クソ真面目とアホの二階建て ーー聖なるおしっことドラゴンズタオル事件
私のエッセイではお馴染み、19歳10カ月になる愛犬・八太郎は、昨年末から寝たきりの介護状態にある。さきほど、奴が尿意を催したようで「わん、わん」と哭(な)いた。すぐさま抱きかかえ、自宅の庭へと連れ出す。
八太郎は実に気持ちよさそうに用を足した。やれやれ、大仕事をひとつ終えたな、と安堵したのも束の間、私の手には八幡太郎様の聖なる(?)おしっこがかかっていた。いつもなら洗面所へ直行するのだが、たまたまその時は台所が近かった。
そこには洗面所の普通の薬用石鹸とは違う、ちょっと高級な石鹸が置いてある。私は念入りに、泡を立てて綺麗に手を洗った。
さて、手を拭くものは……と見渡すと、リビングの椅子の背に、カミさんが普段のウォーキングで首に巻いている中日ドラゴンズのマフラータオルが掛かっているではないか。
「まあ、石鹸で完璧に洗った後だし、問題なかろう」私はそのタオルで、ごく自然に水分を拭き取った。
これが、すべての発端である。目撃した妻は、当然ながら良い顔をしない。「やだぁ~、やめてよ!」と声が飛んできた。
すかさず私は反論する。「いいじゃないか、完璧に石鹸で洗った綺麗な手で拭いたんだから」。
聞いた話だが世間じゃあ、使ったバスタオルを何日も洗わない若者が増えているという。
「体を洗った後に拭くんだから、タオルは汚れない」という理屈だ。
今の私は、まさにその若者たちと同じ、極めて科学的かつ合理的なスタンスに立っていた。
しかし、妻の不機嫌は収まらない。そこで私は、長年研究してきた歴史比較文化の知識を総動員し、妻を煙に巻くための「超難解なレクチャー」を始めることにした。
「いいかね。君が嫌がっているのは、科学的な『清潔・不潔』の問題ではない。日本人が古代から脈々と受け継いできた『清(きよ)と穢(けがれ)』という精神構造の問題なのだよ」。
私は一気にまくしたてた。「たとえば、我が娘が20代前半で同居していた頃を思い出したまえ。私が娘の箸や茶碗で飯を食おうとしたら、娘は絶対に拒絶したはずだ。味噌汁のお椀だって、家族であっても個人の所有物として厳密に区別されている。これは西洋のカトラリーのように、単なる食事の『道具(機能主義)』として扱っていない証拠だ。日本人にとって箸や茶碗は、持ち主の霊性や身体が宿る『属人性』の延長線上にある。つまり、私の手は科学的には綺麗であっても、君の認識において『他者の身体領域の侵犯』であり、一種の『感覚的な穢れ』として処理されてしまったのだ。西洋ではフォークやナイフは比較的「共用の道具」として扱われるが、日本では箸や茶碗に、より強い属人性を感じる傾向がある。君のその拒絶反応こそが、まさに日本固有の伝統的な……」そこまで一息に、専門用語をこれでもかと散りばめて難解に説明したところで、ふと我に返った。
……私は一体、何を必死に弁明しているのだろう。犬のおしっこが手につき、カミさんのドラゴンズのタオルで勝手に手を拭いたという、ただそれだけの日常の不始末である。それを「日本人の穢れ意識」だの「西洋の機能主義との比較」だの、大層な学説を持ち出して言い訳している自分自身が、なんだか猛烈にアホらしくなってきて、思わず一人で吹き出してしまった。
私の高説を聞かされていた妻はといえば、呆れ果てたような顔で、ただ一言。「……そのタオル、今すぐ洗濯機に入れて来てくれる?」
我が家における「清と穢れ」の秩序は、今日も妻の圧倒的な現実主義によって、厳かに保たれている。
思えば私の日常は、常にこの「クソ真面目」と「アホ」の二階建てでできている。ブログでは、毎日2本の記事を同時投稿するという、もはや修行のような日々を送っている。
片方の脳みそでは、「今日の朝もエッセイのネタがない……」とのたうち回り、【もはや修行!地獄のエッセイ、ネタ探し】などという自虐タイトルで、必死に身を削って笑いを取りにいっている。
そして歴史の敗者たちの壮絶なドラマを描きながら、自分自身は家庭内での「タオルの不始末」という極小の敗者となり、必死に歴史比較文化で武装して言い訳を試みる。
だが、このアホなギャップを、フォロワーの皆様に「新苦労さんアホすぎる!」と笑ってもらえることこそが、地獄のネタ探しを続ける私にとって、最高のご褒美なのかもしれない。知らんけど。

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