【鎌倉に呑まれた者たち】第2回梶原景時
組織というものは、ときに妙な理屈で動く。仕事ができる人間が、必ずしも好かれるとは限らない。むしろ、できるからこそ嫌われることがある。空気を読まない。融通が利かない。いちいち正しいことを言う。上には忠実だが、横の人間には愛想がない。しかも本人には悪気がない。平時なら重宝される。だが、空気が変わった瞬間、真っ先に切り捨てられる。梶原景時の生涯は、まさにそういう身につまされる話である。
景時という名から、多くの人がまず思い浮かべるのは「讒言の徒」という像だろう。仲間を陥れる、上に取り入る、告げ口ばかりする、陰険でねちねちした男——後世の語り口は、たいていその方向に傾いている。たしかに、そういう面もあったのだろう。源義経と対立し、頼朝に義経の危うさを吹き込んだ人物として語られてきたのも事実である。景時自身、敵を作りやすい言動の多い男だったに違いない。だが、彼をただの「嫌な奴」で終わらせてしまうと、この人の本質も、鎌倉という政権の冷たさも見えなくなる。
景時は、頼朝にとって非常に使い勝手のよい家臣だった。戦場での働きだけではない。実務能力があり、報告や監察が正確で、何より棟梁の意向をよく理解して忠実に動く。情に流されず、必要とあれば嫌われ役も引き受ける。組織の長にとって、こういう人間はありがたい。必要とされることと、愛されることは別である。景時は、どうやら愛されにくい人間だった。周囲と情でつながるタイプではなく、「あの人にも困ったところはあるが、切るのはまずい」と庇ってもらえるような可愛げにも乏しかったのだろう。
強い上司がいるあいだは、そういう人間も生き残れる。だが、その上司が消えた瞬間、積もり積もった鬱憤は一気に噴き出す。頼朝の死後、鎌倉は急速に不安定になった。二代将軍・頼家は若く、北条氏は外戚として力を強め、御家人たちはそれぞれ不満と自負を抱えていた。頼朝という巨大な重石で抑えられていた感情が、表に出始める。そのとき真っ先に危うくなるのは、みんなに嫌われていたが、上の力で守られていた人間である。
正治元年(1199年)、景時は結城朝光を讒訴したことをきっかけに、御家人たちの激しい反発を招いた。六十六人もの連署による弾劾状が将軍頼家に提出される。これは単なる個人的な不和ではない。「もうあいつではやっていけない」という集団としての意思表示だった。頼家は景時に鎌倉退去を命じる。頼朝の時代にはあれほど必要とされ、政権の実務を支え、嫌われ役も引き受けてきた男が、わずか数年でこの有様である。
ここに景時の痛いところがある。彼には役割があった。能力もあった。だが、いざというときに本気で「ここで景時を切るのはまずい」と踏ん張ってくれる味方が、ほとんどいなかった。能力だけでは組織では生き残れない。最後に人を支えるのは、情だったり、小さな貸し借りだったりする。「あの人にも困ったところはあるが、ここで捨てるのは寝覚めが悪い」と思ってくれる誰かが必要なのだ。景時には、それが決定的に欠けていた——あるいは、自分から作ろうとしなかった。最後まで、自分の役割を信じていたのではないか。頼朝のため、鎌倉のため、秩序のために働いてきたという自負が、彼にはあったはずである。その忠実さと実務的な真面目さが、かえって彼を孤立させた。
鎌倉を去った景時は、一族を率いて西へ向かった。家族も郎党も抱えたまま、行き場を失う。残ればもっとみじめな死が待っているとわかっていたのだろう。その屈辱は、想像するだけでも苦しい。自分は頼朝に忠実に仕え、鎌倉の秩序のために働いてきた。嫌われ役も引き受けた。その結果がこれか——。昨日まで同じ船に乗っていた者たちが、一斉にこちらを突き落とす。組織の怖さとは、案外こういうところにある。
景時は京へ向かい、朝廷に仕える道を探ろうとしたとされるが、途中の駿河国清見関付近で討たれた。正治二年(1200年)のことである。一族もろともに。華々しい合戦でもなければ、天下を賭けた最期でもない。ただ政権を追われ、行き場を失い、途中で殺される。あまりにあっけない。だが、そのあっけなさこそが、彼の敗北の本質をよく示している。
後世は彼に「讒言の徒」という札を貼った。たしかに景時は告げ口をしたし、他人の危うさを上に伝えることをためらわない男でもあった。だが、それは景時個人の性格の問題だけだったのだろうか。頼朝のもとで監察と報告を正確にこなすことが、そのまま彼の生きる術だった。その術が、棟梁の死後には一転して、みんなに嫌われる理由になった。景時は、頼朝という強い棟梁のもとでこそ生きることのできた、忠実で不器用な実務家だった。そして棟梁の死後、そういう人間が組織からどれほど冷たく切り捨てられるかを、これ以上ないほどはっきり示した。
畠山重忠が、立派すぎたがゆえに助からなかった男だとすれば、梶原景時は、有能だったがゆえに孤立した男だった。立派でも、有能でも、それだけでは助からない。鎌倉は、人の美点をそのまま命綱にはしてくれない。
次回は和田義盛。景時が有能で冷たく嫌われた男だとすれば、義盛は人が良く、情に厚く、愛された男だった。しかし、愛されることもまた、鎌倉では必ずしも人を助けない。
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