるのでは」という話があります。
つまり、文章自体も大切だが、その背景にある作家性に価値が置かれる。小説などの書評でも、作品の内容だけでなく、作家本人の思想や創作の姿勢に触れられることも多いですから。

ここで誤解をされるといけないので注釈を入れますが、画像や動画、それに音楽でも、もちろん個性(作家性)は大事ですし、特に商業ベースとなればなおさらです。

しかし、よくよく考えてみると、こうしたジャンルは、文章よりは、「うまい」「楽しい」「インパクトがある」といった印象が先につきやすいので知名度がなくても受け入れやすい。「名前」に縛られるというハードルが低いのかもしれません。

私は、YouTubeやInstagram、TikTokなど、視覚・聴覚に強く訴える媒体の普及が、こうした作り手の背景を気にせずとも楽しめる文化を、いっそう広げていったと思うのです。
極端なことをいうと、誰が作成したのかこだわらなくても「面白ければバズれる」というわけで、それがAIでも、いやAIだったらなおさら歓迎されるという土壌を強くしていったのではないかと。

それに引きかえ、言葉(文章)はまだ、発言者の存在が重視されているのではないでしょうか。
Xにしても、「何を」というよりは、「誰が」語ったかというところで、数字が大きく変わってくるわけで。

あくまで相対的な見方なのですが、こうした社会の背景もあって、画像・動画、音楽のジャンルは、より「内容で感覚的な刺激」があれば、「作り手の背景や信用」を知らなくても受け入れやすくなっている、それが、AI参入の障壁を低くしていると思ったわけです。

「見た目コスト」で変わる評価基準

また、こうした受け手の印象の他に、表現する際にも、文章とそれ以外のジャンルでは大きな違いがあります。

「画像や動画、音楽」グループは、これまで作品を作るためには、何かしらの道具(ペンタブであったり、特別なソフトであったり、音楽・映像機器であったり)と、それを使いこなす技術が必要です。
私も、25年以上前は、DTPの制作会社をやっていたので、Photoshopをいじっていました。
当時から、そういったソフトでも、例えば、写真を水彩画風にしたりする機能などがあって、ちょっと遊んでいたことがあったのですが、もう、AIはその比ではないですからね。

ともあれ、そうなると、こうしたことを扱ったことがない人間にとっては、制作過程はブラックボックスとなり、それらをAIが代行しても、もともと理解できていないから、あまり気にならない。

仮に多少知識があっても、例えば、Photoshopの一部の役割にしても上位互換としてAIがあるのであれば、それはそれで納得もできる。

一方で、文章は表現するのに、あまりに民主主義的である(文字を書くための紙と筆記具、あるいは、文字を打ち込める媒体や一般的なソフトなどがあればいい)ので、誰でもすぐにできるという点が、価値判断を鈍らせてしまうこともあります。

(本当はこの「表現の自由」を勝ち取るのに多くの先人の血が流れていますが、今回はそこは置いておきます)

結局、あくまで「見た目」なのですが、文章を作成するのには、物理的なハードルが低いわけです。
となると、成果物に対する見方がシビアにもなるし、AIに任せると「手抜き」のように感じられてしまうのかもしれません。

ここで、少しややこしい話なので、もう一度まとめておきますね。

文章は、文字さえ書ければ、あるいは文字を打ち込みさえすれば、表現を始められる。物理的なコストが低いからこそ、読書や人生経験、思考、推敲といった、目に見えない蓄積が価値として要求されてくるのかもしれないが、なかなか表には出にくい。
それにひきかえ、画像・動画や音楽などは、見せるのにそれなりの道具とそれを扱う技術(コスト)が必要だった。
従来は高い物理的なコストを必要とした創造の工程を、AIがある程度引き受けてくれるのならば、むしろ、作り手にも受け手にも歓迎される。

これに関して、昔、出版業界の大先輩から聞かされた話があります。
「出版社なんて、机と電話さえあれば作れた」と。
やや自虐的な言葉ですが、それくらい「やる気があれば誰だってできる(だから、頑張れ)」といいたかったのでしょう。

文章を成立させるにしても、それ自体は安上がりで、本来、「誰だってモノは書ける」のだから、そこから人の称賛を得るためには、見た目以上の苦労や作家性、個性が、その背景に期待される。

ここで最初にお話をした、文章に求められる「作家性」や「個性」とも話がつながってきました。

感情移入しながら読んでいた文章が、最後に「これはAIが書きました」と種明かしをされて憤慨する――これは、AI漬けになっている私でもよく分かります。特に文章ならではの、上手い下手云々だけでもない「書き手の肉声に耳を傾けたい」という、純度の高い欲求が、人の心にあるのかもしれません。

ここで、余談になりますが、歌のお話を一つ。

私は画像や動画、音楽も専門外ですが、音楽に関しては、ミリオンセラーを出された、ある作詞家の方と懇意にさせていただき、(7年間にわたり口説いた末)「作詞の技術」をテーマにした本を出版した経験もあり、馴染みがないわけでもありません。

かつて、その作詞家の方の強い希望で、アイドル系というよりは、歌唱そのものに力を置いた女性新人歌手のオーディションに一度だけ、審査員として参加したことがありました。
純粋な歌唱は、大がかりな道具という意味での「見た目コスト」はかかりませんが、ご存知のとおり、文章より優劣がてきめんに出る表現方法です。

しかし、今回は、「歌手」になるためのオーディションですから、カラオケの採点のようなわけにもいきません。
人を「魅了する」プロとして通用する歌声を評価するには、おそらく単なる数字ではない見方があると思うのですが、こちらは素人なので、知識も経験もなく困惑していました。
しかも、オーディションの見学に誘われただけだった(正確には、新人歌手が誕生するまでを追うドキュメンタリー本を出したいので、ちょっと様子を見にきてほしいと言われた)ので、無茶ぶりされた格好です。

しばしの葛藤の後、私は、自分の心にどう響くか、(参加する人はみんなある程度のレベルはクリアしているので)「単にうまいだけではなくて、すごいと感じられるか。個性はどこにあるのか」――そこだけを頼りに何とか票を入れました。

参加者の自己紹介も聞きましたが、歌唱力と自分のアーティスト性に自信がある方ばかりが応募してきたはずです。
それに、こちらでは想像がつかないレッスンをしてきたことでしょう。

しかし、こうしたオーディションのように、値の張る道具は用いられず、身体表現が中心で「物理的なコスト」が低いケースだからこそ、なおさら表現者としての個性が強く求められるのかもしれません。

もちろん、これはあくまでもオーディションでの思い出です。
Sunoなどの作品では、それがあまり気にならないのは、ここには歌い手云々というよりは、作詞・作曲・編曲など総合的な要素がつまっているからです。
人材や機材を考えると、従来のやり方であれば「物理的なコスト」はとても高いわけですから、評価の基準が変わってくるのだと思います(ただし、こうしたソフトを使えば、誰もが優れた作品を作れるというわけでもないので、見た目以外の「コスト」はかかっていますが)。

AI小説でのつまづき

さて、文章の話に戻りますが、ここで、書き手のほうから見た例として、私とAIとの付き合いを振り返ってみましょう。

私は、今年1月に初めてnoteへ記事を掲載する、その4か月前から、複数のAIに、小説やら論文やらを書かせて、他へ公表するなどといった意志もなく、自分ひとりが読むために実験してきました。
そもそもAIと出会う前は、特に小説などの文学的文章は、自ら手を下そうとは思ってもみませんでした。
長い編集者生活の中で、明らかに自分より優れた才能を持った方がたくさん近くにいたので、書く気がまったく起きなかったのと、何といっても原稿を「読む」ほうが圧倒的に好きだったからです。
素晴らしい書き手の方に、面白い作品を発表していただければ、それで大満足なわけで。

私自身、文章を書くとなると、実用的・事実的なものが得意です。
これまで書いたものの中で安定して褒められたのは、おそらく高校や大学時代の論文でしたし、一応、いまは取材記事の執筆をメインに仕事をさせてもらっているので、この手のものに関しては、ある程度のレベルをクリアしているのだと思います。
それこそ小学生の頃、文学的文章(詩や作文、創作)といえるものでも、それなりに評価された朧げな記憶がありますが、自己評価でいうと、特に韻文系は才能がゼロというかマイナスかな、と。悲しいです(苦笑)。

それでも、もともと小学校の低学年くらいから、すでにミステリやSFの愛読者でもあり、設定や筋を展開させるのはとても好きでした。時々、大人の作品を見て、「自分だったらこうするのになぁ」なんて、偉そうに内心駄目だしをする、ませた子どもだったのです。

実際に、学校の「お楽しみ会(レクリエーション会)」では、小学校4年生のときは、筋と台詞を立案して、友達を巻き込み、演出(と明智小五郎役の出演)も兼ねて、怪人二十面相の寸劇を披露したり、絵が得意な友達に書かせて、地球侵略物の紙芝居を企画して出したり、小学校5年生では、刑事と容疑者が兄弟という筋立てを考えて、また友達を誘って、尋問のワンシーンドラマを発表したりしたこともありました(大学時代でも英語劇をやっていたので、脚本をアレンジしたりはしていましたが、小学校時代の方が本気(?)だったような気がしています)。

AIの世界に触れ、こんな童心がよみがえり、世間の評価(マーケティング)や商売がどうこうではなくて、まずは自分だけが純粋に悦べるオリジナル小説を読んでみたいという気持ちが立ってきたのです。
小説を丸ごと書くのは、才能も労力も必要で大変だが、AIの力があれば、何とかなるのではないかと。
なかなか年齢的なものもあって、いまの自分にぴったりくる小説に巡り合えていないというストレスもありました。

というわけで、せっかくなので純文学やライト文芸などのジャンルも混ぜながら、AIと二人三脚で小説を、まずは自分だけのために、いろいろと作ってきたわけです。長編、短編で……そうですね、20作以上はあると思います。

当初は、実験に次ぐ実験で、熱く、楽しかったのですが、習作を重ねるうちに、やはり大きな壁に当たってきたのです。

AIは「細切れの文章やシークエンスを生成してくれる」かもしれないが、それでは「小説」にはならない。
AIの「感情のない表現問題」は、何とかフォローできそうな見込みがあるのですが、特に文学的な「文脈」を十分に捉えられない点については、少なくとも私が試していた時点では、かなり大きな限界を感じました。
AIは前後関係を処理することはできても、人物の沈黙や感情の変化(揺らぎ)、言葉の余韻といった文学的な流れを、長い距離にわたって塩梅していくことは、まだ苦手なのだと思います。
修正の指示を出しても、ピントがずれてきます。
出せば出すほど、遠くへ行ってしまうというか。
では、ああだこうだと、自力で書き直していくと、結局、もとのAIの文章が意味をなさなくなってくるのです。

(ここを深掘りすると、大長編になってしまいますので、またいったん置いておきます。すみません)

私の中でAI小説創作の熱波がだんだん消えていくタイミングで、ちょうど今年の1月、noteを始めたのですが、「プロンプト設定を強化する」「AIの文章を自分なりに手直しをする」――こういったことを、いくつかの記事で見かけました。この設定強化のところは、もう文系頭の私のずっと先をいっていて驚きでした。

しかし、アドバイスを見ても、生成の水準をあげていくには根気がいる作業でもあり、「そこまでやるなら、AIは関係なく自分でやったほうがいいんじゃないのかな」と、AI共作の意気込みはどこへやら、ヘタレ根性が頭をもたげてきて、2月あたりから、AI小説の習作は休止状態となったのです。

それ以降は、創作の勢いだけはまだほんの少し残っていたので、自力でちらほら小説は書きましたが、出来栄えに納得できるわけもなく、今度は今度で「これにかけている時間を読書へあてたほうがいいかな」と、ついつい思ったりして、結局、小説の制作から離れていきました(最近、ワケがあって1本書きましたが)。

要は、小説に限ったことではないのですが、私には圧倒的に書き手としての創作意欲が足りないのですね。

もともと、書きたい人は、才能のあるなしなんて気にも留めず、周りから評価もされず、時にはけなされようが、あるいは、「食えない」などと止められようが、それでも前に進んでいくわけです。
加えて、作家には「自分にしか表現できないものがある」と思える、良い意味でのエゴも大切です。
誤解を恐れずにいうのであれば、世間に名を残したいという自己顕示欲もあったほうがいい。
裏方(編集者)であることに喜びを見出してきて、そこにも価値があると考えている私には、足りないところです。

AI文章生成時代における書き手の熱量

noteを見ていると、本当に、もう純粋に人の「書きたい」という熱気が満ち溢れていて、ずっとアナログ界にいた身としては、別世界を見ているようです。それに、noteの場合は、Xやヤフコメとは異なる「執筆熱」があるのですね。コメントをする、単につぶやく、というよりは、形に残したいという。

中には、「思いついたことを自由気ままに残すだけ」としている方もいますし、そんな強い気持ちもなく、知り合いにメールでも出すような感じで、投稿されている人もいるでしょう。
いや、むしろ、そうした人のほうが多いかもしれない。
しかし、不特定多数の目に触れることになるnoteにあえて書く以上は、自分だけしかわからないようにする「日記」などとは異なり、誰かの目には触れてほしいという表現の熱がどこかしらあるはずです。
人によって、温度差はあるのでしょうけれど。

私は、noteの世界で、こうした記事がたくさん掲載されていくのを見るたびに、「こんなにも、人は何かを語りたかったのだ、伝えたかったのだ」と改めて考えさせられています。
20年以上前から、業界関係者内で「今は、読み手よりも書き手のほうが多い時代だからね(だから、本が売れない)」などと、半ば冗談のように話していましたが、実際、もう本当にその通りかもしれません。
それに、ずっと「読み手」中心の側にいて、オールドメディアの編集者だった私は、自分の価値観が古くなっているのではないかと思い始めています。
もしかしたら、既存出版社のパワーが落ちていく一方で、明治から昭和にかけて大きな力を持っていた、同人誌文化の新しい形での復権が起きているのかもしれない。
書き手と読み手の境界線は消えつつ、しかし、かつての同人誌投稿者にはあった、すごろく的には「上がり」となる、独立して作家・執筆業として食べていくことを希望する人は、昔よりは減っているというのもポイントですね。
無理にそこには求めず、執筆を副業や趣味の前提としてとらえる人が多い。
おそくらく、ネット社会で表現を公開するハードルが下がったことも大きいでしょう。

話を戻しますと、去年の9月ころから、ひとりだけの世界でAIと小説や論文を作ってきたことは、私にとって決して無駄ではありませんでした。
AIとのやり取りの中で、人に見せるかどうかを考える以上に、「自分の肉声とは何なのだろうか」ということを、改めて考え直させてくれたからです。

AIと出会わなければ、まず、書き手としての自身と向き合うことはありませんでした。
そして、このnoteに投稿する気にもなりませんでした。
自分が抱えているAIへの疑問を、他の方ともシンプルに共有したくて書いたのがきっかけですから。

私は、仕事以外では、自分の意思で文章を書くことをずっと極力避けてきた人間です。
これまでブログというものには関わったことがありません。
ちゃんと、自主的に文章を書く気になったのは、AIのおかげといえばそうなのです。
そして、このnoteの記事では、ふだん仕事では使わない、むしろ禁止している表現をふんだんに使っていて、いってみればストレス発散にもなっています。
記事のタイプに応じて、漢字の量や言い回しの堅さ・柔らかさ、文末などを好き勝手に変えていくのも楽しい。
これは、思ってもみなかった効用でした。

最近は、noteなどに出している実験(遊び)以外は、私が書いた文章の校正しか、AIにお願いしていませんが、また、自分なりにやり方を変えて、小説の習作も含め、AIともう一度向き合って文章を共作してみたいですね。

その際、あくまで私の頭にあるのは、「AI文章も、やがて『うまいかどうか』では判別できなくなる。そのとき問われるのは、『この文章でなければならない理由』や『この人が書く理由』なのかもしれない」ということです。

よく「文章を書くには、AIに助けてもらいつつ、自分の経験を入れればいい」といわれます。
確かにそうなのですが、そこからさらに一歩進んで、人に立ち止まって記憶してもらえる文章にするには、単に経験を入れるだけではなく、その経験をどう受け止め表現し、なぜいまそれを書くのかという、「書き手自身の熱量」が伝わることも、どこかで必要になってくると思うのです。

こんな回りくどい話はするの者は、私がこれまでお話をしてきた“Slow AI”と同じく少数派かもしれませんが、これからのAIと文章との付き合いで注目されていくところではないでしょうか。

もちろん、noteは自由な空間ですし、誤解のないように付け加えると、私もこれから、アイディアによっては、さっと気楽に書く記事も増やしていきたいと考えています。
実際、私がよく読んでいるnoteの記事の半数以上は、速く読めて、あまり心に負担もかけずに、すぐに頭に入るもの。

それに、ブログ形式では、読みやすさからすれば、(私は真逆なことをしているものの)文章は短いもののほうが適しているでしょう。
あくまで私にとってですが、理想のブログは「それほど書くのに時間をかけることもなく、少ない文字数で、やわらかく率直な言葉を使い、それでいて語り手の熱量がにじみ出るもの」です。
それに、ブログに限らず、短い文章でキレのある内容を書ける「名コラムニスト」もいます。
この点については、私は力不足なので、いまはじっくり時間をかけ、言葉を重ねることで補っていくしかない、ということなのかなと。

話がそれましたが、私がnoteの記事で使っている“Slow”は、手軽さや能率を重視する、あらゆる“Fast”を否定するものではありません。
それが、私のいう“Slow AI+”です。

ただし、今回のテーマであえて声を大きくして言いたいのは、「AIが作った文章=感情がない量産もの」と片付けるのであれば、人間だってどうなのかなと。
「量産」という意味では、人だって他人の意見を単に引用・借用したコピペ文章を書いたり、よく叩かれているように「コタツ記事」を出したりして、量産している気もします。
それに、AIを使ったから「ラクしている」と短絡的に考えるのもおかしい。

Web投稿サイトでAI小説が大量に投稿された例があり、批判が高まったので、AI文章を問題視する風潮があるのは分かりますが、AIを使ったものだろうが、人の手だけによるものだろうが、最終的には、制作に携わった人間の倫理観に行き着く部分もあるわけで、作品は是々非々で見ていきたいですね。

もろもろ含めて、ここでは“Slow note+”として、少しだけでも耳を貸してもらえればと思っています。

追伸:先週の記事「[雑記]noteの記事の盗作問題について」、#映画でコングラボードをいただきました。ありがとうございました! これ、映画の話が主ではないのですが(苦笑)、いただけるものは何でも感謝ということで。

いいなと思ったら応援しよう!