【敗者たちの幕末・番外編 】土方歳三 剣で時代を止めようとした男――秩序の番人は、なぜ最後まで戦い続けたのか
渡辺崋山は私の原風景だ。高野長英は交差しなかったが胸がざわつく。鳥居耀蔵はどの組織にもいた。江川英龍は私たちだ。安倍正弘は、なりたかったのに、なれなかった男だ。松平春嶽は、なれたはずなのに、ならなかった男だ。徳川慶喜は、なりたくなかったのに、なってしまった男だ。小栗忠順は、なってはいけなかった男だ。松平容保は、ならされた男だ。榎本武揚は、なってしまった男だ。川路聖謨は、ならなかった男だ。
では土方歳三はなんだ。であり続けた男だ。秩序の番人であり続けた。最後まで、剣を置かなかった。
幕末には、死に方で記憶される人物がいる。生き方よりも、最後の姿が強すぎて、その人の全体像を覆ってしまう人物である。
土方歳三は、まさにその典型だろう。
新選組。鬼の副長。箱館戦争。そして戦死。
この流れは、あまりにも出来すぎている。物語として完成しすぎている。だから私たちは、つい土方歳三を「最後まで戦った男」としてだけ見てしまう。もちろん、それは間違いではない。
だが、それだけでは足りない。
本当に面白いのは、彼がなぜ最後まで戦ったのか、である。忠義のためか。意地のためか。新選組の誇りのためか。あるいは、戦うことしかできなかったからか。どれも一理ある。だが私は、土方歳三という人物の核心は、壊れていく秩序の側に、最後まで立ち続けたことにあると思う。
彼は、時代を作る人ではなかった。未来を設計する人でもなかった。理想を語る人でもなかった。むしろ彼は、すでにある秩序を守るために、自分を鍛え、他人を律し、組織を回す人間だった。
つまり土方は、ロマンの人である前に、制度の番人だったのである。
新選組という組織は、しばしば剣と血のイメージで語られる。たしかにそうだろう。だが新選組の本質は、単なる剣客集団ではない。それは、幕末京都において、幕府が必要とした治安維持装置であり、秩序維持のための実働部隊だった。
そして土方歳三は、その装置を最も苛烈に、最も現実的に動かした人間の一人である。
ここが重要だ。
土方は、ただ強かったから恐れられたのではない。組織を組織として成立させる冷酷さを持っていたからこそ、恐れられたのである。規律を守らせる。裏切りを許さない。内部を締める。戦える集団にする。こういう仕事は、たいてい嫌われる。だが、組織が本当に機能するためには、誰かがやらねばならない。土方は、その役を引き受けた。
いや、引き受けたというより、その役に最も向いていたのかもしれない。
ここで彼は、松平容保と少し似ている。どちらも秩序維持の側に立ち、汚れ役を引き受ける。だが容保が「断れない誠実さ」でそれを背負ったのに対し、土方はもっと能動的で、もっと苛烈で、もっと自分の役割に徹している。彼は、秩序を守るために必要なら、冷たくなれる。この冷たさがあるから、土方は単なる悲劇の人ではない。むしろ、かなり怖い。そして、その怖さこそが彼の魅力である。
土方歳三をただの「最後の武士」にしてしまうと、少し違う。彼はたしかに武士のように死んだ。
だが、生まれながらの武士ではない。むしろ、武士ではない者が、武士の秩序の番人になっていくところに、この人物のねじれがある。百姓の出。身分の外側から、武士の世界へ入り込む。そして、その武士たち以上に、規律と忠誠と組織の論理を体現していく。これはかなり面白い。
土方は、武士社会の外から来たからこそ、逆にその秩序を純粋に信じたのかもしれない。あるいは、信じたというより、自分がそこに居場所を持つために、誰よりも厳しくその秩序を守らねばならなかったのかもしれない。
この感覚は、かなり切実である。
もともとそこに属していた人間は、秩序に甘えることができる。だが外から入った人間は、甘えられない。自分がそこにいる資格を、常に示し続けなければならない。
土方歳三には、そういう緊張があったように思える。
だから彼は、規律に厳しい。だから彼は、裏切りを許さない。だから彼は、組織が壊れることを何より嫌う。
新選組とは、彼にとって単なる所属先ではない。自分が自分であるための秩序そのものだったのではないか。そう考えると、彼が最後まで新選組的なもの、あるいは旧幕府的な秩序の側に立ち続けた理由も見えてくる。
幕末が進むにつれ、土方の立場はどんどん苦しくなる。京都での新選組の役割は変質し、幕府そのものが揺らぎ、鳥羽・伏見以後は、もはや「秩序を守る側」がそのまま敗者の側になる。ここで多くの人間は、降りる。あるいは、別の秩序へ乗り換える。だが土方は降りない。ここが、この人物の最大の特徴である。
彼は、時代の流れが見えていなかったわけではないだろう。むしろ、かなり見えていたはずだ。旧幕府側が不利であることも、戦局が厳しいことも、もはや元の京都には戻れないことも、わかっていたに違いない。それでも戦う。それでも離れない。それでも最後まで旧幕府の側に立つ。
なぜか。
ここで「忠義」と言ってしまえば簡単だ。だが土方のそれは、少し違う気がする。彼が守ろうとしたのは、主君個人というより、自分が人生を賭けて作り上げた秩序のかたちだったのではないか。
新選組という組織。規律。戦う集団。幕府の治安維持装置としての役割。そうしたものが壊れていくとき、土方はそれを自分自身の崩壊として感じたのではないか。
だから彼は、降りられない。降りた瞬間、自分が何者だったのかが崩れてしまうからである。
彼は未来を作る人ではない。壊れていくものを、剣でつなぎ止めようとする人である。それは、あまりにも無謀だ。だが同時に、あまりにも美しい。
ただし、その美しさは、単なるロマンではない。そこには、組織を守る者の執念がある。
秩序の番人として生きてきた人間が、秩序そのものの崩壊を前にして、なお持ち場を離れない。この姿は、英雄というより、むしろ職業人に近い。
そして、その職業人が最後には剣しか残らなくなるところに、土方歳三という人物の悲劇がある。
彼は、剣で時代を変えようとしたのではない。むしろ、剣で時代を止めようとしたのである。そして幕末という時代は、止めようとする者に、ひどく残酷だった。
土方歳三を番外編に置く意味は、ここにある。
彼は、本編の人物たちのように、理性や制度や外交や国家構想の人ではない。だが、そうしたものがすべて壊れていくとき、最後に何が残るのかを体現している。
それは、剣であり、規律であり、持ち場を離れない意志である。
この敗北は、あまりにも古風で、あまりにも美しく、そしてあまりにも無力である。
だが、だからこそ人の心を打つ。
時代は止まらない。
制度は壊れる。
秩序は移り変わる。
それでもなお、最後まで持ち場を離れない人間がいる。
土方歳三とは、そういう人間だった。
彼は、時代を変えられなかった。未来を作れなかった。国家を救えなかった。
その意味で、たしかに敗者である。
だが、その敗北には、他の誰とも違う鋭さがある。
理性でもなく、構想でもなく、ただ自分の身体と意志だけで、壊れていく世界の前に立ち続けた敗北。それが、土方歳三という人物の、どうしようもなく強い魅力なのである。
幕末は、勝者の物語として語られやすい時代である。
だが本当は、その陰にいた敗者たちの中にこそ、時代の複雑さや痛みが濃く残っているのではないか。
このシリーズは、そんな思いから書いてきた。
ここで描いてきた人々は、無能だったから敗れたのではない。むしろ、早すぎる知性を持っていた者、才能が突出しすぎた者、正義を信じた者、実務を積み上げた者、理性を失わなかった者、未来を設計できた者、忠義を尽くした者、現実を知りすぎた者たちだった。
それでも彼らは、時代に敗れた。あるいは、時代の矛盾を一身に引き受けた末に、報われなかった。幕末は、単純に「新しいものが古いものに勝った時代」ではない。古い側にも未来はあり、新しい側にも暴力や排除はあった。正しい人が報われたわけでもなく、有能な人が生き残れたわけでもない。
何をしたか以上に、どちら側にいたか、どの役目を引き受けたかによって、人の運命は大きく分かれた。その残酷さこそが、幕末という時代の本質の一つだったのだと思う。
このシリーズで描きたかったのは、敗者の美化ではない。勝者の歴史だけではこぼれ落ちてしまう、知性、誠実さ、執念、矛盾、疲労、そして報われなさを拾うことだった。
敗者たちの姿を通して見えてくるのは、英雄の時代としての幕末ではなく、それぞれの立場で時代を背負い、そして背負いきれずに敗れていった人々の時代としての幕末である。
いいなと思ったら応援しよう!
ありがとうございます。心より感謝申し上げます