応仁の乱を生きた人々 第7回 畠山義就 前編
畠山政長が「法と手続き」という光の正義に生きたなら、その宿敵・畠山義就(よしひろ)は、「血と実力」という闇の正義に生きた男だった。
後世の歴史は、彼を「応仁の乱最大の戦犯」「戦乱を愛した狂犬」のように描くことが多い。確かに、彼の行くところには常に血の雨が降り、彼は死ぬまで刀を置かなかった。
しかし、幾度敗れても、義就のもとには再び兵が集まった。力だけでは説明できない求心力が、この男にはあった。
彼の胸にあったのもまた、絶対に譲れない武士の義だった。
「父から受け継ぎ、自分の力で守ってきたこの家を、なぜ都の文官や、戦いも知らない若造(政長)に譲らねばならないのか」
前シリーズコラム【敗者たちの幕末】で触れた高野長英が自らの知識を信じて時代に抗ったように、義就は自らの「武の力」こそが守護大名の真実であると信じていた。追われ、裏切られ、それでも牙を剥き続けたこの男の剥き出しの体温こそが、応仁の乱という時代の、もう一つの生々しい真実である。
父の愛と、裏切りの都
義就は、畠山家の巨頭・畠山持国の実子として生まれた。幼い頃から武芸に秀で、父からは後継者として期待されていた。
しかし、当時の武家社会では、強力すぎる実子の存在は周囲の恐れを買う。細川勝元らは、武力に優れた義就よりも、政長を支持した。幕府もその判断を追認し、義就は当主の座を追われる。そして代わりに、扱いやすそうな生真面目な青年・政長を据えたのである。
義就にとって、これほどの理不尽はなかった。
「血の繋がりも、父の遺言も、俺がこれまで流してきた血も、すべて無視するのか」
彼は激しく憤った。京都の大名たちが並べる「もっともらしい法や手続き」など、自分を排除するためのまやかしに過ぎない。守護大名とは、自らの実力で領国を従えるからこそ大名なのだ——。
都を追われた義就は、野生の獣のように地方を彷徨いながら牙を研ぎ続けた。吉野の山奥に潜み、地元の国人たちを味方につけ、幕府の討伐軍を何度も返り討ちにした。その圧倒的な強さと、一度狙った獲物は絶対に離さない執念は、やがて細川勝元に対抗しようとする山名宗全の目に留まることになる。
嵐の帰還
文正2年(1467年)1月、山名宗全の呼びかけに応じ、義就はついに京都への帰還を果たした。
彼が率いる軍勢が都の門をくぐったとき、京都の住民たちは恐怖に震え上がったという。長年の逃亡生活で鍛え上げられた義就の兵たちは、洗練された都の武士たちとは明らかに違う、獰猛な殺気を放っていた。
将軍・義政は、義就の帰京と西軍の勢いを前に、彼を畠山家の当主として承認した。
義就は笑ったに違いない。見ろ、結局は「力」なのだ。お前たちが並べていた法など、大軍の前には一瞬でひっくり返るではないか——と。
しかし、義就のその「力の正義」もまた、大いなる無理を含んでいた。
彼が復讐のために政長を御霊神社の森へと追い詰めたとき、自分の個人的な怨念が、日本全体を巻き込む大乱の引き金になることなど、どうでもよかった。
「政長の首をはね、俺の家を取り戻す。邪魔をする者は、将軍であれ細川であれ、すべて噛み殺す」
その猛々しい咆哮とともに、激戦の末、御霊神社の森は戦火に包まれた。義就が信じた「力の正義」は、ついに京都全体をのみ込む炎となった。
やがてその炎は、日本を戦国時代という果てしない闇へと引きずり込んでいく。
(後編へ続く)
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