【鎌倉に呑まれた者たち】第4回比企能員
――将軍に近すぎた男は、なぜ家ごと消されたのか
権力というものは、遠くにあるうちはまだましだ。近づけば近づくほど熱もあり、うまみもある。だが同時に、火傷もしやすい。とくに、自分では支えているつもりで近くにいる人間ほど危ない。本人にどれほど野心があるかは、案外それほど重要ではない。周囲から「あの男は近すぎる」と思われた時点で、もう十分に危ういのである。
比企能員という人を見ていると、そういう鎌倉の嫌なところがよく見えてくる。
比企能員は、鎌倉幕府二代将軍・源頼家の外戚である。頼朝の乳母・比企尼の養子として育ち、(頼朝が流人だった不遇の時代を仕送りで支え続けた比企尼の縁から)頼家の乳父となった。さらに娘の若狭局が頼家の側室となり、その子・一幡を産んだ。比企氏は将軍家の血筋に直接つながる家となった。鎌倉の政治において、将軍家との血縁は、そのまま権力の中枢に手をかけることを意味する。しかも能員は、ただの親戚ではなかった。一幡という次の将軍候補を擁する家の当主として、政権の行方そのものに関わる位置に立っていた。これはあまりにも強い立場であり、同時にあまりにも危うい立場でもあった。
頼朝が死に、若い頼家が将軍となったころ、政権はまだ固まりきっていなかった。誰がどこまでを握るのか、その境目は曖昧で、将軍を支える者たちのあいだでも主導権争いが続いていた。北条時政・政子らは外戚として将軍家を支えながら実権を握ろうとし、一方で頼家の側に近い者たちも、将軍を中心に自分たちの立場を固めようとする。能員はその最前線に立つことになった。
能員は、しばしば野心家として描かれる。頼家を後ろ盾に権勢を振るい、北条氏と対立し、ついに滅ぼされた男――たしかに、そういう見方もできる。あれほど将軍家に近い位置にいて、何も考えていなかったとは思えない。家のために動き、血縁を足場にする。それはこの時代の有力者として、むしろ自然なふるまいだったはずである。
だが、能員をただの野心家として片づけてしまうと、この人の怖さも、鎌倉の怖さも見えにくくなる。彼の危うさは、野心そのものよりも、将軍家の中心に位置しすぎたことそのものにあった。将軍を支えようとすればするほど、将軍を利用しているようにも見える。家のために動くことは当然でも、その当然がそのまま危険視される。しかも何が忠義で何が野心か、その境目は本人ではなく、周囲の都合で決まってしまう。鎌倉とは、そういう場所だった。
建仁三年〈1203年〉、頼家が病に倒れると、この危うさは一気に噴き出した。後継をどうするか。一幡を立てるのか、それとも頼朝のもう一人の子・実朝を立てるのか。これは単なる家族の相談ではない。背後にいる外戚――比企か北条か――のどちらが政権を握るかという、露骨な権力闘争である。
『吾妻鏡』によれば、時政らは能員に諮ることなく、関東二十八カ国の地頭職と総守護職を一幡に、関西三十八カ国の地頭職を実朝に分割する案を決めた。能員はこれに強く反発した。娘の若狭局を通じて病床の頼家に時政の専断を訴え、時政追討の命を得たとされる。一方、『愚管抄』などでは、頼家自身が一幡への全面継承を進めていたため、時政が危機感を募らせたと伝える。どちらにせよ、六歳の一幡が次の将軍になれば、その外祖父である能員が事実上の後見人となる。北条にとってそれは、自分たちが将軍家の外戚として握ってきた位置を、丸ごと奪われることを意味した。
時政は先手を打った。政子から密議の報を受けたとされる時政は、大江広元に相談したうえで、薬師如来の供養を口実に能員を自邸・名越邸に招く。能員は一族から武装を勧められたが、「かえって疑われる」と拒み、平服のまま少数の従者を連れて出向いた。門を入ったところを、待ち構えていた天野遠景・仁田忠常らに取り押さえられ、刺し殺された。
しかも終わり方は、能員一人の死では済まなかった。比企一族は一幡のいる小御所に立てこもり、政子の命を受けた軍勢に攻められた。館は火を放たれ、一幡もろとも滅びた。個人の排除ではない。将軍家に近い家を残せば、争いの芽は残る。ならば血筋ごと、可能性ごと断ってしまう――そういう冷徹な判断が透けて見える。六歳の一幡が消されたことこそ、この事件の本質を示している。能員個人の野心より、一幡という「次の将軍候補」の存在が、北条にとって許せなかったのである。
能員の悲劇はここにある。彼は、ただ一人の野心家として処分されたのではない。将軍家の中心に位置しすぎた家の当主として、家ごと危険視され、家ごと消されたのである。もちろん能員にも野心はあっただろう。家を強くしたい、外戚として主導権を握りたい、その思いがまったくなかったとは考えにくい。それ以前には、北条政子の妹婿・阿野全成を謀反の疑いで捕らえ、殺害する動きにも関わっていた。北条側から見れば、すでに脅威は十分に積み重なっていた。だがそれを責めるのは、この時代においては少し酷でもある。有力者が家のために動くのは当然だった。問題は、その当然のふるまいが、鎌倉ではそのまま「危険」と認定されうることだった。そして危険かどうかは、たいてい勝った側が決める。
能員は悪人だったのか。ここも簡単には答えられない。北条側から見れば、将軍家に食い込んだ危険な外戚だっただろう。だが頼家や一幡の側から見れば、将軍家を支える身内でもある。立場によってまるで違う顔を持つ。こういう人物は、歴史の中で損をしやすい。勝った側の物語では、どうしても「野心家」として整理されやすいからである。
しかもこの事件は、単なる一御家人の滅亡では終わらない。外戚を失った頼家は将軍の座を追われ、修禅寺に幽閉され、やがて暗殺される。一幡も消えた。比企能員の変は、将軍家の血筋そのものが北条の政治の中で整理されていく、その最初の大きな一撃でもあった。
能員は、将軍家に近づいた。その近さは家の栄光だった。だが同時に、家の死因にもなった。近い者ほど先に疑われ、近い者ほど先に消される。しかも消す側は、政権の安定のためだと言う。能員を、ただの野心家として片づけてしまうと、この事件は見えなくなる。この人はもっと曖昧で、もっと人間くさい。家のために動いた。将軍家を支えようともした。同時に、その位置を自分の力にも変えようとしたかもしれない。そのどちらも、たぶん本当だった。そしてその曖昧さごと、鎌倉では危険だったのである。
白か黒かではなく、半分正しく、半分危ない。そういう人間が、いちばん先に呑み込まれる。
能員は、敵に討たれたというより、将軍家の中心に位置しすぎた家として、鎌倉に丸ごと呑み込まれた男だった。家が消える。幼い後継が消える。未来そのものが消える。その消え方は、個人の死よりもはるかに冷たい。
畠山重忠は立派すぎ、梶原景時は有能すぎ、和田義盛は人がよすぎ、そして比企能員は将軍家に近すぎた。少しずつ形は違うが、どれもその人の持ち味や立場が、そのまま命取りになっている。鎌倉のいやらしさは、やはりそこにある。
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