応仁の乱を生きた人々 第11回 一休宗純
「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」
応仁の乱が始まって間もないある年の正月、黒焦げになりかけた都の門前に、一本の棒の先に人間の「本物の頭蓋骨」を突き刺し、ゲラゲラと笑いながら練り歩く老僧の姿があったと伝えられる。
人々は彼を狂人と呼び、大名たちは顔をしかめた。しかし、民衆だけは、その不気味な姿の奥にある「何か」を感じ取り、静かに道を譲った。
男の名は一休宗純。大徳寺の高僧でありながら、形骸化した仏教界を痛烈に批判し、朱塗りの木刀を腰に差し、酒を飲み、肉を食い、戒律を恐れなかった風狂の禅僧である。
一条兼良が言葉の正理を信じ、名もなき足軽たちが生きる実利に生きたなら、一休はそれらすべての「虚飾」を剥ぎ取り、人間の生の本質だけを抱えて時代に突っ込んでいった。彼の奇行の奥で燃えていたのは、冷酷な時代に対する、むき出しの怒りと悲しみの体温だった。
高貴なる血と、泥の寺
一休の生涯には、重大な影が最初から落ちていた。彼は後小松天皇の落胤(公にできない皇子)として生まれたとされている。
本来ならば雲の上の宮殿で守られて生きるはずの命だった。しかし母が南朝系の血筋であったため、幼くして世俗から放り出され、泥まみれの寺へと預けられた。
彼にとって、室町幕府が誇る「権威」や「正統」など、自分という存在を闇に葬った欺瞞のシステムに過ぎなかった。
当時の禅宗(五山)は、将軍や細川勝元らの莫大な寄付を受け、華やかな文化のサロンと化していた。僧侶たちは出世を競い、高価な袈裟をまとい、裏で利権を貪る。
「悟りを開いたと抜かす奴ほど、金の匂いがする。お前たちの祈りは、一体誰のためのものだ」
一休は、彼らの「宗教という名の無理」が我慢ならなかった。大名から贈られた立派な印可状を火に投げ捨て、ボロ布をまとって街へ出た。権威の中に真実はない。真実は、飢え、苦しみ、今日を必死に生きる地べたにある——。
一休の風狂は、腐りきった体制に対する、命懸けの抗議だった。
地獄を歩く釈迦
応仁の乱が勃発すると、一休の懸念は最悪の形で現実となった。
大名たちがそれぞれの正義を叫んで始めた戦いは、京都を飢餓の地獄へと変えた。鴨川の河原には戦死者や餓死者の死体が山積みになり、悪臭が都を覆った。
昨日まで一休を「狂人」と呼んで眉をひそめていた高僧たちは、戦争が始まると自らの命と財産を守るため、そそくさと地方へ逃げ出した。
一休は逃げなかった。彼は死体だらけの街を歩き、餓死した子供の亡骸を抱き上げ、涙を流した。
「釈迦も達磨も、この焦土を見れば教えの無力さを嘆くだろう」
一休は漢詩を詠んだ。大名たちの野心を呪い、将軍の無能を罵り、死者を放置する世の冷酷さを怒鳴り散らした。
正月に頭蓋骨を掲げて歩いたのは、嫌がらせではない。
「将軍も、大名も、高僧も、その皮を剥げば皆この骨だ」
という、狂わんばかりの叫びだった。すべてが焼けていく時代の中で、一休の頭脳だけが、その不条理の核心を正確に撃ち抜いていた。
最後のパラドックス
乱の末期、一休は80歳を超えていた。戦争によって愛した大徳寺も焼け落ちた。
しかし文明6年(1474年)、将軍・足利義政と後土御門天皇の意向を受け、「大徳寺の住持になって寺を復興してくれ」という要請が届く。
生涯、権威を嫌い、組織を呪い、アウトサイダーとして生きてきた男が、人生の最後にその組織の頂点に立つことを求められた。これほどの歴史の皮肉はない。
一休は悩んだ末にそれを受け入れた。ただし、きらびやかな紫の袈裟を着ることは拒み、ボロをまとったまま、堺の商人たち(のちの茶人たち)の力を借りて寺の再興を成し遂げた。
文明13年(1481年)、一休宗純は一条兼良と同じ年に、88歳で世を去った。臨終の際、彼は「死にたくない」という言葉を残したと伝えられている。高僧らしく微笑んで死ぬのではなく、最期まで生身の、不器用な人間の体温のまま、彼は生を駆け抜けた。
一休宗純という人生の無理は、あまりにも正直な魂のまま、あまりにも汚れた乱世を生きようとしたことにあった。
嘘にまみれた世の中で、彼一人だけが「裸の王様」を「裸だ」と言い続けた。だからこそ傷つき、狂うしかなかった。しかし、彼が叫び続けた怒りと愛の熱量があったからこそ、焦土となった都の民衆は、「まだ人間に絶望しなくていいのだ」と、かすかな救いを感じることができたのかもしれない。
(第12回 蓮如・終章へ続く)
いいなと思ったら応援しよう!
ありがとうございます。心より感謝申し上げます