【短編小説】ルーシー
【あらすじ】
地上に人が住めなくなり半世紀が経つ。人類が再び地上に戻るための研究機関で学ぶ僕は、環境汚染が進んだ地上の環境でも適応できように生み出された“新しい”人類ルーシーの社会適応実験の一部を任された。それはただ単に、アカデミーの休日にルーシーを連れて外出するだけのこと。僕にとっては、ルーシーは普通の少女だった。でも、研究員たちと僕の認識は違っていた。
1 博物館
「コウ=アイクです。お願いします」
僕はいつもと同じように、制服をかっちり着たガードマンにIDカードを提示した。
僕たち一般の学生が研究棟へ入るためには、学科棟から出てわざわざ外を通らなければならない。守衛所でガードマンにIDカードを預け、承認を得なければ中へ入れてもらえないのだ。教官たちが利用する渡り廊下は、学生は使わせてもらえない。
ガードマンは愛想笑いの一つも浮かべず、僕のカードを取って端末にスラッシュさせた。
「許可します」
彼は突きつけるようにして、僕へIDカードを返した。ほぼ同時に、研究棟のドアが真ん中から割れるようにして開く。
僕はIDカードをポケットにしまいながら、早足で研究棟の中に入った。
ヒトがシェルターに覆われた地下都市(ドーム)への移住を完了してから、もうすぐ半世紀を迎える。
移民二世の僕は、地上の風景を知らない。僕の周りにはそんな連中ばかりだ。それでもドーム内は、過去の地上の景色に似せて作られているという。青い天井は昼と夜で色を変え、人工の太陽と月が交互に顔を出す。定期的に薬品臭い雨が降り、場所によってはそれを凍らせた雪も降る。だから、地上の景色を知らないようで、実は少しだけ知っているのかもしれない。
僕が所属する『デュカリオン・アカデミー』カナン支部は、アカデミーでも二番目に規模の大きい施設だった。人材育成のための教育機関とその学生用の宿舎、大規模な研究機関から成っている。アカデミー本部はドームの環境を維持する機関であり、このカナン支部はそれに伴う種々の研究や実験を行う機関である。もっとも、僕は実際に本部を訪ねたことはない。
アカデミーの研究は、すべてヒトが地上での生活を取り戻すためのものだ。僕も、それに貢献するために勉強をしている。僕の兄も生命科学分野の研究者である。僕の専門は、まだ決まっていない。悩んでいる最中だ。
そんな折、僕はルーシーに引き合わされた。
兄の七光りなのか、それとも単なる偶然なのかは知らない。しかしルーシーとの出会いは、僕に義務と秘密を同時に与えた。僕が兄たちの研究室へ出入りしていること、ルーシーについてのことは、誰にも口外しないようにと言われているのである。
ルーシーは、遺伝子操作で造られた新しい“人類”の最初の一人だからだそうだ。
地下二十階でエレベーターが開いた。
白を基調にした研究棟の内部は、想像力の乏しい僕にはいつも病院を連想させる。数歩先には金属製の分厚いドアがあり、脇に端末がついている。僕はポケットからIDカードを取り出し、端末にスラッシュさせて自分のパスワードを入力した。軽い音とともに、ドアが横にスライドして開く。
僕はドアを通り抜けてから、IDカードを、今度はきちんとパスケースにしまった。
左右に伸びる廊下に、端末のついたドアが規則正しく並んでいる。白衣を纏った研究員たちがファイルを片手に通り過ぎたり、角に数人が立ち止まって小声で会話をしたりしていた。普段着のままの僕は、なんとなく場違いである。
第八実験室と書かれたドアの前で立ち止まったとき、僕が来たのとは逆の方向から、二人の研究員が歩いてきた。二人とも若い。片方は白衣のポケットに手を入れて、もう片方は分厚いファイルを小脇に抱えている。
「だからさ。どこまでが許される領域なのか、なんだよ」
「しかし、感情が混ざると研究の成果が歪んでしまうだろう?」
「感情ではなくて――あぁ、コウ。来たのか」
ポケットに入れていた手を軽く挙げたのは、兄のレイだった。血がつながっているはずなのに、僕と違って兄は気の強そうな顔立ちをしている。髪も僕が茶色に近い髪なのに比べて、兄の少し長めの髪は真っ黒だった。
「ちょっと待ってろ。呼んでくるから」
兄は白衣の胸ポケットからIDカードを取り出し、端末に通した。慣れた手つきで素早くパスワードを入力する。カードを握ったままの手をまたポケットに戻し、ドアが横に動いたと同時に通過する。
「ちゃんとしまえ、って言ってんのに……」
兄が通り過ぎるとすぐに、ドアがスライドして閉じた。目の前に戻ってきたドアに向かって、僕はため息をつく。
せっかちな兄はいつもIDカードを適当にしまい、しょっちゅう失くしたと騒ぐのである。
僕の愚痴が聞こえたのか、兄と一緒にやって来た研究員がクスクスと笑った。
「生活態度からは信じられないくらい、研究はきっちりやる奴なんだけどね」
「そんな、もったいないお言葉です。いつも兄がお世話になってます」
なんだか申し訳なくて、僕は彼に頭を下げた。
「いえいえ、こちらこそ。コウ君には、また別件で迷惑をかけてるしね。……君に出会ってから、表情が少しづつ変わってきたよ」
「ルーシーですか?」
言ってから、僕は慌てて周囲に目を走らせた。特に誰もいない。研究室の外では、無闇に名前をだしたりしないよう指示を受けているのだ。このフロア内では大丈夫だろうが、軽々しく口にすると外でも喋っているのかと疑われかねない。彼は僕の失態に一瞬眉を寄せたが、すぐに笑みを浮かべた。
「ああ。いろんな刺激を受けているらしい。これからもよろしく頼むよ」
「……こちらこそ」
軽く会釈して、彼は兄と同じようにIDカードを通して実験室へ消えた。厚いドアを前にして、僕は一人で待つ。
中に入ってもいいとは言われているが、勉強不足の僕はなんとなく恐れ多くて実験室へは入れない。
白衣の研究員と二、三回すれ違った頃、ドアがスライドした。
「コウ! おはよう!」
「待たせたね」
壮年の研究員の手を振り解き、彼女は大きく手を振った。
僕よりも五、六歳年下だろうか。今はたぶん、十二、三歳だろう。実際にはよくわからないのだ。彼女に聞いても正確な年齢はわからないし、なんとなく研究員に聞く気はしない。最初に会ったときは、十歳弱の容姿でしかなかった。まだ数回しか出かけていないが、信じられないくらいの速さでルーシーは身体的に成長している。ただ人格というか性格というか、そちらは幼いままなのだが。
今日の彼女は、白いスカートを履いていた。少しも汚れていないスニーカーが、歩く度にキュッキュッと鳴る。短い黒髪は、その前髪も彼女の青い瞳にかからない。
「おはよう。……もう少し静かに。みんなに迷惑だよ」
僕が口に人差し指を当てると、彼女も頷いてその唇に指を当てた。
「ごめん。静かにするね」
僕を見てから、となりの研究員を見上げた。壮年の研究員は、そんなルーシーに小さな笑みを浮かべる。
「さ、行きなさい」
彼はルーシーの肩に、小さなショルダーバックをななめがけにしてかけた。それを確認してから、ルーシーは僕の横に並ぶ。
「フラッド、行ってくるね」
「ああ。よろしく頼むね、コウ君」
「はい。……じゃ、行こうか」
僕は研究員のフラッドに一礼してから、ルーシーの手を取った。
僕たちはいつもこうして歩いている。端から見たら、おかしく見えるかもしれないけど。僕が手を出さなくても、ルーシーが勝手に手を握ってくるのだ。そうしていると安心するのだろう、と研究員の一人は言っていた。もしかしたら、実験室の中でもいつもこうして歩いているのかも知れない。
「ねぇねぇ、コウ。今日はどこへ行くの?」
「うん……どうしよっかなぁ」
廊下を歩きながら、ルーシーはウキウキした声で尋ねてくる。僕がちらりと実験室を振り返ると、あの壮年の研究員は鋭い目つきを慌てて微笑みに変えた。
僕はルーシーと手をつないだままスイッチを押し、分厚いドアを開けてエレベーターに乗りこんだ。
一般の学生である僕に当てられた役目は、毎週末アカデミーの休日に、ルーシーを外へ連れ出すことだった。社会的適応能力がどうのこうの、と研究員たちは言うが、要はルーシーのお守である。
新しい“人類” 最初のルーシーは、僕と同じヒトの姿だ。それでも、僕とは文字通り作りが違う。ルーシーは、生き物が住めなくなった地上でも生存できるという。彼女の適応能力はもちろん、生命力、身体能力、思考能力は僕たち普通のヒトを遥かに超えている。
けれど、ルーシーは自分でそれがわかっていない。ルーシーは、僕たちと同じ普通のヒトだと思っているのだ。最初は僕もそのギャップに戸惑ったけど、最近は慣れてきた。ルーシーがわかっていないおかけで、僕もルーシーと普通にやり取りをすることができる。変な意味ではなく、僕はただ単純にルーシーが好きだった。恋人というよりも、妹か親戚という感じだ。僕にとって、ルーシーは僕らと変わらない“普通の人”なのである。
「すごい、すごいね!」
解説パネルに手をつくようにして、ルーシーは身を乗り出した。ガラスの向こうには、復元されたマンモスの模型がある。僕らの身長よりも遥かに大きく、見上げてもその背中は見えない。暗く抑えられた館内の照明の中、下からスポットライトを当てられるマンモスはなかなか迫力がある。
悩んだ挙句、僕らはアカデミーから少し離れた博物館を訪れた。自然科学分野から歴史分野まで展示がある、大きな博物館である。僕もアカデミーから出ている課題があるから、ついでに資料を集めようと考えたのだ。昼過ぎに到着し、僕らはとりあえず自然史のフロアに入った。
「昔は、こんな大きな動物がいたんだね」
ルーシーが瞳を爛々と輝かせて僕を見る。ルーシーがはしゃぐさまは、通り過ぎる子供たちと同じものだった。
「そうだよ。……地上の話だけどね」
「うん。そうだよね。ドームの環境じゃ、こんな動物は生息できないよね」
僕の言葉に納得したように呟き、ルーシーは解説パネルに目を通す。マンモスの解説のほかに、動物の進化の流れが書いてある。ちらりと見ただけで、ルーシーはすぐに顔を上げた。
「次、行こうよ。次」
僕の手を引っ張り、ルーシーはずんずん進む。さらっと眺めるだけで動物のエリアを通り過ぎ、順路パネルを曲がって人類史のエリアへ入った。ホモ・サピエンスへ到るまでの略年表が、一番最初に僕らを迎える。
ルーシーは立ち止まって、年表をじっと見つめた。
「どうしたの?」
「……コウはホモ・サピエンス・サピエンスでしょ? フラッドたちもそうでしょ?」
「うん」
「わたしは? フラッドはね、わたしは少し違うんだよ、って言うけど……。 サピエンスまでしかないよ?」
ルーシーは、首を傾げるようにして僕を見る。僕は答えにつまった。彼女の目には、疑問と好奇心しかない。
「……ごめん。僕はよくわからないよ。でも骨格を見たら、ルーシーは僕たちと一緒でしょ?」
「そっか。骨格がおんなじだから、ここでは区別されないのかな」
「そうかもしれないね」
ルーシーは満足そうに笑って、また僕の手を引っ張った。でも、僕はいまいち僕自身の回答に納得できない。外見だけをみたら僕とルーシーは同じだ。けどアカデミーの研究員たちは、僕とルーシーをはっきりと区別する。僕は、あくまで僕と違う“人類”のルーシーと行動しているのだ。でも僕は、それをルーシーへ明確に伝えることはできない。
ルーシーの存在が示すように、ヒトがこれ以上進化しないとは言いきれない。そのうちに、サピエンス・サピエンスの次の“人類”も年表に載る日がくるだろう。もしかしたら、ヒトはルーシーのような存在に取って代わられるかもしれない。サピエンス・サピエンスがネアンデルターレンシスを追放し、滅ぼしてしまったのと同じように。
「“ルーシー”だって!?」
ルーシーは、今度はガラスケースに張りついた。壁に沿うようにして、進化していく人類の模型が展示されている。猿人から新人まで。ルーシーは、自分よりも少し身長の低い、手前から二番目の猿人を興味深そうに見つめていた。
「そう。“ルーシー”だよ」
アウストラロピテクス・アファレンシスの“ルーシー”だ。化石が発見された当時は、『最初の猿人』『最古の女性』などと騒がれ、僕たち人類の母だとさえ言われていた。アファレンシス以前の化石が発見されたことによって、“ルーシー”は『最古の女性』の名を返上せざるをえなくなったが。それでも彼女の存在は特別なものだった。それは彼女の骨片が多く発見され、彼女のほぼ全身が復元できたからかもしれない。メディアの力もあるだろうし、彼女につけられた名前が親しみやすかったからかもしれない。何にせよ彼女は紛れもなく僕ら人類の祖先であり、尊敬し、愛するべき存在であることに変わりはないと僕は思っている。
“ルーシー”の身長はルーシーよりも頭一つ分小さく、顔立ちはヒトというよりもサルのそれである。茶色の体毛に覆われており、全体的に見たときに手が長めで足が短い。少し前傾姿勢だが二足歩行で、一歩こちらに踏み出したようなポーズで僕たちを見上げている。
「ルーシーの名前は、この“ルーシー”に因んだんだってね」
僕は兄から聞いた話を思い出して言った。兄もルーシーについては多くを教えてくれない。たまたま僕が人類学の本を持っていたとき、ポツリと呟いたのだ。だが、ルーシーは首を傾げた。
「そうなの? でもフラッドたちは、名前なんかただの記号だって言ってたよ。ものを識別するくらいの役割しかないんでしょ?」
大きな目でこちらを見るルーシーに、僕の顔はあからさまに引きつった。研究員と一般人の意識の差なのだろうか。僕は、ただ黙ってこちらを見上げる“ルーシー”に目を落とした。
「……確かにそうかもしれないけど。でも、名前は大事だよ」
「うん。じゃあ、また聞いてみるね。……それにしても」
ルーシーは、少し腰を落として“ルーシー”を真正面から見た。
「なんかカワイイね。脳容積は四〇〇立方センチくらい? 骨盤が大きいし、エネルギー消費は大きそうだね。足指が内反してるから二足歩行よりも木登りの――」
「ルーシー」
僕は“ルーシー”を前に言葉を続ける彼女の口に、持ってきていた大きめの飴玉を放り込んだ。周囲にいる他の来館者たちが、ルーシーをじっと見つめている。幼い外見にもかかわらずスラスラ言葉を続けてしまう彼女は、どう見ても不自然だった。
「アイス食べに行こうか」
「あいふ!? はへる!」
『アイス!? 食べる!』と言ったのだろうが、飴がしっかり妨害していた。
課題の資料集めどころではなかった。最初から無謀だったのかもしれない。また別の機会にくればいいだけだから、ルーシーには特に文句はない。
以前に何度か露店でご馳走してから、ルーシーはアイスが大好きだった。彼女のお気に入りはチョコレートだ。僕はバニラの方が好きだけど。博物館のカフェテラスは少し値段が高いけど、それなりに味もいい。
飴に苦戦するルーシーの手を引いて、僕は早足で自然史のフロアを通り抜けた。
2 ミッシングリンク
今週は、ショッピングモールを訪れた。
とはいっても、僕たちが行くところは決まっている。裏通りの古本屋へ行き、少しルーシーの小物とかお菓子を見てから、広場の見える喫茶店に入るのだ。ルーシーに関する買い物用に、と実験室からキャッシュカードを預かっているが、僕はそれを使わない。僕の生活はそんなに余裕のあるものではないけど、何を買って何を食べていくら使ったのかまでいちいち実験室に知られるのが、なんか嫌なのだ。もちろん、ルーシーと出かけた日には何をしたかの報告はするが、それとこれとでは微妙に感覚が違う。
今日の僕たちは、広場で配られた号外を手に喫茶店へ入った。いつもと同じように窓際の四人テーブルにつき、空いた椅子には荷物を置く。
すでに注文が決まっているルーシーはメニューを見ず、僕の手近にあった号外を手に取った。
号外の内容は、ある死刑囚の刑が執行されたというものだった。彼が起こしたのは、両の指では収まりきらない数の連続殺人だった。ドームへの移民が完了した当時、いくら地上に似せてあるとはいえ、環境のギャップに精神を病む人々がいた。そうした人々に手を差しのべていたのが多くのカウンセラーだったが、彼はそのカウンセラーを装って弱い人々に近づき、快楽的に人を殺していったという。僕の両親がまだ幼い頃の話だ。
「ヒトがヒトを殺すの? ヒトを殺すのは一番悪いことなんでしょ?」
号外を握り締め、ルーシーは澄んだ青い瞳でこちらを見た。
「うん……。死刑だけは別なんだよ」
「そうなの? この人がヒトを殺すのはいけなくて、この人が殺されるのはいいなんて。……変なの」
ウェイトレスが注文を取りに来たことで、ルーシーは号外を僕に返した。彼女はもちろん元気な声でチョコレートパフェを頼み、僕はココアを頼んだ。兄にはよく馬鹿にされるが、コーヒーは苦くて好きじゃない。
ウェイトレスが厨房へ戻ると、ルーシーは古本屋の紙袋を開けた。取り出したのは、二冊の絵本だ。『空の人ユート』、『虹の橋を渡って』というタイトルの絵本で、両方とも半世紀以上前に失われた青空を舞台にしたものだ。古本屋に置いてある絵本はたいがい移民一世かそれ以前の人が描いたもので、描かれている空は本物に近いという。だから僕もそういうものをルーシーに薦めるし、ルーシーも気に入ってくれていた。
僕たちヒトを超えた知能を持つルーシーは、普通の本はパラパラめくるようにして一瞬で読み終わってしまうのだ。内容は一度だけで把握するし、何ページに何が書いてあるかまで記憶してしまう。でも絵本は内容以上に絵を見ているらしく、何度もめくっては繰り返し絵を眺めるのだ。もしかしたら、彼女なりに絵本の向こうの世界を広げているのかもしれない。
ルーシーは『虹の橋を渡って』を開き、僕も買ったばかりの人類史の本をめくった。
「ねぇ、コウ? イシュカはね、虹を渡って神様に会ったんだって」
「うん? そうなの?」
たぶん、イシュカというのは絵本の主人公なのだろう。ネタがばれるとかそういうのは関係なく、ルーシーはすぐに結末を口にする。
「うん。イシュカみたいに精神と体が分離したら、わたしも空の上に行くのかな? 神様に会えるのかな? ……というか、神様って何? ヒト?」
「ヒトじゃないよ。たぶん。ヒトに似ているかもしれないけど。宗教の……思想的な世界の上にいる象徴的な存在、っていうところかなぁ」
「実体がないってこと? 結局はヒトが作っ……あ、それ“ルーシー”!?」
僕の本の中にある猿人の絵を見つけ、ルーシーは身を乗り出した。
「見る?」
「見る!」
僕は猿人が載っているところにしおりを挟んで、ルーシーに手渡した。
「アナメンシス? “ルーシー”じゃないんだ」
古本屋でやっているように、本をパラパラとめくる。パタンと本が閉じたとき、ルーシーは首を傾げた。
「そっか。それにも神様について書いてあるもんね」
本は人類の進化に関する歴史と、いわゆる進化論の歩みを書いたものだった。ヒトは創造主が作ったものだからと科学的な研究が認められなかった時代から、現代の新しい生命科学分野までの変遷が書かれている。どちらかというと、科学よりも思想面に重点をおいて書いてある本である。
ルーシーは頭がいい。計算や暗記など理論的なことに関しては非常に優れている。しかし思想とかそういった知性に関しては少し弱いらしい。どこかしらにある矛盾が、ルーシーには受け入れられないようだ。実験室も研究員しかいないから、そういう非科学的なことには触れないのだろう。
「その本、貸そうか? 帰ってからじっくり読みなよ」
「いいの?」
「うん。僕は一回読んだことあるし」
実際、僕は以前にこの本をアカデミーの図書館で借りて読んだことがあるのだ。まあまあ面白かったし安かったから買っただけで、今すぐ必要というわけではない。
興味深そうに本を眺めるルーシーだが、その表情は意外に暗かった。
「でも……フラッドが見たらきっと貸してって言うよ? フラッドに貸すと、フラッドはすぐ人の本をなくしちゃうんだもん」
「そうなの?」
壮年の研究者の顔が僕の脳裏をよぎった。穏やかそうな、しかしどこか作ったような笑顔を浮かべる研究員。それは彼だけではなく、第八実験室の研究員たち全員に言えることだった。
「そうだよ。フラッドはわたしの本を読みたがるけど、失くしたから見つかったら返すね、って言ってずっと見つからないの」
何かひっかかる言い方だった。あまり信じたくはないけど、もしかしたら……。
「じゃぁ、誰にも見せないでこっそり読みなよ。僕はいつ返してくれてもいいから」
僕が言うと、ルーシーは一瞬きょとんとした顔で僕を見、くすくすと笑い出した。
「おもしろい。コウって、レイと同じことを言うね」
「えっ、に……レイもこんなこと言ったの?」
ルーシーには、僕とレイ=アイクが兄弟だということを言っていない。ファミリーネームが同じだから気づいているかもしれないが。
しかし短気でせっかちで少し自己中心的な兄とは似ていないと自負している分、ルーシーの言葉は僕の胸にぐさりときた。
「うん。そうだよ。でもね、レイはなんでもダメだ、ダメだっていうんだよ」
兄の真似なのか、ルーシーは少し口を尖らせた。
「外で何したのかをみんなに話しちゃダメーとか、本を見せたらダメーとか、オレに触るなーとか」
「ふぅん……」
おもしろいくらいに兄の姿が想像できる。
「レイはなんだかいつもつまんなそうだけど、でもときどき秘密だぞ、ってお話してくれるの。そうそう、この前の名前のことも、聞いたらちゃんと教えてくれたよ」
「そう。なんだって?」
僕が聞き返すと、ルーシーは嬉しそうに笑った。
「[ルーシー]っていう名前はね、みんなから大切にされるんだって。あ、でも秘密ね。レイに怒られちゃうし」
「……わかった」
想像しがたい兄の言葉に、僕は少し吹き出そうになった。あの人でもそんなことを言うのか。
「コウの本はできるだけ秘密にして読むね。じゃぁ、コウにはわたしの絵本を貸すよ」
ルーシーは『虹の橋を渡って』を僕に差し出した。
「今度会うときに返してね」
「うん。ありがとう。借りていくね」
僕はルーシーの絵本を自分の鞄にしまい、ルーシーは僕の本を古本屋の紙袋にしまった。
ちょうどそのとき、ウェイトレスがトレーにパフェとカップを載せてやってきた。彼女はルーシーの前にパフェ、僕の前に湯気の立つココアの入ったカップと順に置いた。
「ご注文は以上でよろしいでしょうか?」
にっこり微笑んで問う彼女に、僕は頷く。
「こちら、只今女性のお客様お一人につき一枚差し上げておりまして……ショッピングモールの抽選券です。こちら一枚で一回抽選ができますので、ぜひご利用ください」
彼女はルーシーの前に、ショッピングモールのロゴマークが入った紙を置いた。確かに抽選券と書いてある。
「それでは、ごゆっくりどうぞ」
彼女は一礼して厨房へ戻っていった。
「抽選?」
「うん。……クジ引きができるんだって。あとで行ってみようか?」
ルーシーは眉を寄せて頷いた。スプーン山盛りに取ったチョコアイスを、まさに口に入れた瞬間だったのである。
すれ違う研究員たちが、奇異の目で僕を見る。
仕方のないことだけど、やはり恥ずかしい。前を行くルーシーには関係がないのか、鼻歌を歌いながら陽気に歩いている。
僕は、僕の顔が隠れるくらいに大きなオランウータンのぬいぐるみを抱えていた。当たったのだ。例の、ショッピングモールの抽選で。当たったというより、当てたといった方がいいのかもしれない。クジを引く前から、ルーシーの目は巨大なオランウータンしか見ていなかったから。
第八実験室の端末の前でルーシーは背伸びをし、IDカードを通さずに何かを入力した。IDカードを通したときとは違い、小さな電子音がしてドアがスライドする。
第八実験室に入ると、今度は実験室の研究員たちが目を丸くしてオランウータンを見ていた。恥ずかしいし、こんなものを抱えて実験室に入り込むのはなんだか申し訳ない。けど部屋まで運んであげると言った以上、恐れ多いから帰るなんて言えなかった。しかし初めて実験室に入るときに、まさかオランウータンを抱えていくとは思わなかった。
「ルーシー、それは……」
「もらったの!」
研究員に聞かれると、ルーシーは明るい声でそう答える。
「わたしのお部屋はこっちだよ」
「ど、どっち?」
ルーシーは指さしているようだが、僕の目の前にはオランウータンの茶色い頭しかない。前がよく見えないから指をさされてもわからないのだ。横に首を動かしたとき、僕は思わず足を止めてしまった。
そこにあったのは、ゴテゴテした機械の上に設置された天井までの太い柱みたいに見える水槽と、壁になかば埋め込まれているかのように並ぶケースだった。斜めに設置されているそれは、まるで検査用のベッドのようにも見える。けれど透明の蓋もついており、僕にはいつか見た博物館のショーケースを連想させた。
「こっち、こっち」
ルーシーはオランウータンの腕を引っ張る。床に張りめぐる色とりどりのコードに足をとられそうになりながら、僕はルーシーの引く方へと歩いていった。
二重ガラスの小さな窓がついたドアの前で、ルーシーは立ち止まった。彼女はドア横にある真っ黒なモニターに、自分の掌を押し付ける。ガチャリという音がして、ドアのロックがはずれた。ルーシーがドアを引いて開ける。
「え……」
「う~ん……ベッドの上に置いて」
立ち止まる僕をおいて、ルーシーは自分のベッドに駆け寄った。
オランウータンの頭ごしに見えるルーシーの部屋は、僕の想像していたものとだいぶ違った。白壁の部屋は狭く、小さなサイドボードと低いベッドしかない。ベッドも白一色である。サイドボードの上にも大小さまざまな薬のビンが置いてあるだけで、装飾的なものは一切ない。僕が買ってあげた絵本や小物類も、一切置いていない……。
「コウ、どうしたの?」
「え、ううん……」
僕はルーシーに言われるまま、オランウータンをベッドの上に置いた。巨大なオランウータンは、座るとベッドの半分以上を占領する。
「ねぇ、ルーシー。この部屋は――」
聞こうとしたとき、ふいに後頭部を殴られた。頭を抑えて振り向くと、不機嫌そうな表情の兄が立っている。
「お前、他人の部屋によくもまぁ図々しく入ってこれるな」
言いながら、兄は僕の服を掴む。
「ルーシーも、ダメだろ」
「いや、僕は……」
「うるさい。ほら、早く出る!」
「ごめん、コウ。またね」
兄に引っ張られるようにして部屋から出される僕に、ルーシーは申し訳なさそうに手を振った。兄が少し荒々しくドアを閉めると、ドアには自動的にロックがかかる。
部屋を出てなおも、兄は僕を引っ張り続けた。このまま実験室の外まで出すつもりのようだ。
「ねぇ、兄さん。ルーシーの部屋って……」
「部外者が口を出すことじゃねぇよ。黙ってろ」
「でも……」
「それ以上言うと殴るぞ?」
「もう殴ったよ」
オランウータンで注目を浴び、今度はルーシーの部屋へ入ったことで兄に叱られて注目を浴びる。なんとも恥ずかしい。僕は兄の手を振り払い、自分で実験室のドアを開けた。
「あまり深いところまで立ち入るな。……お前には関係のないことだ」
僕はとりあえず頷くが、たぶん顔中に不満の二文字がうかんでいることだろう。
「すぐに報告を送りますから」
兄に向かって、僕は少し嫌味っぽく言う。
「また頼むよ、コウ君」
あの壮年の研究員が、兄の後方で手を振った。彼も含めて研究員たちに一礼してから、僕は第八実験室を出た。
自分の部屋に戻った僕は、学内用コンピューターのメール作成画面を開いたまま止まっていた。
ルーシーと出かけた後は、必ず実験室に報告のメールを送ることになっているのだ。行った場所としたこと、それについてのルーシーの様子などをできるだけ細かく書くように言われている。いつもはテキトー、いや、適切に書くのだが、今日のことを振り返ると、どうしても最後に見た彼女の部屋が浮かんできてしまう。
学生宿舎の僕の部屋も狭い。必要最低限のものしかないが、それでもルーシーの部屋のように殺風景ではない。あんなに分厚いドアもついていないし。それはともかく、僕があげた絵本や何かはどこへ行ったのだろうか。何より、あの部屋でルーシーは寂しくないのだろうか。あの部屋で、ルーシーは誰と会話しているのだろう。
知能は僕たちを凌駕しているルーシーだが、精神的にはまったく成長していない。幼児のそれと言っていいだろう。純粋で、無垢とも言えるかもしれない。思ったことはすぐに口にし、誰彼問わず自分のことを話したがる。何にでも興味を持つし、何でも深く考える。ただ困るところは、ごまかしが効かない点だ。まるで機械のように計算し検討していく彼女は、機械と同じように明確な答えを求めるのである。だからときどき、僕も彼女に答えてあげることができない。
僕はとりあえず、今日の僕たちの行動をつらつらと打ち込み始めた。最後に、ルーシーに神について聞かれた点に触れておく。本を貸したことまでは書かないが、たぶんルーシーは研究員に尋ねるだろう。
僕は宗教家でもないし、何かを信仰しているわけでもない。けど僕たちは、ヒトと、それを超えた存在としての『神』を無意識のうちに認識している。ルーシーに貸した本にも、そんな風なことが書いてあった気がする。人類史の上では、「ヒトは神によって作られた」と考えられていた期間がある。ヒトがまだ地面の上にいて電気さえない時代からダーウィンが現れるまでだから、相当長い時間である。本の中でもだいぶ行を割いていた。だからルーシーも、きっとこの「神が云々」という辺りがなかなか理解できなかったのだろう。
確かに、ヒトの発生にはいまだ謎が多い。猿人と新人との境のミッシングリングも、まだ完全にはつなげられていない。サルとヒトとの分かれ道は、いまだにうまく説明できないのだ。ならばやはり、過去の人々が言うように『神』が人を作ったのだろうか。けれども人が文化・文明を築いていく過程で、それを説明する存在としてうまれたのが神だ。そう考えれば、人が神を作ったといえるだろう。けど実際、人はヒトの上に立つ“神”のような大きなものの存在をどこかで認識している。
なら、ルーシーは?
人に作られた新しい“人類”ルーシーは、ヒトにとって何なのだろう。いや、ルーシーは何なのだろう。まだ世に知られていないルーシーの存在は、どのように世界に配信されるのだろう。そのときルーシーは、ヒトとして認識されるのだろうか。二足歩行や言語能力を人間の定義としてあげるなら、ルーシーは十分にそれを満たしている。だが、彼女は実験室で生まれた。研究員の誰かの細胞を基にし、おそらくあの水槽の中で培養されたのだろう。彼女は、ヒトとして生を受ける過程でのあらゆる『無駄』を排除し、ただただ優れた質を追及する上で生まれてきたのだ。人の姿をしてはいるが、自然の法則に則って生まれたヒトではない。
そんなルーシーのヒトを超越した体質や知能は、もしかしたら今まで人が描いてきた神となりかわってしまうかもしれない。いや、神が人を作ったとするなら、ルーシーという新しい“人類”を作ったヒトはルーシーにとっては神となるのだろうか。たぶんこのままいったら、研究員の真似をしてルーシーもより新しい“人類”を作ってしまうかもしれない。そうしたらルーシーは、本当の意味で神になってしまうのか。
だがルーシーは今、第八実験室ではただの実験動物としか見られていないように思える。あの部屋も、僕にはルーシーを閉じ込めておく牢のようにさえ見えた。僕が彼女にあげたものも、何もなかったし。
もしかしたら、本当にそんな扱いを受けているのかもしれない。ルーシーが手を繋ぎたがるのは、普段、一人ぼっちでいるからではないだろうか。いつも誰かと手をつないでいるからではなく、誰も手をつないでくれないから、なのかもしれない。誰も、ルーシーを人として扱っていないからかもしれない。ルーシーは、ただ大切な道具でしかないのかもしれない。
これはもしかしたら、歴史の上での“神”に近いのではないだろうか。人によって作られたヒトを超える存在であり、歴史にも大きくかかわってきた。“神”という名詞の裏には、何も存在しないにもかかわらず。
「ダメだ……」
僕は頭を振った。考えれば考えるほど深みに嵌っていく。頭がおかしくなりそうだった。たぶん、答えは見えてこないだろう。ヒトが地上での生活を失ってからはないが、過去の地上の人々は超自然的な現象の説明をふまえて神の存在を定義していたという。超自然的な現象つまり奇跡というものを含めるなら、たとえばサルがヒトへ進化したことなどを考えたとき、神が人を作ったといえるかもしれない。だが、神という言葉は人が作ったものだし、もちろん神という存在を定義したのも人だ。
曖昧でぼやけている神の姿、誰も見たことのない神の“存在”が、果たしてルーシーに理解できるだろうか……。おそらくそれを問うであろうルーシーに、兄たち第八実験室の研究員は明確に答えることができるだろうか。
「そうだ」
僕は、一度閉じたメール作成画面をもう一度開いた。
兄に聞きたいことがある。不満がたまったせいでもあるかもしれない。僕もなんだかんだ言ってルーシーに関わっているのに、兄はいつも僕を部外者扱いするのだ。今日のこともそうだ。確かに僕は部外者でしかないけれど……。
実験室に送ったものと似たような内容を打ち込み、それからは急にキーボードを打つ手が早くなった。
兄は、ルーシーをどう思っているのだろうか。
兄にとって、ルーシーは何なのだろう。
読み直さないでそのまま送信し、僕は作成画面を閉じた。
3 ルーシー
「なんでダメなんですか!?」
どうしようもないことなのに、僕はガードマンに対して声を荒げた。
IDカードを預けても、入棟許可が下りないのだ。
「研究室の方で拒否をしているようで……」
困ったように呟きながら、彼は僕にカードを返してくる。
「そうですか……どうも」
カードを受け取り、僕は一路、学科棟へ走った。
あれから二週間、僕はルーシーに会っていない。実験室から、会えないという旨のメールがくるのだ。先週も、そして今週も。
何か嫌な予感がして、僕は実力行使に出ることにした。建前上、今週の僕は実験室からのメールを見ていない。僕はいつも通り、ルーシーを迎えに行くことにしたのだ。だが、正面ゲートは許可が下りない。入らせてもらえないという事実が、僕の不安を一層強くしていく。
学科棟へ入った僕は、壁に設置された金属のドアの前で止まった。教員たちがいつも利用する、学科棟と研究棟をつなぐ通路の入り口である。
僕はドアの脇についている内線にIDカードを挿入し、研究棟の事務室へかけた。IDカードの情報が事務室へ送られたので、もう僕は名乗る必要がない。
「あ、すいません。第八実験室のレイ=アイクをお願いします。えっと……昨日、緊急入院した母の件で」
咄嗟に口をついた言葉にもかかわらず、受話器の向こうでは慌てて内線をつないでくれた。本当は実験室へ直接かければいいのだろうが、もし他の研究員が出たらその場で内線を切られるかもしれないと思ったのだ。
兄は、意外に早く出た。
〈今忙しいんだよ! くだらない冗談につき合ってる時間はねぇの。大した用件じゃなかったら、殴るぞコラ〉
僕らの母は風邪一つ引いたことがない。だからもちろん僕の嘘が通じるわけもなく、兄は呆れたようなイラついたような声で内線に出た。
「今、教員用通路の前にいるんだ。ゲートから入れてもらえなかったから、こっちに回ったんだけど。そっちからここ開けてくれない?」
〈……何の用だ? メール、見なかったのか?〉
早口で言った僕に、兄は少し声を潜めて返してきた。
実験室からのメールは見ている。ついでに言うと、兄からの返事は返ってこなかった。
嘘をつくか、本当のことを言うか。僕は変な汗をかいていた。受話器を握る手が強張り、奇妙な緊張感に鼓動が早まっている。
「……見たよ。見たけど……ルーシーには関係ないんだ。いや、あるけど。明日テストで必要なレジュメ、ルーシーに渡した絵本に挟んだままなんだ。どの本だか覚えてないから、直接行って探したいんだよ」
受話器を当てる耳が熱くなっていた。兄の返事を聞くのが怖い。もちろんそんなレジュメなんてないし、明日はテストだってない。自分で言ってて、なんともわかりやすい嘘だと思った。貶すなら貶す、信じるなら信じるで早く返事をしてほしい。なのに兄は、何を考えているのかしばらく黙っていた。
「兄さん、お願い。一生のお願いだから!」
久しぶりに使ったフレーズだ。兄は受話器の向こうで、ため息をついたようだった。
〈…………すぐに済ませろよ〉
長い間をおいて、兄は低い声で一言だけ返してきた。向こうで受話器が置かれる音がすると同時に、僕の目の前のドアが開く。僕は少し乱暴に受話器を置いてIDカードを取り、ドアをすり抜けて通路を走った。
たぶん兄も、僕の言葉が全部嘘だとわかっただろう。兄がなぜ通してくれたのかはわからないが、そんなこと、今はどうでも良かった。
滑り込むようにしてエレベーターに乗り込み、息切れが収まるまえに地下二十階につく。端末にIDカードを通すと、パスワードを入れなくてもドアが開いた。兄が来賓扱いで設定してくれたのだろう。
いつも入りづらい第八実験室だったが、今日ばかりは違った。端末にIDカードを通し、ドアが開ききる前に実験室へ入り込む。
「あ、ちょっと君……」
研究員が僕に声をかけたが、聞こえなかったことにした。僕は白衣の研究員たちの間を潜るようにして、先日訪れたルーシーの部屋を目指す。
「ルーシー!」
ドアについている窓を覗くと、そこには僕の見たことがないルーシーがいた。以前会ったときよりも、ルーシーはまた少し成長していた。十四、五歳だろうか。身長も少し伸びたような気がする。だが、それだけではない。
ルーシーは白い検査着のような服を着ていた。それもうっすら汚れており、真っ白とはいえない。頬は痩せこけ、目の下には深い隈ができている。短い髪もぼさぼさだ。彼女は床に座りこみ、ベッドに寄りかかるようにして布団に顔を埋めていた。かと思うと立ち上がり、片手で頭を抑えながら部屋をふらふらと歩き回る。するとまた思い出したように座り込んだ。まるで動作を決められた人形のようで、いつものような生き生きとした雰囲気はない。
僕は、重いドアを力いっぱい引いた。思い余ってよろめいたが、今はなりふりかまっていられない。ドアがロックされていたはずだということは、僕の頭の中にはまったくなかった。
「ルーシー!」
僕は座り込んでいるルーシーに駆け寄り、床に膝をついて彼女の肩を掴んだ。サイドボードにあった薬はほとんど空になっており、床には割れたビンやさまざまな色の錠剤が散らばっている。
「ルーシー、ルーシー! ねぇ、どうしたの!?」
「……」
ルーシーは光のない目で僕を見つめ、肩を掴む僕の手に触れた。
「……コウはヒト? ヒト、ナニ? わたしは?」
ルーシーは僕の手を軽く払い、立ち上がった。
「頭が痛いの……。 わたしは何? ヒト? 違うの?」
自分の額に手を当てて、床に膝をついたままでいる僕の周囲をぐるぐる歩き回る。サイドボードにぶつかると、ルーシーは設定された機械のようにビンを手にとり、空いている手の上で逆さまにした。一振りでおちた錠剤を、そのまま口に放り込む。
「ルーシー、こっちへ来るんだ」
あのフラッドとかいう研究員が、ルーシーの部屋に入ってきた。僕の方をちらりと見てから、彼はルーシーの腕を掴む。だがルーシーは薬のビンを放り投げ、激しく頭を振って彼の腕を振り払った。
「ルーシー!?」
「ルーシー、ダメだ!」
ルーシーはフラッドの腕を掴みなおして捻り上げ、大きく一歩踏み出してからドアの向こうへ投げ飛ばした。それからまた思い出したように頭を抑える。ドアの向こうでは、投げ飛ばされたフラッドを研究員が助け起こしていた。ルーシーを恐れているのだろうか。彼の他は、研究員たちは部屋へ入ってこない。
「カミはヒトを作ったの? ヒトがカミを作ったの? なら、わたしは?」
「ルーシー……」
「わたしもヒト、作れるよ? ダメなの? ヒトはわたしを作ったのに。わたしは……わたしはヒトじゃないの?」
「……」
僕はやつれたルーシーを見上げた。
ルーシーは思考のループに嵌ってしまったらしい。僕のせい? 僕の貸した歴史の本のせいだろうか。それとも、答えをはぐらかしたであろう研究員のせいだろうか。悩み始めたルーシーは、研究員たちに何かしら質問を投げかけたに違いない。だって彼女は、気づいたことも疑問に思ったことも何でも口にするから。
「ヒトはヒトを殺すの? なぜ? 何が違うの? カミが決めたの? ヒトが決めたの?」
「……」
「わたしはどうして生まれたの? 何のために?」
ルーシーは僕の前に座った。床に手をついて、何かを探るようにして下から僕を覗き込む。
「ねぇ、わたしは……ナニ?」
僕はルーシーを抱きしめた。痩せたルーシーの肩は細く、異常なほどに熱い。
「わかんないの。全然わかんないの!」
ルーシーは僕の腕をぎゅっと掴み、声を震わせて泣き始めた。伸びた爪が食い込んで痛い。けど、どうでもよかった。ただ、僕の首に落ちてくる涙の熱さだけが伝わってくる。
「もういいよ、ルーシー。もう何にも考えなくていいから……」
「頭が痛いよ! 痛いよ! わかんないよ!」
「考えなくていいよ。もう、お願いだから……」
「わかんないよ!! コウ、わかんなっ、う、ぁあ――」
言葉の途中で、ルーシーは急に痙攣した。ルーシーの体重がかかってきて、僕ははじめて研究員がそこまで来ていたことに気づいた。研究員の手には針の長い注射器があり、ルーシーは僕の腕を掴んだまま動かない。
「何を……」
僕が尋ねる間もなく、研究員は僕からルーシーを引き離した。肩を抱えられて項垂れるルーシーを、あっという間に研究員たちが囲い込む。
「早く移すんだ!」
「お前たちは器具を――」
「脳の損傷は――」
怒声のようなもの飛び交い、ルーシーが実験室へ運ばれていく。
「ルーシー!!」
立ち上がって追おうとした僕の前に、兄が立ち塞がった。脇を通り過ぎようとした僕の腕を、兄が掴んで引き止める。
「お前が探してた本、あったぞ」
低い声で兄が言う。片手には、確かに僕がルーシーへ渡した絵本を一冊持っていた。存在するはずのないテストに必要な、存在するはずのないレジュメの挟まった本だ。僕は兄の顔を見るが、兄は僕と目を合わさない。
「これで用が済んだだろう。帰れ」
「でも、ルーシーが――」
「お前には関係ない!」
「……」
「部外者は早く帰れ」
兄は僕に絵本を押しつけた。僕は兄に背を押されるようにして部屋を出、俯いたまま実験室を出た。
僕の服が、僕のものでない血で染まっていることに気づいたのは、一人エレベーターに乗っているときのことだった。
実家の住所を書いて着払いにマルをし、ダンボール箱に配送表を貼り付けた。
これで何個目だろうか。数日かけて、だいぶ多くの箱を作った。もうすでに発送したものもある。
結局、あの日が最期となった。次の日、僕がルーシーとの面会を許されたときには、ルーシーは白く曇るケースの中で眠っていた。あの無邪気な笑顔はどこにもない。痩せこけた血色のない顔は無表情で、ともすればどこか淋しそうにも見えた。いつもみたいに手をつないであげたくても、僕はただ彼女の顔を見つめることしかできなかった。何も言えず、涙さえ出ず、ただ呆然とルーシーを見つめるだけしかできなかった。
僕がアカデミーに退学願いを提出したのは、その次の日のことである。
ルーシーは生きていた。どのようにして生まれたかとか、新しい“人類”であるとかなんて関係ない。普通に生きているヒトだった。僕にとっては。でも第八実験室では、ルーシーはただの試作品であり、実験材料だったのだ。ルーシーの眠るケースは、本当に博物館のショーケースのようだった。
ルーシーの死因は、重度の精神的なストレスによる疲労、拒食、過度の薬物摂取とそれに伴う副作用だとか中毒だとか。聞かされたけどよく覚えていない。
僕は、成長したルーシーは精神的にも少し成長したのだと思う。自分という存在を認識しようとしたとき、たぶん自分の存在の矛盾に気づいたのだろう。自然の法則に従わずに生まれた彼女は、自分がどこから来てどこへ行くのかを知らなかった。そのときに本で人類史を知り、“神”というものを知り、考え、すべてに答えが出なかった。考えて考えて、彼女はおかしくなってしまったのだろう。飢えと混乱の苦しみを抱えて、まったく答えの見えない思考の闇を彷徨った挙句にその命を失ったのである。
ヒトは“神”ではない。
自然の中に発生した一つの種でしかないのだ。越えられない一線があるはずだ。それを越えようとしたから、ヒトは地上の生活を失ったのだろう。ヒトはまた、その線を越えようとした。だからルーシーが生まれ、ルーシーを失ったのだ。
……ルーシーは、なぜ死ななければならなかったのか? こんなことなら……ルーシーはなぜ、この世に生を受けたのだろう?
僕はぶんぶん首を振ってから、ダンボール箱をドアの側へ運んだ。
ちょうどそのとき、インターホンが高い呼び出し音を立てた。誰とも会う気はしない。最近はいつも居留守を使っていた。インターホンも留守対応にしてある。伝言があれば、吹き込めるようにもなっている。しかしインターホンは、続けざまに三回鳴った。随分しつこい来訪者だ。でも、僕に出る気はない。
無視してドアに背を向けたとき、今度はドアが荒々しく叩かれた。
「おい、コウ! てめぇ、さっさと開けろよ! 暴れるぞ、コラ!」
兄だ。しかもだいぶ、ストレスが溜まっているとみた。こいつは厄介だ。
僕はしぶしぶチェーンを外し、ドアのロックを解除した。僕が開ける前に、兄は強引にドアを開ける。兄は白衣のままだった。
「一回鳴らしたら出ろよな!」
「……ごめん」
謝ると、兄はふんと鼻を鳴らしただけでそれ以上は言わなかった。普段なら拳の一発でも飛んでくるところだろう。しかし、兄も少しだけ普段と違った。兄は僕と目を合わさず、ただ偉そうに腕を組み、背でドアを押さえたまま立っていた。
「……何の用? 入れば?」
「あぁ。……いや、すぐに戻る」
兄はドアだけ閉めて、それに寄りかかった。
「……帰るんだな?」
「……うん」
僕はアカデミーを辞める。退学願いが認可されたら、すぐに実家へ帰るつもりだ。だが僕は、秘密裏に進められていたルーシーの件に関わってしまった。そんな僕を、アカデミーが外に出してくれるだろうか。もしかしたら、退学の認可はおりないかもしれない。もっとも、そのときにはこちらにも考えがあるが。
今後の身の振り方は、実家に戻ってから考える。でも、アカデミー関係の施設へだけは就職しようとは思わない。
「お前の退学願い、さりげなく承認済みのところへ混ぜておいた」
「ありがとう。……勝手にやって平気なの?」
「バレやしないさ。たぶん、両日中に許可がでると思うぞ」
「うん。……ねぇ、兄さん」
僕が呼ぶと、兄はこちらを見た。でも今度は、僕が兄から目を反らせた。言葉を続けようかどうしようか。僕の鼓動が、妙に早くなった。
「……ルーシーは、どうなるの?」
「あぁ……」
研究員のフラッドは、ルーシーの遺体をこのまま冷凍保存すると言っていた。病理解剖してから標本として保存するか、脳や損傷を受けた内臓を復元して再生させるか。細胞のサンプルが保存してあるから、それも不可能ではないらしい。「少なくとも当分は廃棄しない」と言っていた。彼らにとってルーシーは敬意を払うべき遺体ではなく、実験動物の死体なのだろう。
「……部外者が口を出すことじゃない」
「……」
「……生命倫理の問題で真っ二つだよ、今の実験室は」
兄は、ポツリと呟いてドアに手をかけた。僕が顔をあげたとき、兄はもうこちらを向いてはいなかった。
「気をつけて帰れよ。親父たちによろしくな」
振り向きもせず、兄はドアを開ける。
「兄さん! ……兄さんにとってルーシーは……」
僕の声は、無意識のうちに大きくなっていた。これだけは聞きたかった。ずっと気になっていたから。でも兄は、ドアを半分開けたままの状態で止まっただけだ。何も言わない。
「ねぇ! 兄さ―」
「あいつはあいつだよ」
兄の声は、少し震えていた。
「ほかの何者でもない、名前を持った生命だ。俺たちと同じヒトだ。俺たちに、あいつをどうこうする権利はない」
「……」
「……あぁ、そうだ。荷物、着払いにするとお袋に殴られるからな」
ポソっと言い、兄はそのまま僕の部屋を出た。音の出ないように、そっとドアを閉める。兄らしくない行為だ。けれど、なんとも兄らしかった。
急に膝の力が抜け、僕はドアの前に座り込んだ。顔が熱かった。目が霞む。嗚咽が漏れる。床についた手に、大粒の涙が落ちた。
今見たばかりの兄の後ろ姿に、ルーシーの後ろ姿が重なる。瞼の裏でルーシーが振り向き、満面の笑顔を浮かべる。ルーシーは……幸せだったかな?
僕の霞む目に、何かカラフルなものが写った。あの日、苛立つ心のままに放り出した絵本だ。ベッドの下に入り込み、そのままだったらしい。僕は床に手をついたまま前進し、絵本に手を伸ばした。
『空の人ユート』と『虹の橋を渡って』。僕が最後に買ってあげた本だ。結局、二冊とも返って来てしまった。
精神と体が分離したルーシーは、空の上で彼女が気にしていた神様に会えたのだろうか。そんなことよりも、彼女が行った空は絵本のように青いのだろうか。せめて彼女がいく空だけは、澄んだ青であってほしい。
[ルーシー]という名前は、誰からも大切にされる名だ。僕たちヒトの祖先として、確かに存在した一つの生命として、尊敬し、愛すべきものである。僕たちヒトは空を失い、地上を失った。もうこれ以上、何かを失ってはいけない。
僕たちは、[ルーシー]を忘れてはいけない。
僕はルーシーを忘れない。
ルーシーの名を忘れない。
おわり
