応仁の乱を生きた人々 第5回 山名宗全 後編
「なぜ、これほど燃えるのか」
西軍の本陣となった山名邸の奥で、山名宗全は赤ら顔をさらに紅潮させ、怒りと困惑の入り混じった声を上げていたかもしれない。
勝元の東軍と激突した応仁の乱は、宗全の予想を遥かに超える大火災を京都にもたらした。西軍の兵が放った火は北野天満宮を焼き、相国寺を灰にし、内裏にまで迫った。道には無数の死体が転がり、宗全を頼って都に留まっていた公家たちも、涙を流しながら地方へと落ち延びていった。
宗全の正義は「踏みにじられた者の意地を通す」ことだったはずだ。しかし、その意地を守るために、自分が愛し、守るべきはずの都が、自らの手で灰になっていく。有能な官僚が自らの正義を貫いた結果、多くの人材を失脚させ「妖怪」と憎まれたように、宗全もまた、己の正義の重みで周囲を破滅させていった。
担がれた神輿の重さ
戦いが2年、3年と長引くにつれ、宗全は何度も勝元に和睦の使者を送ろうとした。もはや勝ち負けではない、これ以上の破壊は誰も望んでいない——老将はそう気づいていた。
しかし、戦いはすでに宗全一人の意志では止められなかった。
西軍の陣中には、宗全を信じて国を追われた畠山義就や斯波義廉らがいた。彼らにとってこの戦いは「勝たなければ帰る場所がない」生存競争だった。宗全が勝元と妥協すれば、彼らは行き場を失う。
「宗全殿、いまさら引くなど我らへの裏切りか」
前線の武将たちの血走った目が、宗全の巨躯を睨みつける。
彼は誰よりも情義を重んじ、「頼ってきた者を捨てない」ことを正義としてきた男だった。だからこそ、彼らの怨念と絶望を振り切ることができなかった。かつては彼らを率いる大将だった宗全は、いつしか、引き返せない部下たちの重さに背中を押され続ける、孤独な神輿に成り果てていた。
切腹の拒絶、そして孤独な幕引き
文明4年(1472年)、東西両軍の疲弊は極限に達した。
宗全はついに勝元との単独講和を試みたが、西軍内部からの猛烈な反発に遭い、交渉は決裂した。
絶望した宗全は本陣の奥で自害を図ったとも伝えられている。側近たちに制止され辛うじて一命を取り留めたが、その背中はかつて「赤入道」と恐れられた面影もないほど、老いさらばえていたという。
「私は一体、何のために生きてきたのか」——そう自問したとしても、不思議ではない。
家を守るため、誇りを守るため、頼る者たちを守るために、すべてを捧げてきた。その結果が、味方からの不信と、焼き尽くされた都の廃墟だった。
翌文明5年(1473年)3月、山名宗全は西軍の本陣で病に倒れ、70歳の生涯を閉じた。
その死は劇的な戦死でも、名誉ある切腹でもなかった。ただ、時代の狂気に疲れ果て、魂が摩滅しきった末の、寂しい病死だった。
そして皮肉なことに、彼の死からわずか2ヶ月後、宿敵・細川勝元も追うようにしてこの世を去った。
少なくとも宗全自身は、天下を乱そうとして戦ったわけではなかった。
彼はただ、自分が信じる「武士の情義」という正義に、あまりにも忠実すぎたのだ。その正義が勝元の「論理」と衝突したとき、誰も制御できない大乱の怪物が生まれてしまった。
それぞれの正義が、それぞれを裏切り、誰も勝者になれないまま泥沼に沈んでいく——応仁の乱という悲劇の本質を、その巨躯にすべての怨念を背負って死んでいった老将の、冷え切った体温が何よりも雄弁に物語っている。
(第6回 畠山政長編に続く)
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