【八太郎殿の生活】第一章 みかん最中ひとつで命を拾った男
時は平成の御代。
舞台は愛知県東栄町の山奥である。そこには、親も分からぬ、生まれたばかりの赤犬の仔がいた。毛並みは薄汚れた茶色。耳は片方だけ妙に垂れ、目はたぬきのような三角。
「この犬、貰い手がつかなきゃ処分になるよ」と、すでにその運命は決まっていた。
その報せを聞いた男が一人、いた。奥浜名湖・三ヶ日町に住む、ごく普通の男である。
その男は、なぜかその日、三ヶ日名物のみかん最中を一個、懐に入れていた。
「じゃあ、この最中と引き換えでどうだ」
今思えば、あまりにも軽すぎる取引であった。
人間社会なら、命と最中を交換するなど、正気の沙汰ではない。
だがその日、男は正気を失っていたのかもしれない。
あるいは、運命という名の見えざる手が、男の背中をそっと押したのかもしれない。赤犬の仔は、みかん最中一個と引き換えに、男の腕の中に収まった。
その瞬間から、この駄犬の運命は、大きく、そして永遠に、ねじ曲がったのである。
男は仔犬を家に連れて帰り、思いっきりシャワーのお湯を浴びせた。
汚れを落としてみると、案の定、奴は立派な「赤犬」であった。
どこからどう見ても、かつての日本の田舎道を駆け回っていた、あの雑種中の雑種である。血統書など、あるはずもなかった。あったとしても、それは「どこの馬の骨とも知れぬ赤犬」と書かれていたことだろう。
男は、その仔犬に名前を授けた。
「お前の名は、八太郎だ」
源氏の棟梁、八幡太郎義家公にちなんだ名である。
なぜ駄犬に、そのような立派な名を付けたのか。男自身にも、よく分からなかった。ただ、なんとなく「この犬は、ただでは済まなさそうだ」という予感だけは、あった。
その予感は、正しかった。
八太郎は、家に来たその日から、すでに「ただでは済まない犬」であった。
まずは、男の高級髭剃りを最初の犠牲にした。次に、ダンヒルの財布。次に、同じくダンヒルの小銭入れ。高級家具も、次々と牙にかけられた。
散歩に出れば、他の飼い犬に喧嘩を売り、返り討ちに遭い、それでも懲りずにまた喧嘩を売った。
そしてある日、八太郎は恋をした。
相手は、近所に住む血統書付きの立派なお嬢様犬であった。八太郎は、そのお嬢様犬の前で、まるで貴公子のように振る舞い、尻尾を振り、時には優雅に座ってみせた。
だが、お嬢様犬の飼い主は、当然のように顔をしかめた。
「あの赤犬と遊ばせたくない」と。
それでも八太郎は諦めなかった。
毎日のようにその家の前を通り、遠吠えをし、恋心を燃やした。
だが、やがてそのお嬢様犬は、この世を去った。
八太郎は、その後しばらく、その家の前を通るたびに立ち止まり、静かに鼻を鳴らしていたという。
こうして八太郎は、ご主人様に大迷惑をかけ続けながらも、松坂牛を食い、名古屋コーチンを食い、キャビアを舐め、うな重を味わい、しゃぶしゃぶにすき焼きに特上カルビを平らげながら、十九年十カ月という、駄犬としては異常な長寿を全うしようとしている。
そして今、その八太郎は、私の隣で静かに眠っている。
私は、かつて「ご主人様」であった男である。であったと書くと、八太郎はもうこの世にいないように聞こえるかも知れないが、奴はいまもしぶとく生きている。
要するに、私は今はただの、源氏の棟梁にご奉公する、忠実な御家人に過ぎなくなったということだ。
さて、ここからが本番である。
八太郎殿の、壮絶にして大迷惑な生涯を、どうかゆっくりとお読みいただきたい。
(第一章・了)*作者感想「なんだかこの話、ちょっと期待されてるけど大丈夫か?」

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