応仁の乱を生きた人々 第9回 一条兼良
「五百年来の伝来の書物、一時の灰と化す。悲しいかな、惜しいかな」
変わり果てた京都の街で、老公家は煙の立ち上る我が家の跡を見つめて、ただ立ち尽くしていた。
一条兼良。公家の最高位である関白を何度も務め、和歌・古典・有職故実(朝廷の儀式や先例に関する知識)のすべてを極めた彼は、当時「日本一の知恵者」と称された人物だった。彼の頭脳は、日本の伝統と教養の最高峰であり、動く国宝のような存在だった。有職故実書『公事根源』をまとめながら、一方で源氏注釈『花鳥余情』を耽美に読み解く。このふたつの顔の落差こそ、一条兼良の危うい魅力だった。
前シリーズ【敗者たちの幕末】で描いた渡辺崋山や高野長英が「新しい知」を武器に時代を変えようとしたように、兼良は「古典と先例」という過去から積み上げられた知を拠り所に、崩壊していく世界のブレーキになろうとした。しかし、応仁の乱という暴力の怪物がこの老学者に突きつけたのは、人間が積み上げてきた理屈や教養など、一振りの刀と一本の松明の前には一瞬で灰になるという残酷な現実だった。
言葉という名の無力な剣
応仁の乱が始まる前、兼良は将軍・足利義政の政治的助言者としても活躍していた。
義政が政治に迷い、大名たちが不穏な動きを見せるたび、兼良は熱心に意見を献上した。過去の歴史を紐解き、優れた王が国を治めた方法や、法と礼節が社会の命脈であることを、美しい言葉で書き連ねた。
兼良にとって、言葉とは世界を正しく導く剣であり、教養とは武士たちの力を律するための檻であるはずだった。
しかし、応仁元年(1467年)に大乱が勃発すると、大名たちは兼良の言葉など目もくれなかった。細川勝元も山名宗全も、「ここで引けば我が家が潰れる」という生存本能だけで動いていた。
「人間が千年かけて築いた理性が、なぜこれほど簡単に敗れるのか」
兼良の悲劇は、彼が「あまりにも物事を知りすぎていた」ことにあった。この戦いがどれほど不毛で恐ろしい結末を迎えるかを、彼の明晰な頭脳はすべて予見していた。それなのに、自分の言葉が誰の耳にも届かない。知恵者が無知な暴力の渦に巻き込まれるとき、その精神の摩滅は肉体の傷よりも遥かに深い。
知の遺産の崩壊
文明4年(1472年)の冬、兼良にとって最大の悲劇が起きた。
東西両軍の激突によって一条家の邸宅と、そこにあった広大な文庫が焼失したのだ。そこには兼良が何十年もかけて集め、書写し、守り抜いてきた日本の歴史・文学・神道の貴重な古典や記録が詰まっていた。それは一条家だけのものではなく、日本という国の「記憶」そのものだった。
それが一夜にして黒い灰となった。
家を失ったことや衣服を失ったこと以上に、兼良は「知の遺産」が失われたことに深い絶望を味わった。70歳を過ぎた老学者は、焼け野原の都を捨て、一振りの筆だけを握って奈良の興福寺へと落ち延びた。その背中は、教養が武力に完敗した時代の敗者の姿そのものだった。
泥中の蓮として
しかし、一条兼良という人間の本領が発揮されるのは、この絶望の底に落ちてからだった。
彼は奈良の地で、ただ嘆いて余生を過ごすことを拒んだ。
「本が焼けたなら、私の頭の中からもう一度書き起こせばいい」
兼良は記憶を頼りに、失われた古典の注釈書を次々と執筆した。さらに、彼のもとには戦火を逃れてきた公家や、文化に飢えた地方の武士、禅僧たちが集まってきた。兼良は彼らを拒まず、『源氏物語』を講義し、和歌の会を催した。
都が地獄になろうとも、人間が「美しいものを美しいと思う心」を失わなければ、世界は必ず再生する。彼は身をもって、知性の砦を守り続けたのだ。
晩年、兼良は越前の朝倉氏など地方の守護大名に招かれ、はるばる地方まで講義に出向いた。かつては最高権力者でなければ受けられなかった最高峰の教養が、戦乱によってかえって地方へと広がっていったのである。のちの戦国時代に地方文化が豊かに花開く土壌には、兼良が泥の中で撒いた種があったと言える。
文明13年(1481年)、一条兼良は80歳で生涯を閉じた。
彼が死んだとき、京都はまだ完全には復興していなかった。彼が愛した「美しい秩序」は、二度と元には戻らなかったかもしれない。
一条兼良という生き方の無謀さは、理性の通じない乱世に、理性という細い糸だけで世界を繋ぎ止めようとしたところにあった。
しかし、彼が最期まで筆を置かず、人間の知性を信じ抜いたその熱い体温は、焦土となった日本に、かすかではあるが消えない文明の灯火を残した。焼けた書庫は戻らなかった。しかし、人の頭の中に宿る知は、炎では焼き尽くせなかったのである。
(第10回 名もなき足軽・京の町衆編に続く)
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