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【鎌倉に呑まれた者たち】第3回和田義盛 

 人がいい、というのはたいてい褒め言葉だ。気前がいい。義理堅い。情に厚い。困っている者を見捨てられない。そういう人は好かれるし、いざという時には頼りにもなる。
 
 だが、その「人のよさ」が、そのまま生き残る力になるとは限らない。むしろ濁った政治のただ中では、人のよさは足かせになる。情に引かれ、面子を捨てきれず、筋を通そうとして、引くべきところで引けない。美点が、そのまま破滅につながることがある。
 和田義盛は、まさにそういう男だった。
 
 坂東武者らしい豪胆さと率直さ、そして厚い義理人情。源頼朝の挙兵以来の功臣として初代侍所別当に任じられ、鎌倉幕府の軍事と警察を担った。武勇は折り紙つきで、人望も厚い。梶原景時のように「感じが悪いから嫌われる」タイプとは対極にいる。むしろ、誰からも好かれる側の人間だった。
 
 だからこそ、この男の滅び方は胸に刺さる。嫌われて消えたのではない。愛され、慕われ、それでも滅んだのだ。しかもその原因は、武勇の不足でも野心の暴走でもない。人のよさと古武士の誇りが、変わりゆく時代とかみ合わなくなった末の破局だった。
 
 和田義盛は三浦一族の惣領格の一人であり、頼朝の挙兵にいち早く従った有力御家人である。源平の戦いで勲功を重ね、鎌倉の創業を現場で支えた。本来なら、政権が安定するほど重みを増してよい男だった。
 
 だが、頼朝の死後、鎌倉は功績より血縁、筋より先回りの政治がものを言う場所へと変わっていく。将軍は若く脆く、外戚たる北条氏は静かに、しかし確実に力を伸ばした。古参であることは安全の保証ではなくなり、むしろ兵を持ち、人望があり、坂東武者たちの核になりうる者ほど警戒されるようになる。
 
 義盛は、まさにその条件をすべて満たしていた。名門の出で、武勇があり、人が自然と集まる。侍所別当という公的な立場もある。本人に露骨な野心があったかどうかは別として、周囲から見れば十分に脅威だった。「その気になられたら困る」と思われた時点で、鎌倉ではもう危ういのである。
 
 しかも、義盛は北条義時とは肌合いが決定的に違った。義時は表向き穏やかだが、名目を整え、相手が動かざるを得ない状況をつくってから処理する政治家だった。対して義盛は、正面からしか生きられない。義理を感じれば動き、筋が通らないことはどうしても飲み込めない。平時には頼もしいが、権力闘争の渦中では危うい男だった。
 
 その危うさが形になったのが、建暦三年(1213年)の泉親衡の乱である。
 信濃源氏の泉親衡が、故・二代将軍頼家の遺児千寿丸を擁して北条義時打倒を企てたという陰謀が露見し、その与同者の中に義盛の子の義直・義重、甥の胤長の名があった。当時、義盛は所領の上総国伊北荘に下っており、鎌倉を留守にしていた。
 
 急報を聞いて駆けつけた義盛は、将軍実朝に赦免を嘆願する。三月八日、義直・義重は功臣の子として許された。だが翌九日、胤長だけは張本人として許されず、一族九十余名が控える将軍御所の南庭で、縄で縛られたまま引き立てられていった。武士にとって耐えがたい恥辱である。胤長は陸奥へ配流となり、鎌倉の屋敷も没収された。
 
 義盛にとって痛手だったのは、単に一族が罰せられたことだけではない。頼朝以来の功臣としての面目と、一族の秩序そのものが、公然と踏みにじられたと映ったことだろう。
 
 しかも、その屋敷は一度は義盛に与えられることになりながら、すぐに義時の家人である金窪行親と安東忠家へ下げ渡された。これが初めから和田一族を滅ぼすための挑発だったかどうかは、今も議論がある。だが、当事者の義盛にとって、それが挑発と映っても不思議ではなかった。
 
 人が滅びるとき、野心があれば話はわかりやすい。権力を欲し、無理をし、負けた。それで説明がつく。だが、義盛の最期にはそのわかりやすさがない。勝算があったから立ったというより、ここで立たなければ自分が自分でなくなる、という感覚の方が強かったのではないか。長く武士をやってきた者には、損得より先に面目がある。「ここで黙ったら終わりだ」という一線がある。和田義盛は、その一線を越えられなかった。いや、越えたくなかったのだろう。
 
 建暦三年五月二日、義盛はついに兵を挙げる。和田合戦である。
 義盛が最も頼りにしたのは、本家にあたる三浦氏の当主・三浦義村だった。義村は挙兵への同心を約し、起請文まで書いた。だが実際には弟の胤義と相談のうえ変心し、義盛謀反を義時に通報していた。『明月記』は以前から両者が対立関係にあったと記し、京都では叔父義澄亡き後の三浦の長者は義盛だと見られていた、という記述さえある。
 
 鎌倉は市街戦と化した。和田勢は奮戦し、三男朝比奈義秀の武勇はとくに目覚ましく、一時は幕府軍を押し込む場面もあったという。だが、義時と大江広元は将軍実朝の名で御教書を発し、御家人たちは次々と幕府側に集まった。由比ヶ浜に退いた和田勢は、翌三日、横山党らの援軍を得て再び勢いを盛り返したが、大勢は覆らなかった。
 
 夕刻までに和田一族は次々と討たれ、愛息義直の討死を聞いた老いた義盛は、声をあげて号泣したという。そこへ幕府軍が襲いかかり、義盛は討ち取られた。享年六十七。老いてなお前線に立ち、最後まで戦った。
 
 この最期だけを見れば、豪傑の末路である。だが、その豪傑らしさこそが彼を救わなかったのだろう。裏から回り、先に名目を整え、相手が怒る前に退路を奪う。そういう政治の作法に、義盛はなじめなかった。見ていて気持ちのいい生き方が、生き残る生き方とは限らない。
 
 当主の面子に付き合わされて死ぬ郎党がいる。家は絶え、子や孫の未来も消える。だから「見事だった」の一言で片づけることはできない。だが、その割り切れなさまで含めて、和田義盛という人間だったのだと思う。
 
 義盛の死後、和田一族は大きく没落した。それは単に一つの家が滅んだというだけではない。頼朝以来の古い武士たちが抱えていた「俺たちが鎌倉を作ったんだ」という自負そのものが、北条の時代の政治に押し流されていく象徴でもあった。
 
 和田義盛は、愛された男だった。だが、愛されることは鎌倉では命綱にならなかった。むしろ、その愛され方ごと、古い坂東武者の誇りごと、鎌倉に呑み込まれていったのである。


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