応仁の乱を生きた人々~善阿弥 ~焼け野原に、不滅の石を立てる
都が焼ける。屋敷が崩れる。昨日まで人が行き交っていた場所が、たちまち灰と泥に変わる。
そんな時代に、石を据え続けた男がいた。善阿弥である。
応仁の乱とは、そういうふうに、目に見える世界の形そのものが壊れていく戦だった。だが、壊れるそばから、また何かを置こうとする人間がいた。
彼は庭師である。しかも、ただの庭師ではない。もとは高い身分の出ではなく、低いところから這い上がってきたとされる。にもかかわらず、やがて足利義政に近づき、その美意識を地面の上に具現化する存在になっていく。東山文化というと、将軍の洗練や同朋衆の才覚が先に語られる。だが、その美を実際に石と土と水で定着させたのは、最後には手を動かす者たちだった。石を見て、土を読み、水の流れを聞き、全体の景色を組み立てる者がいなければ、美意識は空論のままで終わる。善阿弥は、その現場に立っていた。
庭は、絵や言葉とは少し違う。頭の中だけでは作れない。石は重い。土はぬかるむ。雨が降れば崩れ、火が回れば焼け、戦になれば踏み荒らされる。どれほど優れた構想があっても、最後は、人の身体が引き受けるしかない芸術である。善阿弥の仕事には、最初からその泥臭さと生々しさがまとわりついていた。
しかも彼が生きたのは、応仁の乱の時代である。せっかく整えた庭も、戦火の前では無力だったろう。丹念に据えた石も、屋敷が焼ければ、その景色ごと意味を失う。美しい庭を作るという営みは、乱世においてはひどくむなしい仕事にも見える。明日壊れるかもしれないものに、なぜ今日これほど手間をかけるのか——そう問われてもおかしくない。
それでも善阿弥は、石を立てた。庭というものが壊れるたび、人はまた次の景色を作る。焼け跡の地面を前にしても、庭師ならば、そこにどんな景色が置けるかを考えただろう。庭師とは、完成を誇る人間というより、壊れることを知りながらなお配置する人間なのかもしれない。永遠を信じているのではない。むしろ壊れやすさを知り抜いたうえで、それでも一瞬の景色を立ち上げようとする。その執念が、庭という形を取る。
善阿弥の面白さは、ここに身分の問題が重なるところにある。高貴な血筋でもなく、学問や家格で上がったのでもない。地面に近いところで働く人間が、その腕と眼で将軍のそばへ入り込んでいく。これはきれいな立身出世譚ではない。都の文化が、実はそうした草の根のような生命力を持つ者を必要としていた、ということだろう。秩序が揺らぐ時代には、家柄だけでは世界は保たない。壊れたものを前にして、次に何を置くかを考えられる者が要る。善阿弥は、その「次」を担った一人だった。
東山文化は、静かで、枯れていて、完成された美として語られがちである。だが、その静けさは最初から静かだったわけではない。むしろ、騒乱と焼亡のあとに、ようやく絞り出された静けさだった。石ひとつの位置、水の気配、余白の意味——そうしたものが切実になったのは、世界があまりに壊れやすいと知ったからではないか。善阿弥の庭には、そういう時代の痛みと感覚が深く沈んでいる。
焼け野原に立つ石は、城壁ではない。敵を防ぐことも、人を飢えから救うこともできない。だが、それでも人は石を立てる。景色を整える。荒れた地面の上に、ここにはまだ秩序がありうるのだと示そうとする。善阿弥の仕事とは、そういうかすかで、しかし頑固な抵抗だったのではないか。
不滅のものなど、本当はない。庭も壊れる。屋敷も焼ける。権力も移ろう。それでも彼は、また石を運んだだろう。泥に足を取られながら、汗にまみれながら、次の景色を作るために。
東山文化とは、そういう手の仕事の上に咲いた花でもあった。善阿弥は、そのことをいちばんよく知っていた人の一人である。
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