見出し画像

応仁の乱を生きた人々~宗長 一休に狂い、世俗を愛した男

 きれいな文化人、という言い方では足りない。


 宗長という人には、もっと生臭いところがある。歌を詠み、言葉を磨き、風雅を知りながら、その実、権力の匂いも、人の欲も、世の渡り方もよく知っていた。東山文化の担い手の中でも、これほど露骨に「生きること」と「文化すること」が絡み合っている人物は、そう多くない。


 宗長は宗祇の弟子である。

 だが、ただ師の後ろをついて歩いた人ではない。宗祇が言葉によって乱世の座をつなぐ巨匠だったとすれば、宗長はその技をもっと現実的に、もっと世俗の場へ持ち込んだ人だった。連歌師として諸国を歩き、大名たちと交わり、ときにそのやりとりの裏側にある利害や駆け引きにも触れていく。言葉は彼にとって芸であると同時に、世を渡るための道具でもあった。


 そこに一休宗純の存在が重なる。

 宗長は、一休に強く惹かれた。常識を食い破るような鋭さ、権威を笑い飛ばす毒、きれいごとでは済まない人間へのまなざし。その存在は、宗長の文化観にも少なからぬ刺激を与えたのだろう。一休には、整えられた文化の表面をひっかいて、その下にある欲望や愚かしさや哀しみをむき出しにしてしまうところがあった。宗長は、その泥臭さを間近で吸い込んだのである。この出会いは、宗長という人間を考えるうえで見逃せない。


 東山文化というと、どうしても静かで、洗練され、どこか澄み切ったものとして語られやすい。だが一休の周囲には、そんな清潔さだけでは済まない熱がある。笑いも、怒りも、執着も、色気も、俗気もある。宗長は、その熱を知ったうえで、なお文化の世界に身を置いた。つまり彼は、世俗を知らないまま風雅に生きたのではない。世俗のぬめりを知り尽くしたうえで、そこから言葉を立ち上げたのである。


 宗長の面白さは、ここで終わらない。


 彼は単なる芸能者でも、単なる文人でもない。大名たちのあいだを行き来し、結果として交渉や意思疎通を支えるような役割を果たす場面も少なくなかった。もちろん、表立って軍を動かすわけではない。だが乱世において、本当に重要なのは、刀を抜く瞬間より前に、誰が誰と話し、誰が誰の顔を立て、どこで空気を和らげるかという局面だったりする。宗長のような人間は、まさにその見えにくい場所で働いていた。


 言葉は、飾りではない。下手をすれば人を怒らせ、場を壊し、命取りにもなる。逆に、うまく置けば、敵意を和らげ、関係をつなぎ、次の一手を生む。宗長は、その怖さも効き目も知っていたはずである。師の宗祇から受け継いだのは、連歌の技法だけではない。言葉が人間関係の網の目の中でどう働くか、その現実感覚でもあっただろう。そして宗長は、それをさらに泥の深いところで使った。だから彼には、どこかしたたかさがある。


 理想に殉じるというより、現実の中でどう身を置くかを考える人間の顔である。だが、そのしたたかさを、ただの小利口さと見てしまうのは惜しい。乱世において文化を生かすには、清貧や高潔だけでは足りない。誰に近づき、どこで引き、何を語り、何を黙るか——そうした判断の積み重ねがあって初めて、芸も言葉も生き残る。宗長は、そのことを骨身にしみて知っていた。一休に惹かれたという事実も、そこに深く関わっている。


 一休は、聖と俗をきれいに分けない。悟りを語りながら欲望を見つめ、権威を嫌いながら人間を捨てない。その矛盾ごと引き受けるような生き方に、宗長は強く揺さぶられたのではないか。文化とは、汚れを知らぬ者のものではない。むしろ汚れを知り、欲を知り、愚かさを知った者が、それでもなお言葉や美を手放さないところに生まれる。宗長の人間臭さは、そのことをよく示している。


 宗祇が言葉だけで乱世を渡った人だとすれば、宗長は、言葉を携えて乱世の現場にもっと深く踏み込んだ人だった。旅をし、人に会い、場をつなぎ、ときに権力の周辺で現実の調整にも関わる。そこには風雅だけではない、汗のにおいと生身の体温がある。東山文化は、こういう人間によっても支えられていた。


 世俗を愛した、という言い方は誤解を招くかもしれない。だが少なくとも宗長は、世俗を軽蔑しなかった。人の欲、打算、見栄、弱さ、そうしたものを見ないふりはしなかった。そのうえで、なお言葉を信じた。いや、そういうものだらけの世界だからこそ、言葉の働きを信じざるをえなかったのかもしれない。


 東山文化とは、清らかな理想郷ではない。泥のついた現実の中で、それでもなお美や言葉によって人と人をつなごうとした者たちの営みである。宗長は、その最も人間臭い担い手の一人だった。


いいなと思ったら応援しよう!

新苦労の適当コラム ありがとうございます。心より感謝申し上げます

この記事が参加している募集