応仁の乱を生きた人々 第2回 日野富子 後編
応仁元年(1467年)、ついに戦端が開かれた。
東西両軍の兵が入り乱れ、花の御所のすぐそばまで炎が迫る。昨日まで華やかだった京都は、瞬く間に煙と死臭に包まれた。
この未曾有の大乱の中で、富子の目に映った夫・義政の姿はあまりにも情けなかった。将軍でありながら戦を止めることもできず、御所の奥で酒を飲み、歌を詠み、やがて「東山に山荘を造る」などと言い出す始末だった。
「この人では、もう誰も守れない」
富子は夫への期待を完全に捨てた。戦を止められない将軍家に、大名たちは従わない。兵糧の徴発は続き、幕府の財政は破綻寸前となった。ここから、富子の「凄絶な現実主義」が本格的に牙をむく。
金こそが唯一の武器
富子は焼け野原となった都の四方に「関所(関米)」を設け、都に出入りする物資から容赦なく税を徴収した。米の買い占めや高値売りも行い、莫大な富を蓄えていく。
民衆や公家からは「乱世に私腹を肥やす悪女」と激しい非難を浴びた。しかし富子にとって、金は贅沢のためのものではなかった。
自ら軍勢を率いることのできない富子にとって、獰猛な守護大名たちと渡り合い、我が子・義尚を守るための、唯一の「力」だった。
彼女はさらに大胆な策に出る。東軍の細川勝元にも、西軍の山名宗全にも、等しく多額の金を貸し付けたのだ。敵味方双方に金を貸す——その姿は、まるで双方を消耗させることを狙っているかのようにも映る。
どちらか一方が圧倒的な勝利を収めれば、その大名が新たな権力者となり、将軍家を脅かす可能性がある。ならば双方に金を貸して戦いを長引かせ、互いに消耗させる。両軍が疲弊しきったときに、最後に残るのは金と権威を握った自分と義尚である——。
それは、極めて冷徹で、極めて孤独な計算だった。
届かなかった母の願い
文明5年(1473年)、富子の執念は一時的に実を結ぶ。夫・義政を隠居させ、9歳の義尚を九代将軍に就任させることに成功した。「将軍の母」として、名実ともに幕府の頂点に立ったのである。
しかし、彼女がすべてを賭けて守ろうとした息子は、思い通りには育たなかった。
成長した義尚は、世間から「悪女の子」「母の傀儡」と囁かれることを激しく嫌った。母の過度な保護と政治介入に反発し、自ら甲冑を着て近江の六角氏討伐に出陣する。母の影から脱し、自らの力を見せつけようとしたのだ。
長享3年(1489年)、悲劇が訪れる。陣鐘の音だけが、近江から虚しく響いてきた。義尚が25歳の若さで病没したという報せだった。
富子の世界は音を立てて崩れ落ちた。悪女と罵られ、都中に憎まれ、金を貪ったと怨まれながら守り抜いた我が子が、母との距離を埋められないまま、先に逝ってしまった。彼女が築いた富も権力も、すべては「義尚のため」という大義名分があったからこそ耐えられた。その目的を失ったとき、残されたのは莫大な富と、冷え切った孤独だけだった。
悪女の微笑みのなかに
義尚の死の翌年、かつての夫・義政も東山山荘で静かに世を去った。あれほど憎み、すれ違った夫婦だったが、応仁の乱という巨大な嵐に翻弄され、ともに多くを失った者同士でもあった。
富子はその後も足利義材を将軍に据えるが、やがて彼とも対立し、最後の権力闘争を繰り広げる。しかしそこに、もはや母としての情熱はなく、ただ「足利の家を存続させる」という、機械のような意地だけが残っていた。
明応5年(1496年)、日野富子は57歳でこの世を去った。死後も「強欲な女」との評判は続き、京の人々は冷ややかにその死を噂したという。
彼女は本当に、生まれながらの悪女だったのだろうか。
決められない夫の代わりに泥をかぶり、関所を設け、金を数え続け、敵味方に貸し付け、息子を守ろうとした日々。もし彼女が大人しい妻のままだったなら、室町幕府はさらに早く求心力を失っていたかもしれない。
「悪女」というレッテルは、男たちの都合の良い言い訳に過ぎないのかもしれない。彼女はただ、誰も守ってくれない乱世で、自分の足で立ち、必死に我が子を抱きしめようとした、不器用で、あまりにも現実を見過ぎた一人の母だった。
硬貨の冷たい感触の中に、確かに混じっていた母としての涙の体温を、私たちはまだ十分に知らない。
(第3回 足利義視編に続く)
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