応仁の乱を生きた人々 第5回 山名宗全 前編
細川勝元が冷徹なチェスプレイヤーだったとするなら、その義父であり最大のライバルとなった山名宗全(持豊)は、盤面そのものをひっくり返す怒れる巨人として記憶されている。
赤ら顔で大柄、ひとたび怒れば周囲を震え上がらせるその風貌から、人々は彼を「赤入道」と呼んで恐れた。後世の歴史書や物語では、しばしば勝元の洗練された合理性に対抗する「野心に満ちた悪役」として描かれてきた。
しかし、本当にそうだったのだろうか。
もし彼がただ天下を乱したいだけの狂った野心家だったなら、あれほど多くの守護大名たちが命を賭けて彼のもとに集うはずがない。宗全の胸中には、少なくとも彼自身が正しいと信じる武士の道理が燃えていた。
泥をすすり、家を守る
山名家はかつて「六分の一殿」と称され、全国の六分の一を支配するほどの大大名だった。しかし三代将軍・義満の時代に幕府によって力を削がれ、没落の憂き目を見た。
宗全が家督を継いだとき、彼に課せられた至上命題はただ一つ——一族の誇りを取り戻し、山名家を二度と没落させないことだった。
彼はそのために泥をかぶることを恐れず、牙を研ぎ続けた。
嘉吉元年(1441年)、六代将軍・義教が暗殺された嘉吉の乱が起こると、宗全は先陣を切って首謀者の赤松氏を討伐した。この功績により、山名家はかつての栄光を取り戻し、細川家に匹敵する大守護へと返り咲いた。
宗全にとって、政治や戦とは、勝元のようにスマートに計算するものではなかった。一族の血と汗、踏みにじられた過去の怨念、そして「頼ってきた者を命懸けで守る」という泥臭い情義こそが、彼の正義の根幹だった。
論理に踏みにじられる「情理」
そんな宗全の前に、婿である細川勝元が立ちはだかった。
勝元は若く、聡明で、将軍・義政の信頼を背景に、法や論理を武器に政治を動かしていた。勝元が示す大名家調停の案は一見合理的だったが、宗全の目には「長年幕府に尽くしてきた武士たちの意地や歴史を、紙切れ一枚の理屈で踏みにじる冷酷な仕打ち」と映った。
象徴的だったのが畠山家の家督争いである。
宗全は武勇で家臣の支持を集めた猛将・畠山義就を支持した。しかし勝元は法的な血統論理を優先し、従順な畠山政長を後押しした。
「勝元の小賢しい理屈が、武士の情義を殺す」
宗全の不満は、多くの守護大名たちの不満でもあった。斯波家、土岐家、そして将軍家から切り捨てられた足利義視までもが、次第に宗全の巨体にすがるように集まってきた。
宗全は彼らの「駆け込み寺」となった。頼られた以上、赤入道の名にかけて引くわけにはいかない。それは野心というより、集まった者たちの期待と怨念をその太い腕で支え続ける、極めて武士らしい頑なな道理だった。
応仁元年(1467年)、勝元が先制攻撃の構えを見せると、宗全は西国から2万人を超える軍勢を京都へ呼び寄せた。
「細川の鼻を明かし、踏みにじられた者たちの意地を見せてやる」
その怒りは、本人にとっては義憤だった。
その時、宗全の胸にあったのは、揺るぎない確信だった。自分こそが、傷つけられた武士たちの無念を晴らす正義の味方なのだ——と。しかし、その情義の炎が、京都という都を地獄の業火で包むことになるとは、老将の胸算用には入っていなかった。
(後編へ続く)
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