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【神様にされた怨霊たち】序章 御霊信仰

 今年もお正月、多くの人が神社へ足を運んだだろう。家内安全、合格祈願。掃き清められた境内、厳かな空気。私たちは迷わず、そこにいる「優しい神様」に手を合わせる。
 けれど、少しだけ視点をずらすと、別の顔が見えることがある。御霊信仰とは、天災や疫病などの禍を、政争などで無念の死を遂げた者の「怨霊」の仕業と見なし、これを丁寧に鎮め「御霊」として祀ることで、守り神へと変えようとする、日本独特の思想だ。
 最初に断っておく。これは歴史の真偽を暴く論文ではない。古代史のあちこちに散らばる説の中から、日本人の心に残る「怨霊のロマン」を拾い集める文化エッセイである。だから断定は避け、並べて眺めて、風景の見え方が変わる面白さを味わいたい。
 私が御霊信仰に興味を持ったのは、地元の本坂峠にひっそり建つ橘逸勢神社だった。以前このブログで簡単に紹介した「親孝行な娘」の話は美しい。しかし京では、逸勢は御霊会で祀られるほどの怨霊の一人として畏れられていた。優しい逸話と、恐れられた記憶——その両方が、同じ人物に重なっている。
 
 しかし話を始める前に、まず御霊信仰そのものについて触れておきたい。この不思議な思想が形を取り始めたのは、奈良の終わりから平安の初めだった。政争で倒れた人々の霊が畏れられ、863年(貞観5年)5月、神泉苑で史上初の国家的な御霊会が執り行われた。そこに祀られた六柱の御霊の中に、崇道天皇(早良親王)と並んで、橘逸勢の名があった。都が公式に「怨霊を神に変える」儀式を始めた、重要な瞬間だ。
 やがて平安中期以降、菅原道真、平将門、崇徳天皇が「日本三大怨霊」と呼ばれるようになる。ただし歴史学者の山田雄司が指摘するように、この三人という括りが広く定着したのは、江戸時代の読本や歌舞伎などの影響が大きい。怖れは時代ごとに語り直され、形を変えてきた。
 さらに遡れば、神話の領域にも同じ眼差しを向けることができる。大国主命の「国譲り」を敗北と読み替え、出雲大社に祀られたのは、怨霊を鎮めるためだったのではないか。梅原猛が『隠された十字架』で提示したこの説は、証拠に乏しいとされるが、想像力を強くかき立てる。
 奈良の大仏にも、似た影が落ちている。天平の天然痘大流行のさなか、聖武天皇が国を挙げて東大寺を建立した背景には、長屋王を自死に追い込んだ藤原四兄弟が次々と病死した怪異を、長屋王の怨霊の仕業と結びつける当時の人々の怯えがあったという見方もある。仏の穏やかな微笑みの奥に、古代の人々の切実な恐怖と祈りを読むこともできる。
 こう考えると、初詣も七五三も地鎮祭も、見え方ががらりと変わる。地鎮祭は「その土地の元の主の怒りを鎮め、場所を借りる」という、御霊信仰の小さな再演だ。全国各地の神社を見渡すと、大国主命を祀る社は驚くほど多い。そこにもまた、敗者を神として迎え入れる日本人の感覚が隠れているように思えてならない。

 これから案内するのは、神様と怨霊のあいだを歩く、小さな旅である。あなたの氏神様は、本当に「優しい神様」だけだろうか。その社に祀られているのは、かつて誰かに恐れられ、そして祈られた存在かもしれない。
 次回は第1回「 橘逸勢 — 本坂峠に眠る「三筆」の怒り」。地元浜松から始めます。


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新苦労の適当コラム ありがとうございます。心より感謝申し上げます