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応仁の乱を生きた人々 第6回 畠山政長 後編

 御霊神社の深い森に、矢叫びと絶叫が響き渡る。
 畠山政長の軍勢は執念で畠山義就の猛攻をしのいでいた。しかし細川勝元からの十分な援軍は来ず、夜陰に紛れて政長は這う這うの体で森を脱出、勝元の屋敷へと逃げ込んだ。
 この私闘がきっかけとなり、細川勝元と山名宗全が本格的に動き、応仁の乱が勃発した。政長は東軍の主力として、義就への復讐の戦いに身を投じることになる。
 
 しかし、戦いが長引くにつれ、彼が命懸けで守ろうとした「畠山家の正統当主」という名分の価値は、恐ろしいほどに暴落していった。
 
 本国である河内・紀伊の領国は戦火と略奪で荒廃し、民衆や国人衆の怒りは頂点に達した。「大将たちが京都で不毛な争いを続けているせいで、俺たちの生活がめちゃくちゃだ」——政長の「正しさ」は、地元の人々にとってただの迷惑でしかなくなっていた。
   
   拒絶された「正義」
 
 文明17年(1485年)、決定的な事件が起きた。「山城の国一揆」である。
 京都の南、山城国の国人や民衆たちが武器を手に立ち上がり、長年自分たちの土地で泥沼の合戦を続けていた畠山政長・義就の両軍に対して、冷酷な拒絶を突きつけた。
 「お前たちの理屈など知ったことか。両軍とも、今すぐこの国から出て行け」
 国人や民衆から「正義などただの害悪だ」と突き放された屈辱は、政長にとっても義就にとっても、筆舌に尽くしがたいものだった。兵糧を断たれた両軍は、やむなく撤退するしかなかった。
 二十年以上にわたり正統性を信じて戦い続けた男が、足元の領国そのものを失った瞬間だった。
   
   最期の輝き
 
 それでも政長は諦めなかった。彼は足利義材を将軍に擁立し、再び管領として権力の座に返り咲いた。宿敵・義就が死んだ後も、その息子が立てこもる河内への遠征を強行した。これは政長にとって、人生最後の「家督を奪い返す戦い」でもあった。
 しかし、時代はもう彼の執念についていかなかった。
 
 明応2年(1493年)、遠征の陣中にいた政長のもとに、京都で日野富子と細川政元(勝元の息子)によるクーデター(明応の政変)の報せが届く。将軍がすげ替えられたのだ。
 またしても裏切り。支える軍勢は蜘蛛の子を散らすように逃げ去り、政長は河内の正覚寺で完全に孤立した。
 包囲された政長は、もはやこれまでと悟った。
 
 しかし、彼は泥まみれの敗者として死ぬことを拒んだ。手元に残った数少ない家臣たちと共に湯を沸かせ、体を清め、最高級の正装に着替えた。まるでこれから将軍の儀式に臨むかのような、一分の隙もない姿だったという。
 法を信じ、正統を信じ、そのために人生のすべてを戦乱に捧げた男の、最後のプライドだった。
 「私は、畠山家の正当な当主、室町幕府の管領として死ぬ」
 政長は見事な作法で自らの腹を切り裂いた。享年52。
 
 畠山政長という人生の悲劇は、「正しさ」という枷に縛られすぎたところにあった。
 彼がもう少し柔軟で、妥協を知る男であれば、都が焼けることも、彼自身がこれほど長い苦しみを味わうこともなかったかもしれない。しかし、彼が最期に見せた美しい正装の佇まいの中に、不条理な時代に抗い続けた、生真面目すぎる男の哀しい誇りが、確かに宿っている。

(第7回 畠山義就編に続く)


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